不忍 鏡子(しのばず きょうこ[1]、1919年10月29日 - 2008年5月23日[要出典])は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。戦後、不忍 郷子(しのばず きょうこ)とクレジットされた時期もあり[5][6][7][8][9][10][11][12]、末期には本名の進藤 幸(しんどう こう)を名乗った[2][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。本名の読みを「さち」[4][8]とするのは誤り[2][7]。
1919年(大正8年)10月29日、北海道夕張郡夕張町(現在の夕張市)に生まれる[2]。父の進藤誠三郎が鉄道省の技師であり、小学校時代だけでも、道内の釧路市、樺太庁豊原支庁豊栄郡落合町(現在のロシア連邦サハリン州ドリンスク)、東京府豊多摩郡大久保町(現在の東京都新宿区)と転校を繰り返した[2]。1932年(昭和7年)3月、同町の大久保尋常高等小学校(現在の新宿区立大久保小学校)を卒業し、同年4月、当時角筈(現在の新宿区西新宿1丁目6番)にあった精華高等女学校(現在の東海大学付属市原望洋高等学校[13])に進学する[2]。
同年9月、満13歳の誕生日を目前にして同校を中途退学、松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団、第12期生になる[2][14]。このときの同期44名に対し芸名が公募され、上野恩賜公園の不忍池にちなみ不忍 鏡子と名づけられた[2][14][15]。日暮里子[16]、井草鈴子[17]らとともに、東京市内の地名にちなんだ命名を受け、同年10月26日開幕の『グランドレビュー大東京』で揃ってデビューした[2][14][15]。不忍の名は「不忍池は鏡の如し」の意だという[2]。デビュー翌年の1933年(昭和8年)6月、水の江瀧子を闘争委員長とする労働争議・通称「桃色争議」が起きている[18]。
1936年(昭和11年)6月、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社、このとき満16歳であった[2]。同年10月24日に公開された『からくり歌劇』(監督大谷俊夫)に「ホステス」役で端役出演、映画界にデビューする[2]。同撮影所美術部には実兄の進藤誠吾(1913年 - 2003年)が在籍しており、『召集令』(監督渡辺邦男、1935年)等の映画の装置・設計にクレジットされている[19][20]。その妹であり、不忍にとっては実姉の進藤京子が劇作家の阿木翁助(1912年 - 2002年[21])と結婚したのは、不忍の日活入社の2か月後、同年8月である[2][22][23]。阿木は進藤誠吾の友人であった[22]。進藤家の長男が当時、満洲国(現在の中国東北部)で経済的成功を収め、家族を引き取るという段になり、誠吾が妹たちを内地に置いておくために不忍を自分の会社に入れ、京子を阿木に嫁がせた、という経緯があった[22]。
1938年(昭和13年)6月1日に公開された『茶房の花々』(監督春原政久)では比較的大きな役ではあったが、それ以外は女給役、女中役が多く、同年には松竹楽劇部時代に同期生だった日暮里子が入ってきて[16]、同年8月4日に公開された『楽天公子』では早速杉狂児の相手役を務めており、同年11月3日に公開された『東京千一夜』(監督内田吐夢)でも、まったくの脇ではなく「おかる」役を演じた不忍であったが、「サリー」役を演じた日暮に次ぐ位置であった[9][16][24]。ただし同作で内田吐夢と出逢ったことは、不忍にとって、のちのち大きな経験になっている[3]。1940年(昭和15年)2月1日に公開された『沃土萬里』(監督倉田文人)では、風見章子(1921年 - )の友人役として、満州に集団移住した開拓農民、いわゆる「大陸の花嫁」[25]を演じた[2]。同年7月25日に公開された『三女性』(監督清瀬英次郎)に出演したのを最後に、満20歳で日活を退社した[2][9]。
1941年(昭和16年)3月、映画監督の藤田潤一と結婚した[2][26]。藤田との縁は、東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)の文芸課に義兄の阿木翁助がおり、同社京都撮影所に藤田が在籍しており、藤田は当時、東京撮影所に出張して仕事をしていたことによる[2][26]。挙式は東京・赤坂の氷川神社で、阿木の上司で文芸課長の竹井諒夫妻を媒酌人として行われた[2][26]。阿木が書いた原作を藤田が監督した『大いなる感情』は、同年5月8日に公開された[27]。同年12月8日、日本は米国に宣戦布告、第二次世界大戦に突入した。
