水雷戦隊(すいらいせんたい)は、機雷・魚雷・爆雷などを使った水雷戦を行うことを目的に編成された、大日本帝国海軍の部隊の一つ。略字はSd[注 1]。
概要
水雷戦隊は日本海軍の部隊で、軍艦1隻と、駆逐艦3隻もしくは4隻からなる駆逐隊を、2隊以上束ねて編制されている[注 2][注 3]。
1914年(大正3年)に第一次世界大戦に備えた戦時編制で初めて編成され、主に水雷戦を行った。
日清戦争や日露戦争時代の水雷艇隊や駆逐隊は貨客船を改造した水雷母艦を、第一次世界大戦期の水雷戦隊は装甲巡洋艦を旗艦とする事が多かった[5][6]。その後、駆逐艦の性能向上や想定戦場の変遷にともない高速力と航続力を備えた防護巡洋艦が水雷戦隊旗艦となり、さらに雷撃力と各種性能を向上させた軽巡洋艦が旗艦となった[注 4]。
太平洋戦争では、駆逐艦が旗艦になることも散見される[注 5]。水雷戦隊の指揮官は司令官と呼ばれ、通常少将が任命された。
また駆逐隊の指揮官は駆逐隊司令と呼ばれ、通常大佐もしくは中佐が任命された[注 6]。なお、駆逐隊の略字はdgである。
アメリカ海軍主力艦隊を仮想敵とした漸減邀撃作戦では、日本海軍の水雷戦隊は戦艦部隊に匹敵する重要戦力と位置づけられていた。夜間に敵主力艦隊に肉薄し、雷撃戦により敵戦艦を撃破することを想定していた[注 7]。
第二次世界大戦では練習戦隊を含め最大7個の水雷戦隊が編成された[注 8]。太平洋戦争においては日本海軍が開戦前に想定していたような日米艦隊決戦は生起せず、水雷戦隊は輸送作戦(鼠輸送)やその護衛部隊として各地の局地戦に投入され、戦果を挙げると同時に大きな被害をうけた。
1945年(昭和20年)4月7日の坊ノ岬沖海戦で、旗艦「矢矧」と参加駆逐艦8隻中4隻[注 9]を喪失した第二水雷戦隊が同月20日に解隊される。5月20日に十一水戦と第三十一戦隊で海上挺進部隊が編成されたが、7月15日に第十一水雷戦隊も解隊され、ここに全ての水雷戦隊が解隊した。
解説
対米戦での位置付け
日露戦争以後、日本海軍はアメリカ海軍を仮想敵として戦略を立てるようになった。ワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約で海軍力に制限がかけられると、漸減邀撃作戦を元に兵力優勢な敵主力艦隊への対抗手段を立案した。数的劣勢を強いられた日本海軍の駆逐艦は個艦性能を充実させ、それらを統一的に運用する水雷戦隊は漸減作戦を実施するため雷撃能力に特化した性格をもち、対空・対潜・海上護衛という側面は後回しにされた。
太平洋戦争直前の日本海軍が想定していた日米艦隊決戦において、水雷戦隊は戦艦部隊に匹敵する対米戦の機軸戦力になりつつあった。決戦部隊は主力部隊(第一艦隊を基幹とする戦艦部隊、昼間砲撃戦をおこなう)と、前進部隊(第二艦隊司令長官を指揮官とする重巡洋艦と水雷戦隊)に区分されていた。水雷戦隊が独力で敵警戒部隊を排除・突破して敵主力艦隊へ雷撃をおこなうことは不可能と判断され、水雷戦隊に重巡洋艦戦隊を組み合わせて運用することになっていた。
昼間戦時は、まず航空決戦が行われて日本軍が制空権を掌握し、その制空権下で水上艦同士の艦隊決戦がおこなわれる。日本側の決戦部隊は第二艦隊司令長官が指揮する前衛部隊と、第一艦隊司令長官が指揮する本隊に分離して接敵し、前衛部隊は巡洋戦艦1個戦隊・巡洋艦3~4個戦隊・2個水雷戦隊(二水戦、四水戦)・重雷装艦2隻を、主隊は戦艦2個戦隊、巡洋艦1~2個戦隊、2個水雷戦隊(一水戦、三水戦)を擁する。巡洋戦艦(金剛型戦艦)は砲撃力で敵巡洋艦部隊を圧倒し、重雷装艦(北上、大井)を含む日本巡洋艦部隊の雷撃を支援する。つづいて本隊の戦艦部隊は敵主力艦を、巡洋艦部隊は敵護衛艦艇を攻撃する。日本軍水雷戦隊は巡洋艦の火力支援下で敵主力艦に肉薄し、雷撃をおこなう。
太平洋戦争開戦時の夜戦部隊は、以下の通りであった。
- 第二艦隊司令長官(夜戦部隊指揮官)直率部隊(高雄型重巡洋艦4隻の第四戦隊)
- 支援隊(金剛型戦艦4隻の第三戦隊)
- 第一夜戦群(第一夜戦隊、第二夜戦隊)
- 第二夜戦群(第三夜戦隊、第四夜戦隊)
第四戦隊と第三戦隊は第一夜戦群、第二夜戦群に含まれず、火力支援と夜戦全体の指揮をおこなった。
第一水雷戦隊
略称は一水戦。主力の戦艦部隊(第一艦隊)を護衛するための水雷戦隊であり、第二艦隊の所属である第二水雷戦隊よりやや旧式の駆逐艦で構成された。太平洋戦争開戦直前に想定していた日米艦隊決戦における夜戦では、一水戦と第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)で第三夜戦隊を編成する。太平洋戦争開戦時は、引き続き第一艦隊に所属していた。第一水雷戦隊司令官および阿武隈と第17駆逐隊は南雲機動部隊警戒隊として真珠湾攻撃やセイロン沖海戦に至るまで第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将)と行動を共にし、第6駆逐隊や第21駆逐隊は南方作戦に、第27駆逐隊は第五航空戦隊と共に珊瑚海海戦に参加するなど、分散して行動した。
第二段作戦から北方に転戦し、北方部隊(指揮官は第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将)の指揮下でアリューシャン列島の作戦に従事した(アリューシャン方面の戦い、アッツ島増援作戦、アッツ島沖海戦など)。ただしミッドウェー作戦時の第27駆逐隊と第24駆逐隊[注 10]は、連合艦隊旗艦大和を基幹とする主力部隊に所属していた。また一水戦所属だった第17駆逐隊が新編の第十戦隊へ転出し、一方で第十戦隊の第7駆逐隊(潮、漣、曙)が北方部隊に編入されてアリューシャン作戦に参加した。大規模な水上戦闘はアッツ島沖海戦が生起したのみで、北方部隊麾下の駆逐艦は空襲や敵潜水艦により損耗した[注 11]。
1943年(昭和18年)4月1日、北方方面を担当する第五艦隊(司令長官河瀬四郎中将)に制式に編入された[61]。6月6日、旗艦阿武隈座乗中の第一水雷戦隊司令官森友一少将が脳溢血で指揮不能になり、ビスマルク海海戦で負傷し療養中の木村昌福少将(前職、第三水雷戦隊司令官)が第一水雷戦隊司令官に補職された。
7月のキスカ島撤退作戦以後は、第五艦隊の僚艦と共に北海道や千島列島の防備を担当した。
1944年(昭和19年)2月15日には第五艦隊司令長官が志摩清英中将に代わる。
6月中旬にサイパン島の戦いがはじまると、一水戦を含む第五艦隊、戦艦山城、第十一水雷戦隊によるサイパン島逆上陸作戦が立案された。
捷号作戦では第二遊撃部隊に所属し、小沢機動部隊の水上兵力の基幹であった。ところが台湾沖航空戦で残敵掃討のため先行して出撃を命じられ、その後の所属と作戦計画は混乱を極めた。結局、10月下旬のレイテ沖海戦では志摩艦隊としてスリガオ海峡に突入するが、10月25日の夜戦で一水戦旗艦の軽巡阿武隈が被雷したため(退避中の10月26日に沈没)、木村昌福司令官は駆逐艦霞に将旗を掲げた。つづいて一水戦はレイテ島の戦いに伴う強行輸送作戦(多号作戦)に従事した。
