第二艦隊(だいにかんたい)は、日本海軍の部隊の一つ。第一艦隊とともに常設の艦隊で、ワシントン軍縮条約による大量廃艦の影響を受けた1921年度の1年間を除くと、1903年の創設から1945年の壊滅まで常時編制された。巡洋艦および巡洋戦艦を主力とした。
1903年12月28日、創設。常備艦隊を二分割し、戦艦を中心とする第一艦隊と別に、巡洋艦を中心に編制した。1904年2月9日、仁川沖海戦に第4戦隊が参加。8月14日、蔚山沖海戦に参加。1905年5月27日、日本海海戦に参加。1914年8月18日、第一次世界大戦に備えた臨戦態勢が完成。10月18日、膠州湾哨戒中の敷設艦高千穂が戦没する。10月31日、第二戦隊による青島艦砲射撃開始、陸軍の総攻撃により11月7日青島陥落。1919年12月1日、第一艦隊より第一潜水戦隊が転入し、最前線偵察力を担う。1921年12月1日、艦艇削減により一時解散。
1922年12月1日、再建される。1929年11月30日、第四戦隊総入れ替えのため、巡洋戦艦がすべて第一艦隊へ転籍、以後は重巡洋艦が第二艦隊の主力となる。1934年11月15日、第二航空戦隊を初めて編制、第二艦隊に所属し航空戦力を得る。1939年11月15日、水雷戦隊を増強、第四水雷戦隊を加え2個水雷戦隊を運用。1940年11月15日、第六艦隊新設のため潜水戦隊を供出。1941年4月10日、第一航空艦隊新設のため航空戦隊を供出。
12月8日、太平洋戦争が開戦。南方部隊の主力としてマレー、フィリピン方面に進出。第八戦隊が真珠湾攻撃に参加。1942年5月8日、第五戦隊が珊瑚海海戦に参加。6月4日、ミッドウェー海戦に参加。第七戦隊の三隈が戦没。7月14日、戦時編制改定により、第七、第八戦隊を第三艦隊に供出。第一艦隊から第三戦隊(金剛・榛名)を編入。8月24日、第二次ソロモン海戦に参加。10月13日、第三戦隊がガダルカナル島飛行場を夜間砲撃。10月26日 南太平洋海戦に参加。11月12日・13日、第四水雷戦隊が第三次ソロモン海戦(第一夜戦)に参加。11月14日・15日、第四戦隊(愛宕・高雄)が第三次ソロモン海戦(第二夜戦)に参加。11月30日 第二水雷戦隊がルンガ沖夜戦に参加。1943年4月1日、戦時編制改定により、第三戦隊を第三艦隊に供出。7月12日、第二水雷戦隊がコロンバンガラ島沖海戦に参加。7月20日、ソロモン戦での損耗により第四水雷戦隊を解隊。11月2日、第五戦隊がブーゲンビル島沖海戦に参加。11月5日、ブーゲンビル島逆上陸支援のためラバウルに進出するが、アメリカ軍機動部隊の空襲を受け、トラック島に後退。
1944年3月1日、空母艦隊である第三艦隊と編合して第一機動艦隊が編制された。航空主兵思想に切り替わったという見方もあるが、実体は2つの艦隊を編合したに過ぎないという見方もある。ただ、機動部隊における前衛部隊を軍隊区分によらずに指揮下の部隊から充当できた[1]。第三艦隊の司令長官が第一機動艦隊の指揮官を兼任し、第二艦隊はその指揮下に加わることになった。 機動部隊である第三艦隊が統一指揮を行ったのは、南太平洋海戦後の研究会で草鹿龍之介少将から「機動部隊指揮官が所在部隊を統一指揮する必要がある。第二艦隊司令長官が指揮するのは作戦上具合が悪い」と意見したことで、1943年8月に解決し、建制上は1944年3月になった[2]。
6月19日、マリアナ沖海戦に前衛部隊として参加。8月15日、第一戦隊(武蔵 ・大和・長門)と第三戦隊(金剛 、榛名)を編入。10月22日、レイテ沖海戦に出動。24日シブヤン海海戦で武蔵戦没、25日サマール沖海戦で戦果、被害多数、レイテ湾突入を断念。11月15日、戦時編制改定により第一機動艦隊解隊。1945年4月7日、坊ノ岬沖海戦で大和戦没、第二水雷戦隊壊滅。4月20日、解隊
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