大戦が始まると、夫の藤田は、当時東宝傘下であった榎本健一を座長とする「エノケン一座」(東宝榎本健一一座)の座付き作家(劇作家・演出家)に転向し、1942年(昭和17年)11月公演で『河童の国』(原作塩谷寿雄)を脚色・演出している[26]。戦後1946年(昭和21年)8月、「エノケン一座」は東宝から独立し、株式会社榎本健一劇団に組織変更しているが、藤田はその後も同劇団の作品を書き、演出した[26]。夫は劇作家、演出家として成功し、家庭でも2男に恵まれたが、放縦な生活を送るようになっていた[2][26]。結婚生活10周年を迎えた1951年(昭和26年)、不忍は、松竹楽劇部時代に同期生で、日活多摩川撮影所でも同僚だった日暮里子が大友伸を相手役に主演した『君を夢みて』(監督三枝源次郎)に出演、同作は同年6月19日に公開された[9][16]。翌1952年(昭和27年)には、当時、実兄の進藤誠吾が在籍する新東宝が製作した『恋の応援団長』(監督井上梅次)に小さな役を得て、出演している[5][9]。同作の美術は兄が手がけており、同作は同年6月19日に公開された[9][20]。1953年(昭和28年)、不忍は藤田とついに離婚、まだ学童であった2男は不忍が引き取り、育てることになった[2][26]。不忍との離婚以降の3年間、藤田の仕事については、伝えられるものがなかった[26]。
女手一つで子どもを育てていく決心をした不忍は、1954年(昭和29年)、東映東京撮影所に入社、日活多摩川撮影所時代にも数本出演したことのある千葉泰樹の監督作『悪の愉しさ』(主演伊藤久哉)に脇役で出演、満34歳で本格的に映画界に復帰した[2][5]。1955年(昭和30年)5月17日に公開された『サラリーマン 目白三平』(監督千葉泰樹)に、主人公を演じる笠智衆・望月優子の隣人「細川の奥さん」を演じたのを最後に、芸名を不忍 郷子と表記を改め、翌6月21日に公開された『終電車の死美人』(監督小林恒夫)から新表記でのクレジットがされるようになった[2][7]。翌1956年(昭和31年)夏には、兄の進藤誠吾が新東宝から東映東京撮影所に移籍[19][20]、1957年(昭和32年)3月4日公開の『米』(監督今井正)、同年5月7日公開の『多情仏心』(監督小沢茂弘)では、兄が美術を手がけ、妹の不忍が小さな役で出演している[2][5][7][9]。同年11月24日に公開された亜炭発掘場を舞台にした映画『どたんば』(監督内田吐夢)では、花澤徳衛演じる「伴野多吉」の妻「伴野勝子」役を演じた[2][5][7]。劇場用映画では、圧倒的に脇役・端役が多かったこの時代の不忍であったが、東映教育映画部の作品にも積極的に出演し、1959年(昭和34年)10月1日に公開された教育映画『六人姉妹』(監督堀内甲)では、主人公を演じる大森暁美たち子役ばかりの同作のなかで、大きな役柄である母親役を演じている[5]。同年3月6日に放映を開始した連続テレビ映画『捜査本部』(監督石原均)、同年6月3日に放映を開始した『七色仮面』といった、東映が製作するテレビ映画にも積極的に出演した[12]。
1964年(昭和39年)に撮影が始まった内田吐夢の大作映画『飢餓海峡』では、伴淳三郎が演じた、物語上の重要人物である函館警察の刑事弓坂の妻「織江」役に抜擢され、満45歳で出演した同作をもって、芸名を本名である進藤 幸と改めた[2][4][5][6][7][8][9][10][12]。同作は製作に時間がかかり、同作公開までに、同年8月26日放映のテレビ映画『特別機動捜査隊』第148回『老刑事の死』(監督今村農夫也)[12]、同年11月21日公開の劇場用映画『肉体の盛装』(監督村山新治)ではすでに「進藤幸」とクレジットされている[7]。『飢餓海峡』は、翌1965年(昭和40年)1月15日に公開され、大ヒットを記録した[4][5][6][7][8][9]。『日本映画俳優全集・女優編』の不忍の項には、同年3月10日に公開された『孤独の賭け』(監督村山新治)を最後に引退した旨の記述があり[2]、確かに出演本数は激減、1966年(昭和41年)2月以降の3年間は出演記録が欠如しているが、劇場用映画にもテレビ映画にも出演は続けていた[4][5][6][7][8][9][12]。
1970年(昭和45年)8月7日、内田吐夢が満72歳で亡くなり、同年10月に発行された『月刊シナリオ』(日本シナリオ作家協会)誌上で行われた座談会「追悼特集 内田吐夢 その死と作家執念」に、伊藤大輔、入江たか子、風見章子、片岡千恵蔵、小杉勇、椎野英之、菅井一郎、田坂具隆、紅沢葉子、村田知栄子、八木保太郎、八尋不二、依田義賢、岸松雄とともに参加、誌面には「不忍鏡子」とクレジットされた[3]。
1970年代に入ると、不忍(進藤幸)は50代を迎え、東映製作にかぎらず、国際放映や東宝が製作するテレビ映画の脇役老女優として、『太陽にほえろ!』、『特捜最前線』等に繰り返しゲスト出演した[12]。1990年代に入ると出演本数は激減するが、いわゆる「2時間ドラマ」と呼ばれる長時間の単発テレビ映画を中心にわずかながら出演[12]、1993年(平成5年)10月30日に公開された『裸足のピクニック』(監督矢口史靖)にも出演した[3]。
2002年(平成14年)には、同年7月20日公開の劇場用映画『パルコフィクション』(監督矢口史靖・鈴木卓爾)[6][7][9]、同年8月2日放送のテレビドラマ『実録 福田和子』(演出福本義人、脚本神山由美子)に出演した記録が残る[12]。同年9月11日、義兄の阿木翁助が死去[21]、翌2003年(平成15年)5月1日には実兄の進藤誠吾が死去しており[19]、満82歳のときに出演した同2作を最後に出演記録は途絶えている[4][5][6][7][8][9][10][11][12]。
すべて出演であり、「不忍鏡子」以外の名義でのクレジットはすべて特筆した[2][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[5]。
国立国会図書館蔵書等にみる書誌である[3]。