同時期、阿武隈の代艦として軽巡木曾が内地からフィリピンへ派遣されるが、マニラ到着直後に空襲をうけて大破着底する。また11月中旬の第三次多号作戦で旗艦島風沈没と共に第二水雷戦隊司令部が全滅したため、第一水雷戦隊は二水戦に改編される形で解隊された。
沿革
編制
1939年11月15日 昭和十五年度艦隊編制(第一艦隊所属)
1940年11月15日 昭和十六年度艦隊編制(第一艦隊所属)
1941年11月5日(機密連合艦隊命令作第一号) 南雲機動部隊警戒隊(第一航空艦隊所属)
- 阿武隈(警戒隊旗艦、大森仙太郎第一水雷戦隊司令官)
- 旗艦の阿武隈と第17駆逐隊は真珠湾攻撃にむかう機動部隊(指揮官南雲忠一第一航空艦隊司令長官)の警戒隊として参加した。これは、第一航空艦隊所属の駆逐艦が旧式であり航続力が短いためであった[注 12]。大森少将(阿武隈)はセイロン沖海戦が終わって日本本土に帰投するまで警戒隊指揮官を務め、他部隊からの編入艦を指揮した。
1941年12月10日 太平洋戦争開戦時の編制(第一艦隊所属)
- 阿武隈
- 第六駆逐隊:雷、電、響、暁
- 第十七駆逐隊:浦風、磯風、谷風、浜風
- 第二十一駆逐隊:初春、子日、若葉、初霜
- 第二十七駆逐隊:有明、夕暮、白露、時雨
1942年4月10日 セイロン沖海戦後の編制(第一艦隊所属)
- 阿武隈
- 第六駆逐隊:雷、電、響、暁
- 第二十一駆逐隊:初春、子日、初霜、若葉
- 第二十四駆逐隊:海風、山風、江風、涼風
- 第二十七駆逐隊:有明、夕暮、白露、時雨
1942年7月14日 ミッドウェー海戦後の編制(第一艦隊所属)
- 阿武隈
- 第六駆逐隊:雷、電、響、暁
- 第二十一駆逐隊:初春、子日、初霜、若葉
1943年4月1日 ガダルカナル島撤退後の編制(第五艦隊所属)
- 阿武隈
- 木曾[61](阿武隈が修理で不在の間、臨時の一水戦旗艦)
1943年7月29日 キスカ島撤退作戦(第二期、第二次撤退作戦)時の編成(機密北方部隊命令作第20号)
- 総指揮官:河瀬四郎第五艦隊司令長官
- 指揮官:木村昌福第一水雷戦隊司令官
- 主隊/第五艦隊司令長官:多摩〈第五艦隊臨時旗艦〉
- 収容隊/第一水雷戦隊司令官:阿武隈、木曾、
- 収容駆逐隊/第十駆逐隊司令:第十駆逐隊(夕雲、風雲、秋雲)、第六駆逐隊(響)、第九駆逐隊(朝雲、薄雲)
- 第一警戒隊/第二十一駆逐隊司令:第二十一駆逐隊(若葉、初霜)、第三十一駆逐隊(長波)
- 第二警戒隊/島風駆逐艦長:島風、五月雨
- 補給隊/日本丸監督官:タンカー日本丸、海防艦国後
- 幌筵待機部隊:重巡洋艦那智、摩耶、特設巡洋艦粟田丸
- 若葉、初霜、国後、日本丸は幌筵島を出航するも、キスカ島到達前に離脱[注 14]
1944年4月1日 戦時編制制度改定後の編制(第五艦隊所属)
1944年8月15日 マリアナ沖海戦後の編制(第五艦隊所属)
- 阿武隈
- 第七駆逐隊:曙、潮
- 第十八駆逐隊:薄雲、霞、不知火
- 第二十一駆逐隊:初春、初霜、若葉
歴代司令官
- 岡田啓介少将:1914年(大正3年)12月1日~
- 土屋光金少将:1915年(大正4年)5月1日~
- 岩村俊武少将:1915年(大正4年)12月13日~
- 松村龍雄少将:1916年(大正5年)9月1日~
- 田所広海少将:1916年(大正5年)12月1日~1917年(大正6年)2月7日 ※一時解隊
- 中島資朋少将:1918年(大正7年)4月25日~
- 島内桓太少将:1919年(大正8年)12月1日~
- 大谷幸四郎少将:1921年(大正10年)12月1日~
- 長沢直太郎少将:1922年(大正11年)12月1日~
- 中村良三大佐:1923年(大正12年)11月6日~ ※司令官心得
- 中村良三少将:1923年(大正12年)12月1日~
- 高橋律人少将:1924年(大正13年)12月1日~
- 八角三郎少将:1925年(大正14年)12月1日~
- 高橋寿太郎少将:1926年(大正15年)12月1日~
- 岡田郁男少将:1927年(昭和2年)12月1日~
- 市村久雄少将:1928年(昭和3年)12月10日~
- 後藤章少将:1929年(昭和4年)11月30日~
- 岩村兼言少将:1930年(昭和5年)10月14日~
- 有地十五郎少将:1931年(昭和6年)12月1日~
- 町田進一郎少将:1933年(昭和8年)11月15日~
- 南雲忠一少将:1935年(昭和10年)11月15日[80] ~
- 斎藤二朗少将:1936年(昭和11年)12月1日[109] ~
- 吉田庸光少将:1937年(昭和12年)1月26日 ~ 1938年(昭和13年)11月15日[110]
- 栗田健男少将:1938年(昭和13年)11月15日[110] ~ 1939年(昭和14年)11月25日[111]
- 河瀬四郎少将:1939年(昭和14年)11月25日[111] ~ 1940年(昭和15年)10月15日[81]
- 大森仙太郎少将:1940年(昭和15年)10月15日[81] ~ 1942年(昭和17年)11月5日[82]
- 森友一少将:1942年(昭和17年)11月5日[82] ~ 1943年(昭和18年)6月8日[83]
- 木村昌福少将:1943年(昭和18年)6月8日[83] ~ 1944年(昭和19年)11月20日[87](第二水雷戦隊へ改編)
第二水雷戦隊
略称は二水戦。前進部隊であり、強力な装備と長大な航続力が要求され、常に最新の駆逐艦が投入された。艦隊決戦における夜戦では、二水戦と第五戦隊(妙高、那智、羽黒)[注 15]により第一夜戦隊を編成した。
太平洋戦争開戦時は引き続き第二艦隊に所属し、南方作戦にともなう比島作戦や蘭印作戦に参加した。ミッドウェー作戦では輸送船団の護衛部隊となった。1942年(昭和17年)7月以降は、二水戦にも白露型駆逐艦が配備された。
1943年(昭和18年)7月中旬のコロンバンガラ島沖海戦で旗艦神通が沈没し、二水戦司令部は全滅する。日本海軍は、二水戦と第四水雷戦隊を統合して二水戦を再建した(第四水雷戦隊司令官高間完少将が二水戦司令官に補職[119]、旗艦長良)。
1944年(昭和19年)11月中旬の多号作戦で旗艦島風が沈没して二水戦司令部は全滅し、第一水雷戦隊司令部を二水戦に転用した(第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が二水戦司令官に補職)[87][88]。また第十戦隊を解隊し、同部隊所属の陽炎型駆逐艦や秋月型駆逐艦を編入した[注 16]。
1945年(昭和20年)4月7日の坊ノ岬沖海戦で所属艦の大半を喪失し、4月20日付で第二艦隊と共に解隊された。所属艦の変遷や歴代司令官など、詳細は当該記事を参照のこと。
編制
1941年12月10日 太平洋戦争開戦時の編制(第二艦隊所属)
- 第18駆逐隊は真珠湾攻撃部隊の警戒隊として参加した。
1942年4月10日 セイロン沖海戦後の編制(第二艦隊所属)
- 神通
- 第十五駆逐隊:黒潮、親潮、早潮
- 第十六駆逐隊:初風、雪風、天津風、時津風
- 第十八駆逐隊:霞、霰、陽炎、不知火
1942年7月14日 ミッドウェー海戦後の編制(第二艦隊所属)
1943年4月1日 ガダルカナル島撤退後の編制(第二艦隊所属)
