グラマン G-21 グース
米海軍のJRF-5(1942年)
グラマン G-21 グース(英語: Grumman G-21 Goose)は、グラマン社によって設計・製造された水陸両用飛行艇である。グースは英語で雁を指す。
当初はロングアイランドからマンハッタンに通勤する富豪のための8座飛行艇として設計された。本機はグラマン社最初の単葉機であり、また最初の双発機でもあり、さらに最初に民間用にも設計された航空機だった。 第二次世界大戦の間、本機は米軍や米沿岸警備隊だけではなく、ほかの連合国にも提供され、輸送任務などで活用された。大戦の間、本機は多くの戦闘と訓練の役割を引き受けた。戦後も使い勝手の良い輸送機として使用され続けている。
1936年、E・ローランド・ハリマンを含むロングアイランドの富豪グループは、自分たちがニューヨークへ飛ぶための飛行機の開発をグラマンに依頼した[1] 。グラマンは、軽量な水陸両用の輸送飛行艇としてG-21を設計した。グラマンの無骨な設計陣は、フラップなどの一部を除いてほぼ全金属製の高翼単葉機を作った。双発のプラット・アンド・ホイットニー R-985エンジン(450馬力 (340 kW)、空冷9気筒星型)は、主翼前縁に取り付けられた。深い胴体は船体としても機能し、手動引き込み式の着陸装置が装備されていた。 1937年5月29日に試作機の初飛行が行われた[2]。
機体内部のスペースには余裕があり、輸送や旅客用途に適していた。水陸両用機であったため、多くの場所へ飛ぶことが可能だった。G-21は水陸両用旅客機として製造販売された[3]。
本機には多くの改良型が作られたが、最も多く作ったのはオレゴン州サンディのマッキノン・エンタープライゼス社だった。マッキノンはG-21シリーズ改良のため、21の補足認定証明(英語版)(STCs)を取得、4か所の変更を施し、FAA型式認証(TC no. 4A24)の再認証を受けた[4]。マッキノン最初の型式G-21Cは、エンジンを旧型のR-985から4発のライコミングGSO-480-B2D6に換装した。G-21Cは1958年11月7日、TC no. 4A24として承認され、翌1959年にかけて2機の試作機が作られた。
2番目のマッキノンの改良機モデルG-21Dの、G-21Cからの変更点は、機首部分の36インチ(91cm)、および水平尾翼と昇降舵の12インチ(30cm)の拡大だった。G-21Dの拡張された機首部分には両側に2つの窓が設けられ、4つの補助席が収容可能だった。1機だけのG-21DがG-21Cからの改造で作られ、のちにタービンエンジンを搭載し、「ターボプロップ・グース」の愛称で呼ばれた。
G-21Dのタービン換装の後に、マッキノンは、TC No.654として認定されていた、オリジナルのグラマンG-21Aに、同じ550shpのプラット&ホイットニーPT6A-20エンジンを取り付けるために、STC(SA1589WE)を開発した。1967年2機のG-21Aが「ハイブリッド」タービン搭載に変更された。この2機は他にも多くのマッキノン改良機同様の改良を施されたので、後に作られたマキノン・タービン換装型のG-21Eと混同されたが、公式にはマッキノンTC 4A24として再認定されることは無く、形式名TC No.654の「グラマンG-21A」のままだった。
2機の「ハイブリッド」G-21Aのタービン変換を終えた1968年に、マッキノンは他の2機のG-21Aを、再認定されたG-21C(TC 4A24)同様のタービン構成でSTC SA1320WEタービンを採用して改良した。 しかし、G-21C設計の一部である、4台のライコニングGSO-480シリーズピストン・エンジンからのタービン・エンジン移植に関係なかったいくつかの構造的な内部の補強を欠いていたようで、その結果最大総重量10,500ポンド(4769kg)まで動くことは公認された。マッキノンはこれらのG-21Cを「ハイブリッド」と呼んだ。しかし1年後にそれらはFAAによって TC 4A24 の新しい型式として認定された。
マッキノンの3番目のモデル、G-21Eは、前のG-21C「ハイブリッド」の改良を基にした。当初はG-21Dに使用したのと同じ改良タービン、双発550shp PT6A-20ターボプロップ機で認定された。その後G-21Gの承認後、680shpプラット&ホイットニー・カナダPT6A-27エンジンをG-21Eのオプションとして承認した。実際に制作・再認定された唯一の例として、より強力なPT6A-27エンジンを搭載したG-21Eがあった。
マッキノンの最終モデル、G-21Gは、1969年8月29日にTC no.4A24のセクション4としてFAAに認定された。 G-21Gは、総重量12,500ポンドの前モデルG-21C,Dを全面的に構造強化し、レーダーノーズ、巻きこみ式フロントガラス、翼内に格納する可動式フロート、見やすいキャビンの窓などの特徴を備え、より強力なPT6A-27タービンエンジンや他の細部変更を施し、究極のマッキノングース改良型を制作した。
2007年11月、ノースカロライナ州ギブソンヴィラの「アンティルズ・シープレーンズ」社が、マッキノンG-21Gターボグースの改良型を、アンティルズG-21Gスーパーグースとして再生産すると発表した[1]。G-21GのPT6A-27エンジンを、定格680hspのプラット&ホイトニー カナダ PT6A-34ターボプロップに置き換え[1]、機体システムや最新式の電子機器を装備し、新しいパネル、計装、コックピットディスプレイに更新され、最初の試作機は現在組み立て中であるとされた[1]。
しかし2009年アンティルズ・シープレーンズ社の生産工場は差し押さえられ、競売にかけられた。新しいグース生産計画の運命は不明である[5]。
当初は、マンハッタンの企業や富豪のための「空飛ぶヨット」としてバーや小さなトイレを備え、通常は2-3人の乗客を運ぶ事を想定されており、また小さな航空会社に販売されていた。1938年、G-21は米陸軍航空にOA-9として採用された。後に民間機から転用された機体はOA-13となった。最も多く軍用機となったのは、米海軍用にデザインされたJRFだった。
本機は第二次大戦中、アメリカ沿岸警備隊にも採用され、またカナダ空軍にも輸送、偵察、救助、練習用として採用された。イギリス空軍は海上救助のためにG-21を使用した。イギリス空軍は本機を共通の命名規則によってグースとした。
戦後は民間航空機として、アラスカ州やサンタカタリナ島など僻地への商業航空に利用された。
合計345機の機体が生産され、そのうち約30機が現役である。その多くが個人所有機で、その内いくつかの機体は改良されている[6]。
1939年、日本海軍は1機のG-21をグラマン社から輸入し、グラマン水陸両用飛行艇(略符号LXG1)と称して水陸両用飛行艇の実験に使用した[7]。また、太平洋戦争緒戦において、オランダ領東インドで軍用輸送機として用いられていたG-21A 1機がジャワ島で日本軍に鹵獲され、日本本土に空輸された後に陸軍航空技術研究所で性能調査を受けている[8]。
戦後の1955年には10機のJRF-5が米海軍から海上自衛隊に供与され、うち4機が整備後に大村航空隊に配備されて対潜哨戒機や救難機として使用された後、UF-2などに代替される形で退役した[9][10][11][12]。機体の老朽化に加えて、耐波性の悪さなどの小型機故の運用上の難点から、現場からの評価は芳しいものではなかった[12]。1960年には、中日本航空も名古屋 - 志摩および串本間の観光路線用に1機のG-21Aを導入し、1965年まで使用している[13]。
出典: United States Navy Aircraft since 1911 [28]
諸元
性能
武装