津島 雄二(つしま ゆうじ、1930年1月24日 - 2023年10月25日[1][2])は、日本の政治家、大蔵官僚。位階は正三位。
衆議院議員(11期)、厚生大臣(71・84代)、衆議院予算委員長、自由民主党税制調査会長などを歴任[2]。政界引退後は弁護士、税理士として活動した。
旧姓は志摩、上野。妻は作家太宰治(本名:津島修治)の長女・津島園子。長男は衆議院議員の津島淳。
生涯・人物
東京府出身。1953年に東京大学法学部法律学科卒業後、大蔵省に入省[3]。大臣官房財務参事官室に配属[4]。フルブライト奨学生としてアメリカのシラキュース大学に留学[3]。その後、1963年に在フランス日本大使館1等書記官を務める[3]。
1990年2月、第2次海部内閣で厚生大臣に就任[5]。
1976年の初当選以来、宏池会(大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)に属していたが、1994年に下記の自民党離党に伴い離脱。
1994年、自社さ連立政権構想に反対し[2]、海部俊樹を説得し、非自社さ連立の統一候補へと担ぎ上げる。内閣総理大臣指名選挙では非自民連立の統一候補となった海部俊樹を支持し、自民党を離党する。高志会を経て7月に自由改革連合に参加後、新進党には加わらず、無所属を経て1995年3月、自民党に復党。
復党後は平成研究会(小渕派)に加入。2000年7月、第2次森内閣で2度目の厚生大臣に就任[6]。2005年11月4日、旧橋本派の後継会長に就任し、津島派を率いる。保守本流派閥と呼ばれた旧橋本派(竹下派→小渕派)の領袖に外様(元宮沢派)で出戻り(離党歴)という経歴を持つ津島が就任したことは自民党派閥の変化の一つとされている(ただし、宏池会も保守本流である)。平成研究会の人材不足の中、窮余の策として衆院の当選回数最多であった津島に白羽の矢が立ったのであった。このような事情と就任時75歳と高齢であったことから、会長とはいえ総裁候補という見方は全くなかった。
2006年には自民党税制調査会会長に就任。地方選出ながらふるさと納税には慎重な姿勢を示していた。
2008年11月19日、元厚生事務次官宅連続襲撃事件に関し、元厚生大臣として「厚生労働行政を批判してきた野党やマスコミの論調に原因の一端がある」との認識を示し、「厚生労働省の仕事の成果を評価できないような論評ばかり行われている。その結果、理不尽な行為につながったとすれば本当に残念だ」と述べた(この事件は後の捜査で政治的な目的のテロではないことが結論付けられたが、当時はマスコミなどを中心に年金テロとの見方が多かった)。
2009年7月19日、第45回衆議院議員総選挙に出馬しない意向を表明し、7月21日の衆議院解散に伴い、政界を引退した(後継として息子の淳が出馬)。こうした動きは週刊文春から「出世レースの敗北により転身した雇われマダム」「園子夫人頼みの平成無責任男」などと酷評された[7]。なお、平成研の後任会長には額賀福志郎が就任した[8]。
2023年10月25日、老衰のため、東京都内の病院で死去した[1][2]。93歳没。死没日付をもって正三位に叙された[9][10]。
経歴
政策
家族・親族
旧姓は志摩(父方姓)、上野(母方姓、3歳から)。
妻は作家太宰治(本名:津島修治)の長女・津島園子である。衆議院議員の津島淳は長男。元衆議院議員の津島恭一は遠戚にあたる。
- そのほかにも、津島康一(義従兄)など遠縁の著名人が多数いるが、ここでは津島雄二の親族に該当する者を中心に図示した。
所属していた団体・議員連盟
脚注
関連項目
外部リンク
官職 |
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![日本の旗](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9e/Flag_of_Japan.svg/25px-Flag_of_Japan.svg.png) 衆議院社会労働委員長 |
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