1943年9月1日 新型軽巡洋艦「能代」編入時の編制(第二艦隊所属)
1944年4月1日 戦時編制制度改定後の編制(第二艦隊所属)
- 島風は同型艦がないため、駆逐隊を組まず単独で所属していた。
1944年8月15日 マリアナ沖海戦後の編制(第二艦隊所属)
- 能代
- 第二駆逐隊:清霜、秋霜、早霜
- 第二十七駆逐隊:時雨、五月雨
- 第三十一駆逐隊:長波、沖波、岸波、朝霜
- 第三十二駆逐隊:藤波、玉波、浜波
- 島風
1945年3月21日 菊水作戦直前の編制(第二艦隊所属)
第三水雷戦隊
略称は三水戦。解隊と再編を幾度も繰り返している。太平洋戦争で活躍した第三水雷戦隊は、1940年(昭和15年)5月1日に第一艦隊隷下において再編された部隊である[131]。新任の三水戦司令官は藤田類太郎少将[132]、旗艦は軽巡洋艦川内であった[133]。日米艦隊決戦における夜戦では、三水戦と第八戦隊(利根、筑摩)で第四夜戦隊を編成する。
太平洋戦争開戦時はひきつづき第一艦隊に所属し、司令官は橋本信太郎少将であった[134]。緒戦は南方作戦に参加、馬来部隊(指揮官小沢治三郎南遣艦隊司令長官)としてマレー作戦や蘭印作戦に従事した。1942年(昭和17年)5月から6月のミッドウェー作戦では、連合艦隊司令部(旗艦大和)を含む主力部隊を護衛した。
8月からガダルカナル島の戦いに投入され、第三水雷戦隊司令官が外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)増援部隊指揮官として、ガ島戦に参加した[注 18]。
1943年(昭和18年)2月初旬のガ島撤収作戦成功後[注 19]、橋本信太郎少将の後任に木村昌福少将が内定し、2月14日付で第三水雷戦隊司令官に補職された[143]。ガ島撤収後の外南洋部隊増援部隊(指揮官/第三水雷戦隊司令官)は、川内、第8駆逐隊(大潮、荒潮)、第9駆逐隊(朝雲)、第10駆逐隊(秋雲、風雲、夕雲)、第11駆逐隊(白雪、初雪)、第16駆逐隊(雪風、時津風)、第19駆逐隊(浦波、磯波)、第22駆逐隊(皐月、文月、長月)、夕霧という戦力であった。
2月中旬にラバウルへ移動した木村少将(三水戦司令官)は軽巡川内に将旗を掲げるが、第八十一号作戦実施にあたり駆逐艦白雪を旗艦とした。3月3日のビスマルク海海戦で白雪は沈没し、木村少将は敷波に移乗した。木村少将は負傷して入院し、三水戦司令官に江戸兵太郎少将が補職された[149]。まもなく秋山輝男少将が三水戦司令官に任命された[150]。
4月1日、昭和十八年度帝国海軍戦時編制により第一艦隊から第一水雷戦隊と第三水雷戦隊が除かれ、第三水雷戦隊は南東(ソロモン海域)方面を担当する第八艦隊に編入された。また第四艦隊隷下の第二海上護衛隊に所属していた軽巡夕張が同部隊から除かれ、第三水雷戦隊に編入された。第八艦隊には軽巡洋艦龍田が所属していたが舵取機に深刻な故障を抱えており、同日付で新編された第十一水雷戦隊(訓練部隊)旗艦へ転出している。
引き続き三水戦に所属する川内も、修理と整備のため内地に帰投し、三水戦司令官は夕張を旗艦として作戦をおこなった。その後、秋月型駆逐艦新月がラバウルに進出して秋山少将の旗艦となるが、ニュージョージア島の戦いに伴うクラ湾夜戦で新月が沈没し、秋山少将は戦死[156]、第三水雷戦隊司令部は全滅した。
新月沈没により三水戦司令部が全滅したため、伊集院松治大佐[注 20]が第三水雷戦隊司令官に任命された[160]。新司令官着任まで、重巡鳥海艦長有賀幸作大佐が増援部隊の指揮を執った。なお前述のように第三水雷戦隊には軽巡洋艦夕張が配備されていたが触雷の被害を受けており、伊集院司令官は内地での修理を終えてラバウルに戻ってきた軽巡川内に将旗を掲げて出撃した。また駆逐艦秋雲を臨時の旗艦として作戦に臨むこともあった(セ号作戦、第二次ベララベラ海戦など)。11月初頭のブーゲンビル島沖海戦で川内が沈没すると、三水戦司令部は駆逐艦五月雨と天霧を経由して、軽巡夕張に将旗を掲げた。
12月前半は所属艦を修理と休養にあてることになり、12月2日に三水戦司令部は将旗をラバウル陸上に移した。12月16日、三水戦司令官は伊集院少将から中川浩少将に代わった[172]。
1944年(昭和19年)2月になると連合軍の空襲が激化し、三水戦司令官指揮下の駆逐艦は漸次ラバウルから撤退した。2月20日、駆逐艦夕月(夕張が内地帰投中のため、臨時の三水戦旗艦)と水無月は南東方面における最後の駆逐艦輸送をおこない、パラオにむかった。3月10日、三水戦と駆逐艦3隻(松風、秋風、夕凪)は中部太平洋方面艦隊(司令長官南雲忠一中将)に編入された。
4月28日、三水戦旗艦の夕張が潜水艦ブルーギルの雷撃で沈没し、三水戦司令部は駆逐艦夕月に救助されてサイパン島に移動した。日本海軍は、中部太平洋方面艦隊に所属する軽巡洋艦名取を第三水雷戦隊に編入した。名取は6月5日に呉を出発、ダバオ輸送を実施したあとパラオに移動する。この間にサイパン島の戦いがはじまって三水戦司令部はサイパン島から脱出できなくなり、7月8日のサイパン島陥落時に玉砕した。中部太平洋方面艦隊の消滅により、第三水雷戦隊は連合艦隊付属となる。連合艦隊は三水戦を対潜部隊として再建する意向であった。8月15日、三水戦司令官に再び江戸兵太郎少将が任命される[180]。8月20日、三水戦残存部隊を中心に第三十一戦隊(旗艦五十鈴)が新編された。江戸少将(三水戦司令官)が第三十一戦隊司令官に補職されている[181]。
編制
1940年5月1日 再編時の編制(第一艦隊所属)
1940年11月15日 昭和十六年度艦隊編制(第一艦隊所属)
1941年12月10日 太平洋戦争開戦時の編制(第一艦隊所属)
1942年4月10日 セイロン沖海戦後の編制(第一艦隊所属)
1943年4月1日 ガダルカナル島撤退後の編制(第八艦隊所属)
1944年4月1日 戦時編制制度改定後の編制(第八艦隊所属)
- 夕張
- 第二十二駆逐隊:皐月、水無月
- 第三十駆逐隊:卯月、夕月
1944年8月15日 マリアナ沖海戦後の編制(連合艦隊直属)
歴代司令官
※解隊、残余艦艇は第三十一戦隊へ改編(江戸少将も第三十一戦隊司令官となる)[181]
第四水雷戦隊
元々は潜水艦の増強により潜水艦部隊の編制が計画された際に、それまでの3個水雷戦隊に次いで大正五年度から第三艦隊隷下に組織された戦隊で、潜水母艦韓崎と駒橋、および2個潜水艇隊で編制された。この頃は新兵器である潜水艇(潜水艦)をどう運用するか試行錯誤していた時代であり、潜水艇も「潜航できる水雷艇」という認識で水雷戦隊として編成した。その後1919年(大正8年)4月1日に「潜水艇」を「潜水艦」へ、「潜水艇隊」を「潜水隊」へ、それぞれ名称変更をおこなう。同時に四水戦も第一潜水戦隊へ改称した。この制度変更にともない、第四水雷戦隊は解隊された。
1933年(昭和8年)以来、日本海軍は海軍大演習のたびに仮想敵(赤軍)として第四艦隊を編成した。この第四艦隊に臨時編成の第三水雷戦隊と第四水雷戦隊が含まれていた。1935年(昭和10年)9月26日の第四艦隊事件では、四水戦(旗艦「那珂」)として行動していた駆逐艦初雪と夕霧の船体切断という被害を受けた。
