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艦歴
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計画 |
1920年度
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起工 |
1921年8月15日(日本) 1922年4月17日(漢口、工事着手)
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進水 |
1923年4月19日(漢口)
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就役 |
1923年11月7日
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除籍 |
1945年5月10日
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性能諸元(竣工時)
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排水量 |
基準:330t 常備:338t 公試:383t
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全長 |
56.08m
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全幅 |
8.23m
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吃水 |
1.02m (公試平均)
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主缶 |
ロ号艦本式混焼缶2基
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主機 |
直立2段膨張レシプロ2基2軸 2,100hp
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速力 |
16.0kt
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航続距離 |
1,750NM / 10.0kt (石炭20t 重油74t)
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乗員 |
62名
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兵装 |
40口径8cm単装高角砲2門 留式7.7mm機銃6挺
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保津(ほづ)は、日本海軍の砲艦。勢多型砲艦の3番艦である。艦名は京都府を流れる「保津川」にちなんで名づけられた。
艦歴
三菱神戸造船所において完成、それを解体し漢口に輸送、揚子江機器有限公司で組立てを行い、1923年11月7日に竣工、二等砲艦に類別された。
1931年6月1日、砲艦に類別変更。翌年の第一次上海事変において、上海や長江方面の警備に従事した。日中戦争において、上海陸上作戦の支援、長江遡行作戦に加わった。太平洋戦争においては、長江流域の警備に従事した。1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。
1944年11月26日、安慶付近で座礁、12月5日、中国軍機の爆撃を受け大破着底した。1945年5月10日に除籍され、解体された。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- 艤装員長
- 野口幸一 少佐:1922年11月20日[1] - 1923年11月7日[2]
- 艦長
- 野口幸一 少佐:1923年11月7日[2] - 1924年12月1日[3]
- 有馬直 少佐:1924年12月1日[3] - 1925年1月15日[4]
- 池田七郎 少佐:1925年1月15日[4] - 11月17日[5]
- 岩原盛恵 少佐:1925年11月17日[5] - 12月1日[6]
- 関田繁里 少佐:1925年12月1日[6] - 1927年5月1日[7]
- 堀勇五郎 少佐:1927年5月1日 - 1928年11月1日
- 増田康彦 少佐:1928年11月1日[8] - 1929年11月30日[9]
- 鎌田道章 少佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
- 森良造 少佐:1930年12月1日[10] - 1932年3月15日[11]
- 小島正 少佐:1932年3月15日[11] - 1933年1月17日
- 清水健 少佐:1933年1月17日 - 1933年11月1日[12]
- 長井満 少佐:1933年11月1日 - 1934年5月15日
- 中津成基 少佐:1934年5月15日 - 1935年11月15日
- 高尾儀六 少佐:1935年11月15日[13] - 1937年3月1日[14]
- 上田光治 中佐:1937年3月1日[14] - 1938年3月22日[15]
- 大橋恭三 中佐:1938年3月22日[15] - 1938年11月15日[16]
- 河野康 中佐:1938年11月15日 - 1940年10月15日
- 神川茂紀 少佐:1940年10月15日[17] - 1941年7月15日[18]
- 神本信雄 少佐:1941年7月15日[18] -
同型艦
脚注
参考資料
- 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集 航空母艦・水上機母艦』ダイヤモンド社、2005年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 『官報』
関連項目