佐藤 忠男(さとう ただお、1930年10月6日 - 2022年3月17日[1])は、日本の評論家、編集者。日本映画大学名誉学長、文化功労者。位階勲等は従四位旭日中綬章。本名:飯利 忠男[2](いいり ただお)。
日本映画学校校長、日本映画大学映画学部教授、日本映画大学学長などを歴任した。
来歴
生い立ち
新潟県新潟市出身。小学校高等科を卒業後[3]、中学校の入学試験に落ち、1年後に海軍の少年飛行兵となる(予科練出身)[4]。敗戦後は故郷に戻り、鉄工所で働く[5]。
1949年、新潟の鉄道教習所を卒業。国鉄に入り神奈川県大船に住むが[6]、3ヶ月後に国鉄から解雇される[7]。東京で職を探すが見つからず[8]、電気工事店に1ヶ月勤務した後[9]、新潟に戻る。電電公社の工場に勤務しながら2年間、定時制高校に通う[10]。1952年、新潟市立工業高等学校(現・新潟市立高志高等学校)卒業。
工場で働きながら『映画評論』の読書投稿欄に映画評を盛んに投稿。また、1954年に『思想の科学』に大衆映画論「任侠について」を投稿し、鶴見俊輔の絶賛をうける。1956年刊行の初の著書『日本の映画』でキネマ旬報賞を受賞。1957年に『映画評論』の編集部員になるよう誘われ、上京する[11]。
評論家として
『映画評論』『思想の科学』の編集にかかわりながら、評論活動を行う。佐藤重臣とともに「W佐藤」と呼ばれる。1959年、加太こうじ、森秀人、鶴見俊輔、虫明亜呂無、邑井操[12]、柳田邦夫、タカクラ・テル、福田定良らと大衆芸術研究会を創設。
さらに、1973年から、妻の佐藤久子と共同で個人雑誌『映画史研究』を編集・発行[注釈 1]。日本映画学校校長(1996年~2011年)、日本映画大学学長(2011年~2017年)。
1989年、第7回川喜多賞を妻の佐藤久子とともに受賞[13]。1996年、第46回芸術選奨文部大臣賞を受賞、同年春の褒章で紫綬褒章を受章。2002年、春の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章[14][15]。その他に、王冠文化勲章(韓国)、レジオンドヌール勲章シュヴァリエ、芸術文化勲章シュヴァリエ(フランス)等を受章。2019年、文化功労者[16]。
アジア映画を中心として世界中の知られざる優れた現代映画を発掘・紹介し、映画界全体の発展に寄与した。
作家・編集者の岸川真は弟子筋にあたる。
2022年3月17日、胆のうがんのため死去[17]。91歳没。死没日付で従四位に叙され、旭日中綬章を受章[18]。
著作
単著
- 海外出版
- Kenji Mizoguchi and the art of Japanese cinema Berg 2008
- 炮声中的電影 : 中日電影前史 世界图书出版公司北京公司 2016
共編著
- 現代漫画 全27巻 鶴見俊輔,北杜夫と共編 筑摩書房 1970~1971
- チャンバラ映画史 尾上松之助から座頭市まで 吉田智恵男共編著 芳賀書店 1972
- 日本映画100選 南部僑一郎共著 秋田書店 1973
- 学校と世間 進学文明を超えるもの 京極純一対談 中公新書 1975
- 日本映画女優史 吉田智恵男共編著 芳賀書店 1975 (フィルム・アートシアター)
- お化け煙突の世界 映画監督五所平之助の人と仕事(編)ノーベル書房 1977
- 洋画プログラム・コレクション(編)河出書房新社 1983
- 映像の視覚 川本三郎共著 現代書館 1983
- 上海キネマポート 甦る中国映画 刈間文俊共著 凱風社 1985 (シバシン文庫)
- 講座日本映画 全8巻 今村昌平/佐藤忠男/新藤兼人/鶴見俊輔/山田洋次編 岩波書店 1985
- 韓国映画入門 李英一共著 凱風社 1990
- 中国映画が燃えている 「黄色い大地」から「青い凧」まで 竹内実共著 朝日ソノラマ 1994
- アジア映画小事典(編著)三一書房 1995
- 新世紀アジア映画 アジアフォーカス・福岡(編)キネマ旬報社、2000
- 「映画評論」の時代 岸川真共編著 カタログハウス 2003
- 日本の映画人 日本映画の創造者たち(編)日外アソシエーツ 2007
- シリーズ日本のドキュメンタリー全5冊(編著)岩波書店 2009~2010
共著
翻訳
- Marilyn Monroe レンズの向こうの真実 イヴ・アーノルド JICC出版局 1989
脚注
注釈
- ^ 妻、母、翻訳者の父、姉の協力を得た。『映画史研究』編集後記No.1 1973、No2 1973
出典
外部リンク
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