1937年(昭和12年)7月28日、日本海軍は第九戦隊(妙高、多摩)、第三水雷戦隊(軽巡北上、第23駆逐隊、第1水雷隊、第21水雷隊)、第四水雷戦隊(軽巡木曾、第6駆逐隊、第10駆逐隊、第11駆逐隊)を新編した。四水戦の旗艦は軽巡洋艦木曾であった[209](司令官細萱戊子郎少将、参謀森下信衛中佐ほか)[196]。四水戦は第二艦隊麾下に編制され、その後は第三艦隊(四代目)、第四艦隊(二代目)に所属した。1938年(昭和13年)4月19日に解隊された[210][211]。
1939年(昭和14年)11月15日に第二艦隊の隷下において再編され、新任司令官には栗田健男少将が任命された[111]。旗艦は軽巡那珂であった[212]。日米艦隊決戦では、四水戦と第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)で第二夜戦隊を編成する。
太平洋戦争開戦時は引き続き第二艦隊に所属していた。四水戦司令官は西村祥治少将であった[213]。緒戦では南方作戦に参加、比島部隊/蘭印部隊として戦果をあげるが、1942年(昭和17年)3月末のクリスマス島の戦いで旗艦の軽巡那珂が大破し、旗艦は軽巡由良となった[215]。
ミッドウェー作戦の四水戦は、大部分が攻略部隊本隊[注 32](指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)として行動し、第4駆逐隊は南雲機動部隊の警戒隊(指揮官木村進第十戦隊司令官)として空母の直衛となった。4月10日付で四水戦に編入されていた第8駆逐隊は第七戦隊司令官栗田健男中将を指揮官とする支援隊に編入され[注 33]、最上型重巡洋艦を護衛した。ミッドウェー海戦後、四水戦司令官は西村少将から高間完少将に代わった[223]。
ガ島戦従事中の同年10月中旬以降、四水戦司令官は幾度か秋月型駆逐艦秋月を旗艦として作戦に臨んだ。10月下旬、ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍の総攻撃に呼応にしたガ島支援作戦において、空襲を受けた由良が沈没する。同時に旗艦秋月も損傷したため、四水戦司令官は駆逐艦村雨を経て駆逐艦朝雲に将旗を掲げた(南太平洋海戦)。同時期には天龍型軽巡洋艦も一時的に増援部隊に編入されており、11月7日から9日かけて軽巡天龍が臨時の四水戦旗艦となっている。第三次ソロモン海戦時の四水戦旗艦は朝雲であった。
新鋭軽巡阿賀野の第十戦隊編入にともない、従来の第十戦隊旗艦長良が11月20日付で四水戦に編入され、同水戦旗艦を務めた(11月下旬から翌年1月下旬まで、舞鶴で修理)。1943年(昭和18年)7月20日、四水戦は第二水雷戦隊を再編するため解隊され、四水戦司令部は二水戦司令部に改編された[119]。
編制
1915年(大正4年)新編時
1937年7月28日 再編時(第二艦隊所属)
1939年11月15日 再編時の編制(第二艦隊所属)
1940年11月15日 昭和十六年度艦隊編制(第二艦隊所属)
1941年12月10日 太平洋戦争開戦時の編制(第二艦隊所属)
- 那珂
- 第二駆逐隊:村雨、夕立、春雨、五月雨
- 第四駆逐隊:嵐、萩風、野分、舞風
- 第九駆逐隊:朝雲、山雲、夏雲、峯雲
- 第二十四駆逐隊:海風、山風、江風、涼風
1942年4月10日 セイロン沖海戦後の編制(第二艦隊所属)
1942年7月14日 ミッドウェー海戦後の編制(第二艦隊所属)
- 由良
- 長良(由良沈没後、11月20日付で編入)
- 第二駆逐隊:村雨、夕立、春雨、五月雨
- 第九駆逐隊:朝雲、夏雲、峯雲
- 第二十七駆逐隊:有明、夕暮、白露、時雨
1943年4月1日 ガダルカナル島撤退後の編制(第二艦隊所属)
- 長良
- 第二駆逐隊:春雨、五月雨
- 第二十七駆逐隊:有明、夕暮、白露、時雨
歴代司令官
- 岩村俊武少将:1915年(大正4年)6月30日~
- 松岡修蔵少将:1915年(大正4年)12月13日~
- 岡野富士松少将:1917年(大正6年)4月1日~
- 菅野勇七少将:1917年(大正6年)12月1日 ~ 1919年(大正8年)4月1日 ※第一潜水戦隊に改称したことで解隊
- 細萱戊子郎少将:1937年(昭和12年)7月28日[196] ~ 1938年(昭和13年)4月19日[211] ※解隊
- 栗田健男少将:1939年(昭和14年)11月25日[111] ~ 1940年(昭和15年)11月1日[213]
- 西村祥治少将:1940年(昭和15年)11月1日[213] ~ 1942年(昭和17年)6月20日[223]
- 高間完少将:1942年(昭和17年)6月20日[223] ~ 1943年(昭和18年)7月20日[119] ※解隊され、二水戦に再編。
第五水雷戦隊
国際連盟脱退後の1933年(昭和8年)5月20日に施行された艦隊平時編制の標準では、連合艦隊の常設、航空戦隊の正式編入、第一・第二遣外艦隊の廃止が盛り込まれた。第十戦隊・第十一戦隊・第五水雷戦隊により第三艦隊が編制されたが、第五水雷戦隊は編成されなかった[注 37]。
実際の第五水雷戦隊は1934年(昭和9年)11月15日付で編制され、中国大陸沿岸部で活動した[247]。
1939年(昭和14年)11月25日付で解隊され、当時の五水戦司令官河瀬四郎少将は将旗を軽巡洋艦長良より撤去する[238]。河瀬少将は第一水雷戦隊司令官へ転任した[111]。
太平洋戦争緒戦で活躍した第五水雷戦隊は1940年(昭和15年)11月15日に新編され(司令官原顕三郎少将)[248]、軽巡洋艦名取と、旧式駆逐艦(睦月型、神風型)で編制された。当初は連合艦隊直属部隊で、1941年(昭和16年)4月10日に第三艦隊が新編されると、同艦隊に編入された。7月下旬から第二遣支艦隊の指揮下で南部仏印進駐(ふ号作戦)に従事した。
太平洋戦争緒戦では第二艦隊・第三艦隊各部隊と共に南方部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に所属し、南方作戦にともなう菲島作戦や蘭印作戦に従事した。バタビア沖海戦では夜戦で勝利をおさめた。初期戦略目標の攻略達成に伴い、第五水雷戦隊は1942年(昭和17年)3月10日付で解隊され、原少将は第十六戦隊司令官に任命された[256]。
4月10日、日本海軍は第三艦隊と南遣艦隊を再編する形で南西方面艦隊を新編した。五水戦に所属していた第22駆逐隊は4月10日に新編された第一海上護衛隊に編入され、また第5駆逐隊も南西方面での海上護衛任務に従事した[注 38]。
編制
1937年(昭和12年)4月1日 支那事変当時(第三艦隊所属)
1940年11月15日(再編)~ 1941年12月10日(太平洋戦争開戦時)の編制(第三艦隊所属)
歴代旗艦
- 龍田:1934年(昭和9年)11月15日 - 1935年(昭和10年)11月15日[263]
- 夕張:1935年(昭和10年)11月15日[263] - 1937年(昭和12年)12月7日[264][265]
- 長良:1937年(昭和12年)12月7日[265] - 1939年(昭和14年)11月25日[238] ※解隊
