玉川 一郎(たまがわ いちろう、1905年11月5日 - 1978年10月15日[1][2])は、日本の作家。
東京府生まれ[1]。父親が警察官だった関係上、朝鮮と東京を数年ごとに行き来して育つ[3]。東京外国語学校[1]仏語部[3]卒。
フランス語の能力を買われ、翻訳補助者として白水社に入社する[4]も昭和恐慌のあおりを受け、人員整理の対象となり半年で解雇され[3]、博文館へ転職。『新青年』などの編集に携わる[3]。さらに、文具販売の伊東屋および、コロムビア・レコードの宣伝部員も兼務[4]。コラムや広告コピーの執筆を手掛けながら、ユーモア小説の執筆やフランスの小噺、コントの編訳を行う作家として活動し、1940年発表の『人情サキソフォン』、1950年『川田二等少尉』で2回直木賞候補となった[2]。1946年に専業となる[3]。コロムビアでは高見順と同僚だった[4]。
演芸や江戸時代の風俗にも造詣が深く、新作落語など、多くの演芸台本を執筆し[1][2]、「落語漫才作家長屋」という演芸作家集団を主宰した[1]。
戦後はラジオ[1]など、放送タレントとしても活動した。
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