出羽 重遠(でわ しげとお、旧字体:出羽󠄀 重遠󠄁、1856年1月17日(安政2年12月10日) - 1930年(昭和5年)1月27日)は、日本の海軍軍人、華族。海軍大将正二位勲一等功二級男爵。
陸奥国の会津若松城下に、会津藩士である出羽佐太郎重信[1]を父として誕生。幼名は房吉。戊辰戦争では白虎隊に属して戦った。戦後、父が会津松平家御用掛として上京したのに伴われ、秋月悌次郎らから教育を受けている。
明治11年(1878年)8月16日、海軍兵学寮(5期)を卒業。同期に三須宗太郎大将。 防護巡洋艦浪速の回航委員として英国出張を命ぜられ、航海長として帰国。防護巡洋艦高千穂の分隊長、巡洋艦高雄の副長、砲艦赤城の艦長など現場経験を重ねるとともに、海軍省第一局第一課長(後の軍務局第一課長)、大臣官房人事課長といった軍政関係に配置された。
日清戦争を西海艦隊参謀長として迎え、明治27年(1894年)12月27日、大佐に昇進すると同時に連合艦隊参謀長へ異動。連合艦隊司令長官である伊東祐亨中将の補佐にあたる。日清戦争後は再び軍務局第一課長、軍務局軍事課長を務める。明治31年(1898年)山本権兵衛が海軍大臣に就任するとその次官に望まれた。出羽は斎藤實を推薦し、自らは装甲巡洋艦常磐の回航委員長となった[2]。明治33年(1900年)5月20日、少将へ昇進[3]と同時に常備艦隊司令官に補され、続いて軍務局長兼軍令部次長という軍政軍令の要職を兼任する稀な経験をしている[4]。
日露戦争に第三戦隊司令官として参戦。巡洋艦4隻を率いて、日本海海戦まで第一戦隊とともに第一艦隊に属して戦い、その後樺太作戦のために編成された第四艦隊の司令長官を務めた。日露戦争後、第二艦隊および佐世保鎮守府の各司令長官・教育本部長を務め、第一艦隊司令長官在任中の明治45年(1912年)7月9日大将へ昇進した。
それまで有栖川宮威仁親王以外の13人の海軍大将は全て旧薩摩藩出身者であり、加えて賊軍といわれた会津藩出身であったことから当時の新聞報道でも大きく扱われた。その後軍事参議官在任中にシーメンス事件査問委員長を務めている。
妻は会津藩士の大沼親誠の娘。妻の妹は海軍大将鈴木貫太郎夫人とよ[21]。妻の弟が大沼龍太郎である。
長男の重夫は海軍兵学校(34期)出身の海軍軍人で、海軍大尉で死去。重夫の娘は寺垣猪三、與倉守之助(海軍機関少将)の養女となる[22]。
次男の泰邦は海軍大将加藤定吉の養嗣子。
四男重芳は貴族院議員となった。
六男の常夫は北海道人の岩井鹿太郎の養子となり、飯野海運の監査役となった。
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