- 名取:1940年(昭和15年)11月15日 - 1942年(昭和17年)3月10日 ※解隊
歴代司令官
第六水雷戦隊
略称は六水戦。先代の六水戦は、1935年(昭和10年)11月15日付で解隊された[263]。
1940年(昭和15年)11月15日、内南洋防衛を担当する第四艦隊(三代目)隷下において再編された。六水戦司令官は阿部弘毅少将[248]。軽巡夕張と旧式駆逐艦(睦月型、神風型)で編制された。新編以来弱小部隊だった第四艦隊は、ようやく水雷戦隊を保有することができた。
太平洋戦争開戦直前、第二航空戦隊所属の第23駆逐隊(菊月、卯月、夕月)と第五航空戦隊所属の駆逐艦朧は南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官、旗艦「鹿島」)に編入され、六水戦を含む南洋部隊と行動を共にした。六水戦(司令官梶岡定道少将)[278]は初戦のウェーク島攻略戦で疾風(第29駆逐隊)と如月(第30駆逐隊)を喪失する。その後も、六水戦は南洋部隊としてラバウル攻略戦、ラエ・サラモア攻略作戦(ラエ・サラモアへの空襲)などに従事した。
1942年(昭和17年)4月10日の戦時編制改訂にともない、第23駆逐隊が制式に第六水雷戦隊に編入される。だが珊瑚海海戦で菊月が失われ、第23駆逐隊は5月25日付で解隊された(夕月は第29駆逐隊へ、卯月は第30駆逐隊に編入)[286]。6月からはパプアニューギニア方面の輸送作戦や、ガダルカナル島飛行場建設任務に従事する。
同作戦実施中の7月10日付で六水戦は解隊され、夕張・第29駆逐隊・第30駆逐隊は第四艦隊隷下の第二海上護衛隊[注 39]。に編入された。このうち第30駆逐隊(睦月、弥生、望月、卯月)は7月14日に新編された第八艦隊に転籍した。
編制
1940年11月15日(再編) ~ 1941年12月10日(太平洋戦争開戦時)の編制(第四艦隊所属)
1942年4月10日 セイロン沖海戦後の編制(第四艦隊所属)
1942年5月25日 菊月沈没にともない第23駆逐隊解隊後の編制(第四艦隊所属)
歴代司令官
第十一水雷戦隊
略称は十一水戦。練成部隊として1943年(昭和18年)4月1日に編制された。旗艦は軽巡洋艦龍田であった。夕雲型駆逐艦では玉波以降、秋月型では新月や若月以降、松型では松以降の各艦および島風型駆逐艦島風が竣工後に編入され、練成を行った。また駆逐艦霞や春雨など、長期修理を終えた艦艇の練成もおこなった。ミッドウェー海戦からガ島撤退直前まで第十戦隊司令官を務めた木村進少将が[注 40]、十一水戦司令官に任命された[298]。その後、木村少将は大杉守一少将の後任として12月3日付で第十戦隊司令官に任命され[299]、十一水戦は司令官空席となった。
12月15日付で第二水雷戦隊司令官の高間完少将が十一水戦司令官に補職された(後任の二水戦司令官は、早川幹夫少将)[300]。
十一水戦は訓練を主任務とするが、輸送任務にも投入された。1943年(昭和18年)9月末からは日本陸軍の南方輸送作戦「丁号輸送」任務に従事する。1944年(昭和19年)3月には松輸送に従事し、この東松二号船団を護衛中に龍田が撃沈された[注 41]。
つづいて舞鶴海軍工廠での修理を終えた軽巡洋艦長良が、5月15日付で十一水戦に編入された。戦局の逼迫にともない、十一水戦はサイパン島逆上陸作戦(実施直前に中止)[注 42]、小笠原諸島方面輸送作戦(伊号作戦輸送)と沖縄方面輸送作戦(呂号作戦輸送)を実施する。一連の作戦終了後の8月7日に長良が潜水艦クローカーに撃沈され、第十一水雷戦隊司令官は駆逐艦桑を経由して軽巡洋艦多摩に将旗を掲げた。
捷一号作戦において小沢機動部隊(指揮官小沢治三郎第三艦隊司令長官)の水上兵力が不足したため、第三十一戦隊と十一水戦は臨時に機動部隊に編入された。10月18日、十一水戦司令官は旗艦を多摩から駆逐艦檜に変更した。多摩と駆逐艦杉は小沢機動部隊[注 43]としてレイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)に参加。多摩は空襲で損傷し単艦で避退中の10月25日、潜水艦ジャラオの雷撃で沈没した。12月上旬より阿賀野型軽巡酒匂を旗艦としたが、燃料不足のため満足な訓練もできなかった。
1945年(昭和20年)4月1日、第二艦隊に編入される。直後の坊ノ岬沖海戦で第二艦隊は主戦力を喪失する。4月20日の第二艦隊と第二水雷戦隊の解隊により、十一水戦と第三十一戦隊は連合艦隊付属となった。5月下旬には日本海に回航され、舞鶴周辺で待機した。また第十一水雷戦隊と第三十一戦隊の艦艇で5月20日付で海上挺進部隊部隊が編成され、軽巡北上や駆逐艦に人間魚雷回天が搭載された。7月15日、十一水戦は解隊された。
編制
1943年4月1日 新編時の編制(第一艦隊所属)
1943年9月30日 丁三号輸送部隊(日本陸軍甲支隊輸送任務)
1944年4月1日 戦時編制制度改定後の編制(連合艦隊直属)
- 龍田(東松二号船団旗艦として行動中の3月13日、潜水艦の雷撃で沈没)
- 長良(5月15日付で十一水戦に編入)
1944年7月中旬 呂号作戦輸送(南西諸島方面への日本陸軍第28師団兵力輸送作戦)
1944年8月15日 マリアナ沖海戦後の編制(連合艦隊直属)
- 長良(第二航空艦隊の南西諸島方面作戦輸送後の8月7日、潜水艦の雷撃で沈没)
- 多摩(8月30日より第十一水雷戦隊旗艦となるが、小沢機動部隊に編入されてレイテ沖海戦に参加する。潜水艦の雷撃で沈没)
1945年3月1日 菊水作戦直前の編制(連合艦隊直属)
1945年6月1日 最終時の編制(連合艦隊直属)
歴代司令官
関連項目
- 以下の2個戦隊は、水雷戦隊と同様に軽巡を旗艦に複数の駆逐隊で編制されるが、水雷戦ではなく対空や対潜といった護衛任務に重点を置いた戦隊である。
脚注
注釈
- ^ 第一水雷戦隊は1Sd、第二水雷戦隊は2Sdとなる。以下、三水戦は3Sd、四水戦は4Sd、五水戦は5Sd、六水戦は6Sd、十一水戦は11Sdと表記した。
- ^ 戦隊艦隊は編制に応じ戦隊に区分する。戦隊は軍艦2隻以上または軍艦と駆逐隊・もしくは潜水隊をもって編成し、或は航空隊2隊以上をもって編成し、主たる構成兵力によってその名称を定め、同一名称のときは更に番号を冠称する。例えば第1戦隊、第1水雷戦隊、第2航空戦隊、第3潜水戦隊等。陸軍航空においても空中戦闘部隊が戦隊の名称を用いた。例えば第98戦隊。
- ^ 艦隊 帝國海軍の組織は、前記の如く海上及び陸上の兩部に大別されてゐるが、海上武力の根幹は、艦隊である。艦隊は、各種の艦艇を一系亂れざる統制の下に結合し、各々その特性を十分に發揮せしめ、全隊としての能力を作戰の要求に適合せしめ、而も均衡のとれたものとして、その戰闘力を最高度に發揮せしめるために編成されるもので、一般に、戰隊・水雷戰隊・潜水戰隊・航空戰隊に、特務艦その他の艦種を附属として編成される。/以上の内容中、戰隊とは、戰艦又は巡洋艦各二隻以上を以て編成するもの、水雷戰隊とは、軍艦一隻と驅逐隊(驅逐艦二隻以上を編成せるもの)二隊以上を以て編成するもの、潜水戰隊とは軍艦及び潜水隊(潜水艦二隻以上を編成せるもの)二隊以上を以て編成するもの、航空戰隊とは航空母艦を以て編成するものをいふのである。但し、艦隊の内容は、時の状況によって異る場合もあるが、少くとも、獨立して一方面の戰闘に從事し得る内容を持つことを必要とする。/現在、帝國海軍の平時編制は、第一艦隊・第二艦隊・第三艦隊・練習艦隊の四隊であるが、この中各科少尉候補生實務練習のための練習艦隊及び支那沿岸揚子江流域の警備の任にある第三艦隊は、その特殊任務の關係上、第一、第二の兩艦隊とは、編制の内容が著しく異ってゐる。/第一、第二の兩艦隊は、誰でも知ってゐる如く、聯合艦隊を形成するものであって、帝國海上國防の根幹をなし、一朝有事に際しては、直ちに戰線に臨み得るの用意が常になされてゐるものである。
