航空艦隊(こうくうかんたい、英: Air Fleet、独: Luftflotte)とは、軍隊における編制単位の一つ。
日本海軍では、航空母艦(空母)2隻以上もしくは基地航空隊2隊以上を例とした航空戦隊2隊以上で編成され、空母の戦隊による海上航空部隊と陸上基地航空隊による陸上基地航空部隊の二種類があった[1]。
1941年1月、日本海軍初の航空艦隊として陸上基地航空部隊の第十一航空艦隊が編成され、4月に海上航空部隊の第一航空艦隊が編成されたが、その後の航空艦隊はいずれも陸上基地航空部隊であった[1]。
1944年7月10日新編、1945年10月15日解隊。本土防衛のため当初は関東、硫黄島陥落後は南九州を中心に展開し、硫黄島および沖縄への積極迎撃・艦船や機動部隊への攻撃・特攻及び本土防空を担当した。
1945年2月10日新編、1945年10月20日解隊。本土防衛のため九州を中心に展開し、沖縄への積極迎撃・艦船や機動部隊への攻撃・特攻及び本土防空を担当した。終戦の詔勅が発表された直後に、宇垣長官が独断で特攻自決した。
1945年3月1日新編、1945年10月10日解隊。練習連合航空隊を実戦部隊として使用するために編成された[2]。
1943年5月18日新編、1945年11月30日解隊。第五艦隊とともに北東方面艦隊を編制し、千島・樺太・北海道防衛のため千歳飛行場を中心に展開した。1943年末には一部がマーシャル諸島に前進したものの玉砕。北東方面艦隊解散後は連合艦隊直属となり大湊警備府司令部が兼任した。
1943年9月20日新編、1945年9月12日解隊。防空部隊を持たなかった南西方面艦隊の航空支援を担うために編制した。インドシナはツダウム、マレー半島はペナン、西インドネシアはスラバヤ、東インドネシアはアンボンを拠点として分散配置された。1945年2月5日に第十方面艦隊が編制されると、そのエアカバー部隊となって終戦まで細々と運用された。
1944年3月4日新編、同年7月18日解隊。第四艦隊とともに中部太平洋方面艦隊を編制し、テニアン島を拠点として内南洋各地に展開した。すでにトラック環礁やパラオ諸島は空襲のために基地機能は壊滅しており、ほとんどテニアンに貼り付けの状態であった。5月にはマリアナ海戦に備えて第一航空艦隊がテニアンに進出。その増強のためにすべての稼動機を譲渡し、僅か2ヶ月でテニアンの地上戦を待たずに戦闘力を完全に失った。サイパン島の陥落によって中部太平洋方面艦隊司令部が玉砕したことを機に、正式に解散した。
ドイツ空軍の最大の部隊編制として、航空艦隊(Luftflotte、ルフトフロッテ)が存在する 。第二次世界大戦時のドイツ空軍における航空艦隊は、空軍最高司令部(OKL)の直接指揮を受けていた[3]。
ドイツ再軍備宣言後、1939年2月に第1から第3航空艦隊がそれぞれ航空集団司令部(Luftwaffengruppenkommando、ルフトヴァッフェングルッペン)から改編・編成された[4]。第二次世界大戦勃発時には第1航空艦隊から第4航空艦隊までが編成されており[3]、それぞれ国土の北東・北西・南西・南東に配置されていた。バトル・オブ・ブリテンには第2航空艦隊と第3航空艦隊が参戦し、北欧侵攻にともなってノルウェーをドイツ国防軍が占領すると、第5航空艦隊が配置された。また、東部戦線では第1航空艦隊と第4航空艦隊が陸軍支援を行った。1944年には本土防空を担当する帝国航空艦隊(Luftflotte Reich)が編成されている。
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