- ^ 五、水雷戰隊 驅逐艦は、分離別働し得べき最少單位ではありますが、其の戰闘力は小さすぎて、一隻丈では成功の望みが少ないために、其の幾隻かを集めて一隊を編制し、其の兵力を集合して有力なる戰闘單位としなければなりません。これが即ち驅逐隊であります。そして驅逐艦の本務は水雷戰を其の職分とし、特に夜間の接戰を任務とする關係上、之に適するやうな編制が必要であります。現今四隻編制が最も良いと考へらえてゐますが、三隻編制としてゐる處もあります。/そして多數の驅逐艦を運用、指揮統率し、協同動作を遂げさせるために編制せられたものを、水雷戰隊と稱するのであります。通常一隻の旗艦と數隊の驅逐隊とから編成せられ、その指揮統率のため将官を配し、別に快速巡洋艦一隻を其の旗艦とし全隊の指揮統率を司るのであります。
- ^ 朝潮型駆逐艦霞(多号作戦、一水戦旗艦)、夕雲型駆逐艦長波(ルンガ沖夜戦、二水戦旗艦)、島風型駆逐艦島風(多号作戦、二水戦旗艦)、吹雪型駆逐艦白雪(ビスマルク海海戦、三水戦旗艦)、秋月型駆逐艦新月(クラ湾夜戦、三水戦旗艦)、陽炎型駆逐艦秋雲(第二次ベララベラ海戦、三水戦旗艦)、秋月型駆逐艦秋月(南太平洋海戦、四水戦旗艦)、朝潮型駆逐艦朝雲(第三次ソロモン海戦、四水戦旗艦)など。
- ^ 一等驅逐艦 “白雪 しらゆき”“初雪 はつゆき”“吹雪 ふぶき”(要目略)驅逐艦と云ふものは同型艦が3隻又は4隻で1個の驅逐隊を編成してゐる。そして艦の艦首附近兩側にその驅逐隊の番號を白く現はしてゐる。こゝに竝んだ3隻が各11の數字を入れてゐるのがそれで、即ちこれは第十一驅逐隊に属する諸艦である。
この驅逐隊はその中の一艦を司令驅逐艦に定めそれには通例大佐級の人が司令として座乗する。右端初雪の檣頭に翻へつてゐるのがその司令驅逐艦たることを示す司令旗である。この3隻は共に1,700頓級の特型驅逐艦で浦波と同一威力を誇る我が海軍の驅逐艦中の新鋭である。この雪級(ゆきクラス)でもう1隻“深雪 みゆき”があつたが昭和9年艦隊に属して訓練中不慮の災厄により夭折したのは返へす返へすも殘念であつた。
- ^ 水雷戰隊の猛進 果てしなき洋上の陽も已に水平線上から全く没し、宵闇次第に迫らうとするとき、礫の如く猛進して行く水雷戰隊。水雷戰隊は數個の驅逐隊を以て編成され巡洋艦が旗艦となつてこれを指揮統率する。/防禦力の薄弱な驅逐艦を以て編成されてゐる水雷戰隊が夜襲を最も得意とすることは當然のことである。勝れた速力と優つた魚雷力を以て夜暗に乗じて奇襲する捨身の戰法、しかも必ず敵を倒さずば已まぬ緻密周到な行動。水雷戰隊は主力艦隊にとつて最も大きな夜の脅威でなくてはならぬ。/3萬噸の巨體に36糎又は40糎の威力を載せ警戒怠りなく航行中の敵主力艦隊の眞只中に向つて、銘刀の鞘を拂つて敵大軍に飛び込んで行つたあの白虎隊の如く、奮迅的猛襲を敢行する水雷戰隊は實に勇壮極まりなきものであり、これぞ勇敢機敏を以て自負する我等日本人の傳統的精神と最もよく合致したものであらう。この寫眞の先頭を切るのは水雷戰隊の旗艦神通で以下これにつゞくは麾下の各驅逐艦である。
- ^ 第一水雷戦隊(第一艦隊所属。1944年11月20日解隊)。第二水雷戦隊(第二艦隊所属。1945年4月20日解隊)。第三水雷戦隊(第一艦隊所属。1940年5月1日新編。1944年8月15日解隊)。第四水雷戦隊(第二艦隊所属。1939年11月15日新編。1943年7月20日解隊)。第五水雷戦隊(第三艦隊所属。1940年11月15日新編、1942年3月10日解隊)。第六水雷戦隊(第四艦隊所属。1939年11月15日新編、1942年7月10日解隊)。第十一水雷戦隊(連合艦隊付属。1943年4月1日新編、1945年7月15日解隊)。
- ^ 坊ノ岬沖海戦で大和を護衛した駆逐艦は、第17駆逐隊(磯風、雪風、浜風)、第21駆逐隊(朝霜、初霜、霞)、第41駆逐隊(冬月、涼月)。戦闘で4隻(磯風、浜風、朝霜、霞)が沈没し、3隻(涼月、冬月、雪風)が損傷した。
- ^ 太平洋戦争開戦時の第24駆逐隊は第四水雷戦隊所属で、1942年(昭和17年)4月10日付の再編で四水戦から一水戦に編入された。
- ^ 1942年(昭和17年)6月12日、空襲で駆逐艦響が損傷。7月5日、潜水艦により駆逐艦霰と子日が沈没し不知火と霞が大破。10月17日の空襲で朧が沈没し初春が大破。1944年(昭和19年)3月16日、潜水艦により白雲が沈没。同年7月7日、潜水艦により薄雲が沈没。
- ^ 10月1日時点の第一航空艦隊。第一航空戦隊(赤城、加賀、第7駆逐隊〈潮、漣、曙〉)、第二航空戦隊(蒼龍、飛龍、第23駆逐隊〈菊月、夕月、卯月〉)、第四航空戦隊(龍驤、春日丸、第3駆逐隊〈汐風、帆風〉)、第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、駆逐艦〈秋雲、朧〉)。
- ^ 第九駆逐隊は第四水雷戦隊に所属してガダルカナル島攻防戦に従事したが、サボ島沖海戦で夏雲が沈没、ビラ・スタンモーア夜戦で峯雲が沈没し、第一水雷戦隊に転籍した[61]。峯雲の除籍とともに白雲と薄雲を編入し[103]、朝潮型駆逐艦と吹雪型駆逐艦の混成部隊となった。
- ^ 濃霧により本隊と逸れた「国後」が「阿武隈」と衝突、この影響により撤収部隊の単縦陣は大混乱となり、陣形後方にいた「初霜」と「若葉」と「長波」の衝突事故を誘発した「若葉」は単独で、「初霜」は「国後」の指揮の下「日本丸」の護衛に付き、補給隊と共に離脱した
- ^ 第五戦隊は1940年(昭和15年)5月1日付で、重巡那智と羽黒で新編された。妙高型重巡3番艦足柄は第二遣支艦隊旗艦を務めていたが、太平洋戦争開戦前に第三艦隊・第十六戦隊に編入された。
- ^ 最終時の第十戦隊は、軽巡洋艦矢矧、第17駆逐隊(浦風、磯風、浜風、雪風)、第41駆逐隊(霜月、冬月、涼月)であった。駆逐艦浦風は11月21日に、駆逐艦霜月は11月25日に、潜水艦の雷撃で沈没した。
- ^ 山風は6月下旬に潜水艦ノーチラスに撃沈されており、二水戦編入は書類上の措置。8月20日付で除籍[129]。
- ^ 外南洋部隊増援部隊指揮官は、当初田中頼三第二水雷戦隊司令官だったが、8月下旬に増援部隊指揮官の職務を更迭されてしまう。第三水雷戦隊司令官の橋本信太郎少将が、外南洋部隊増援部隊の指揮官となった。11月初旬、増援部隊指揮官の職務は二水戦司令官に復帰した。翌年1月19日に増援部隊指揮官木村進第十戦隊司令官が負傷したため、第三水雷戦隊司令官が外南洋部隊増援部隊指揮官となった。日本軍によるガダルカナル島撤収作戦は成功した。
- ^ 三水戦司令官橋本信太郎少将(外南洋部隊増援部隊指揮官)は夕雲型駆逐艦巻波を旗艦として作戦にのぞみ、巻波が第一次撤収作戦で損傷後すると吹雪型駆逐艦白雪に将旗を掲げた。
- ^ 当時の伊集院大佐は戦艦金剛艦長であった。11月1日付で海軍少将へ進級した[159]。
- ^ 吹雪型駆逐艦の薄雲は日中戦争で損傷し舞鶴海軍工廠で修理中、復帰後は第六駆逐隊や第二十一駆逐隊に編入されたあと、1943年4月1日付で第九駆逐隊へ編入された[103]。
- ^ 開戦から間もなく東雲が沈没し、1942年(昭和17年)1月15日付で第十二駆逐隊より削除[182]、3月10日付で十二駆そのものが解隊された[183]。叢雲は第十一駆逐隊へ、白雲は第二十駆逐隊に編入された[183]。
- ^ 12月24日、狭霧は潜水艦の雷撃で戦没した。翌年1月15日付で第二十駆逐隊より削除[182]。
- ^ 第20駆逐隊は942年8月下旬のガダルカナル島輸送作戦で空襲を受け朝霧が沈没、夕霧と白雲が大破し、10月1日付で解隊された[185]。健在の天霧は第八艦隊に所属したあと第十一駆逐隊に、夕霧は修理を終えて第十一駆逐隊に編入された[186]。修理後の白雲は、第九駆逐隊に編入された[103]。
- ^ 川内は4月10日にラバウルを出発してトラック泊地に後退、重巡青葉曳航任務を終えたあと、5月4日から内地で修理と整備をおこなった。7月8日、ラバウルに到着した。
- ^ 夕張は7月5日にブインで機雷により損傷し、秋山少将は将旗を秋月型駆逐艦新月に掲げてクラ湾夜戦に参加した。夕張は17日にラバウルを出発、7月下旬より内地で修理をおこなった。修理完了後の11月3日、ラバウルに到着した。ブカ島輸送を実施後、11月8日より三水戦旗艦となった。
- ^ 7月以降のニュージョージア島の戦いで初雪が沈没し(10月15日付で除籍)[190]、11月下旬に夕霧がセント・ジョージ岬沖海戦で撃沈され、12月15日付で解隊された[191]。
- ^ 第二十二駆逐隊は1942年(昭和17年)12月10日付で解隊されたが[192]、1943年2月25日付で新編された[186]。
- ^ 第三十駆逐隊は1942年(昭和17年)12月1日付で解隊されたが[193]、1943年(昭和18年)3月31日付で新編された[194]。
- ^ 同年12月5日付で、中川少将(当時、戦艦日向艦長)は南東方面艦隊司令部付となった[198]。
- ^ 同年8月10日付で、江戸少将(当時、横須賀海軍警備隊司令官兼横須賀海兵団長)は軍令部出仕となった[200]。
- ^ 攻略部隊本隊の編成。第四戦隊第1小隊(愛宕〈第二艦隊旗艦〉、摩耶)、第五戦隊(妙高、羽黒)、第三戦隊第1小隊(金剛、比叡)、軽巡由良、第2駆逐隊、第9駆逐隊、空母瑞鳳、駆逐艦三日月、タンカー4隻。他に特務艦千代田、日進。
- ^ 攻略部隊・支援隊の編成。第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)、タンカー日栄丸。
- ^ 那珂は潜水艦シーウルフの雷撃で大破しており、シンガポールで修理中[240]。四水戦の臨時旗艦は駆逐艦夏雲で[240]、本土帰投後に軽巡由良[215]へ旗艦を変更した。6月15日、那珂は横須賀鎮守府予備艦となり、第四水雷戦隊から除かれた。
- ^ 第八駆逐隊所属の大潮と満潮はバリ島沖海戦で受けた損傷を修理するため、5月15日付で第8駆逐隊より除籍された[241]。満潮は同年10月[242]、大潮は同年12月に再編入された[243]。
- ^ 山雲は触雷により修理中、1942年5月15日付で第9駆逐隊より削除された[241]。横須賀鎮守府を拠点に船団護衛任務に従事したあと、1943年9月15日付で第十戦隊隷下の第四駆逐隊に編入された[244]。
- ^ 1933年(昭和8年)5月21日時点の第三艦隊(司令長官米内光政海軍中将)は、第十戦隊(装甲巡洋艦出雲、軽巡天龍、第27駆逐隊)、第十一戦隊(海防艦対馬、砲艦安宅、宇治、隅田、伏見、鳥羽、勢多、堅田、比良、保津、熱海、二見、第24駆逐隊、浦風)。
- ^ 船団護衛のため分散行動が多く駆逐隊を編制する必要が薄れ、第22駆逐隊は同年12月10日付で解隊された[192]。第5駆逐隊は1943年2月25日付で解隊された[186]。
- ^ 第二海上護衛隊は1942年4月10日付で新編された。第四根拠地隊司令官茂泉愼一中将が、二海護司令官を兼務した。6月15日より武田盛治[291]少将であった。
- ^ 木村少将は1943年1月19日に第十戦隊旗艦の駆逐艦秋月が潜水艦に雷撃された際に負傷、1月21日付で第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将が第十戦隊司令官に横滑りした[297]。
- ^ 龍田(東松二号船団旗艦、指揮官は十一水戦司令官)は3月13日にアメリカ軍潜水艦サンドランスの雷撃で沈没し、十一水戦司令官は将旗を陽炎型駆逐艦野分に掲げ、引き続き東松二号船団を率いた。
- ^ サイパン島地上戦にともない、サイパン島を包囲する米軍を突破して同島に日本陸軍を上陸させる作戦。十一水戦(長良、駆逐艦冬月、清霜等)のほか、戦艦山城や第五艦隊で実施予定だった。
- ^ 機動部隊の軍隊区分においては、多摩艦長山本岩多大佐指揮下の巡洋艦戦隊(多摩、五十鈴)を編成していた。
- ^ 丁三号輸送作戦中の1943年10月1日付で第32駆逐隊に駆逐艦玉波が編入されたが[321]、この時点では別行動。
出典
参考文献
- 生出寿『連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6。
- 勝目純也『日本海軍潜水艦百物語 ホランド型から潜高小型まで水中兵器アンソロジー』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年12月。ISBN 978-4-7698-3097-9。
- 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8。
- (75-86頁)戦史研究家伊達久『航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨』
- (110-117頁)当時由良の機械分隊長・海軍大尉上村嵐『乗艦由良わが訣別の絶唱を聞け 敵機の空爆によりガ島輸送に殉じた長良型四番艦の沈没遭難体験記』
- (118-123頁)当時「阿武隈」副長・海軍中佐斎藤弥吉『ケ号作戦に燦然たる「阿武隈」の戦功 第一水雷戦隊旗艦として有名を馳せた長良型6番艦の航跡』
- (124-130頁)当時「川内」水雷長・海軍少佐浅野市郎『俊鋭軽巡「川内」タロキナ岬沖の悲運 速力三十五ノット五五〇〇トン最終発展型軽巡のブーゲンビル島沖海戦』
- (148-161頁)当時「夕張」航海長・海軍少佐津田武彦『袖珍軽巡「夕張」ソロモンへの片道切符 船団を護衛して魔の海域に作戦する小型軽巡を襲った痛恨の一撃』
- (185-206頁)「丸」編集部『外国戦史に見る日本軽巡の最後』
- (304-318頁)戦史研究家柏木浩『日本の軽巡洋艦かく戦えり』
- (319-350頁)戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
- 林譲治(文)、吉原昌宏(画)『コンバットAtoZシリーズ4 図解 海軍水雷戦隊』並木書房、1996年9月。ISBN 4-89063-073-2。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』 第10巻、朝雲新聞社、1967年12月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』 第17巻、朝雲新聞社、1968年7月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 比島・マレー方面海軍進攻作戦』 第24巻、朝雲新聞社、1969年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 第26巻、朝雲新聞社、1969年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北東方面海軍作戦』 第29巻、朝雲新聞社、1969年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『海軍軍戦備』 <1> 昭和十六年十一月まで、朝雲新聞社〈戦史叢書31〉、1969年11月25日。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<1> 昭和17年5月まで』 第38巻、朝雲新聞社、1970年10月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海上護衛戦』 第46巻、朝雲新聞社、1971年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』 第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<2> フィリピン沖海戦』 第56巻、朝雲新聞社、1972年6月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』 第83巻、朝雲新聞社、1975年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<1> ―開戦まで―』 第91巻、朝雲新聞社、1975年12月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> ―戦争最終期―』 第93巻、朝雲新聞社、1976年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収後』 第96巻、朝雲新聞社、1976年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。
- 歴史群像編集部編『帝国海軍真実の艦艇史2 史料の精査と傍証の積み重ねで解き明かす定説の真偽と知られざる逸話の実相』 第51巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2005年8月。ISBN 4-05-604083-4。
- (80-91頁)田村俊夫『帝国海軍真実の艦艇史2[第1章] 5500トン型軽巡「長良」の兵装変遷の定説を正す全調査』
- (92-104頁)田村俊夫『帝国海軍真実の艦艇史2[第2章] 日本海軍最初の軽巡「天龍」「龍田」の知られざる兵装変遷』
雑誌 丸各巻
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和17年1月~3月 内令 1巻/昭和17年1月(2)』。Ref.C12070160500。
- 『昭和17年1月~3月 内令1巻/昭和17年3月(1)』。Ref.C12070161200。
- 『昭和17年4月~6月 内令2巻/昭和17年5月(2)』。Ref.C12070162800。
- 『昭和17年4月〜6月 内令2巻/昭和17年5月(3)』。Ref.C12070162900。
- 『昭和17年7月~9月 内令 3巻/昭和17年8月分(2)』。Ref.C12070164500。
- 『昭和17年10月〜12月内令4巻止/昭和17年10月(4)』。Ref.C12070166000。
- 『昭和17年10月〜12月 内令4巻止/昭和17年12月(1)』。Ref.C12070166700。
- 『昭和17年10月〜12月 内令4巻止/昭和17年12月(2)』。Ref.C12070166800。
- 『昭和17年10月~12月 内令4巻止/昭和17年12月(3)』。Ref.C12070166900。
- 『昭和17年10月〜12月 内令4巻止/昭和17年12月(5)』。Ref.C12070167100。
- 『昭和18年1月~4月 内令1巻/昭和18年2月(4)』。Ref.C12070175600。
- 『昭和18年1月〜4月 内令1巻/昭和18年3月(3)』。Ref.C12070176000。
- 『昭和18年1月〜4月 内令1巻/内令昭和18年4月(1)』。Ref.C12070176200。
- 『昭和18年9月~10月 内令4巻/昭和18年9月(4)』。Ref.C12070180700。
- 『昭和18年9月~10月 内令4巻/昭和18年10月(1)』。Ref.C12070181100。
- 『昭和18年9月~10月 内令4巻/昭和18年10月(4)』。Ref.C12070181400。
- 『昭和18年11月~12月内令5巻/昭和18年12月(2)』。Ref.C12070182700。
- 『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年3月(5)』。Ref.C12070196900。
- 『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030112300。
- 『昭和18年3月1日~昭和18年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030083900。
- 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十八年四月一日昭和十八年四月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和十八年五月一日昭和十八年五月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年4月1日〜昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030126000
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