2月1日 - TMNのシングル「RHYTHM RED BEAT BLACK (Version 2.0)」カップリング曲「RHYTHM RED BEAT BLACK [Version 300000000000](三那由他ヴァージョン)」でメジャーデビュー。これは1990年8月にTMに言及しながらラジオで流れた電気の曲を、たまたま聴いていた小室哲哉が「商品になっている」「音楽もキャラクターも完成された面白さを持っている」「TMを踏み台にして乗り越えてくれれば」と気に入って企画されたものである[16][注釈 6]。
DJ OZMAのラストアルバムにおいて「人生」時代の代表曲「オールナイトロング」をカヴァーしたいというオファーを受けていたが、元々インディーズ時代の楽曲であるため著作権登録していないことが発覚。加えて童謡「クラリネットをこわしちゃった」から一部の歌詞とメロディを引用している為、改めて日本語訳詞の著作権者に許諾を打診するものの[注釈 22]「キンタマはNG」との判断により却下。オリジナルバージョン発表から20余年を経て発禁となったことを翌年掲載の連載「メロン牧場」で吐露している[注釈 23]。
3月26日 - 視聴不可能となった電気グルーヴの音楽のみを5時間連続でプレイする緊急プログラム「『DJ Plays“電気グルーヴ”ONLY!!』5HOURS!!!!! BROADJ♯2703 - WHO IS MUSIC FOR? MUSIC IS FOR EVERYONE!」がDOMMUNEで組まれる[29]。同番組はTwitterトレンドで4時間にわたり日本1位・世界4位を記録し、DOMMUNE開局以来最高PVの40万超えを記録した[30]。
8月24日、2年半ぶりとなるシングル『Set you Free』を配信。”FUJI ROCK FESTIVAL 2020 LIVE ON YOUTUBE”のLIVE配信内でMV初公開。
12月5日、DENKI GROOVE CUSTOMER CLUB会員限定配信LIVE "FROM THE FLOOR ~前略、床の上より~"を配信[36]。LIQUIDROOMのフロア上にセットを組んで収録された無観客ライブの会員限定有料配信により、1年9ヶ月ぶりとなるライブ活動を再開させた。12月9日にはライブ映像から『Set you Free』を公開[37]。
電気グルーヴとして初の12インチシングル。アルバム『DRILL KING ANTHOLOGY』から瀧勝「人生」のハードフロアリミックスをシングルカット。カップリングは石野による「新幹線」と砂原による「Popcorn」のそれぞれ録り下しリミックスを収録。本来は瀧勝とのスプリットシングルと言うことになるが、外国への展開をも見越してか「DENKI GROOVE」名義のシングルとなっている。
WIRE04、RISING SUN ROCK FESTIVAL 2004のライヴDVD。「カフェ・ド・鬼(顔と科学)」、「弾けないギターを弾くんだぜ」、未発表曲「Mr.EMPTY」のPVも同時収録。このPVは全編手描きアニメーションとなっており、天久聖一が三週間をかけてひとりで作画した。実はもう一曲「中年パンク」という新曲も収録される予定だったが、諸般の事情で『お蔵入り』となった(後に発売されたUMD版には収録されている)。タイトルの由来は2004年、夏の映像であることを「偽ヨン様」に引っ掛けたもの。
「塗糞祭」2014年11月8日のZepp Tokyoの公演でのライヴの模様を収録したDVD・Blu-ray。初回生産限定盤にはライヴ音源のCDを収録(2枚組)。全公演で演奏された「Twist of the world」が未収録となっている。また、演奏された「電気ビリビリ」では歌詞の一部が消音処理されている。ドキュメンタリー映画「DENKI GROOVE THE MOVIE? ~石野卓球とピエール瀧~」と同日発売。
PLAYSTATION 3向けのダウンロード専用ソフトとして全世界向けにオンライン配信された。ピエール瀧がゲームディレクターとしてクレジットされているが、表だった宣伝活動はなかったようである。「バイトヘル2000」のミニゲーム「デモ行進」をベースに、Google map風の高精細の航空写真が使用され、世界各地の都市をステージとしている。市内を徘徊するゾンビにおびえる人々を助け、行列を率いて制限時間内に避難させる。
神戸にて看守の仕事に就いていたが、思うところあり漫画家に転身。瀧が率いる草野球チーム「ピエール学園[46]」と漫画家によるチームとの対戦があった際、試合中に奇声を発しながらハッスルプレイを繰り広げていた様子が瀧の目にとまり、以降電気と親しくなる。電気のCDジャケットやラジオのノベルティグッズのデザイン、ミュージック・ビデオのアニメーション作画を手掛けている。彼が作画を担当した「Cafe de 鬼(顔と科学)」のPVはSPACE SHOWER Music Video Awards'05でBEST GROOVE VIDEO並びにBEST ANIMATION VIDEOを受賞した。それ以外にも電気のLIVEに半裸で登場したり、THE・天久聖一withギ・おならすいこみ隊名義の楽曲「モテたくて…」(日射病撲滅キャンペーンソング)などでは作詞とボーカル、赤城乳業ノベルティ版「ガリガリ君」では自作のポエム朗読などを担当した。こういったバンドへの活動と同時に、ゲストとして呼ばれたラジオでうっかり放送禁止用語を発してメンバーやえらい人を困らせたりした。また、石野は彼の著書の多くに「オビラー」(=帯の推薦コメントを書く人、あるいはそういった職業を指すらしい)として秀逸なコメントを提供している。瀧とは「イボピアス」なるユニットを結成している。
本名・西井健一。1971年4月15日生まれ。電器販売店店員を経て瀧のマネージャーを務めた。メンバーからは「金の埋まる顔」とも、初対面の田中直樹には「あれは反則」とも言わしめた。もともとは『オールナイトニッポン』内の『見知らぬ他人の家にお泊り』企画にハガキを応募した一般リスナーであった。だが、実際には彼の家に瀧は泊まらず、リスナー藤崎龍馬の家に瀧ともども泊まらせられる。それ以降番組内でたびたび名指しで話題に上り、『西井の彼女を募集するコーナー』なども組まれた。番組終了以降もその容姿と憎めないキャラクターを買われ、なにかと電気グルーヴのマスコット的存在として親しまれてきた。『Flash Back Disco』、『ピエール瀧体操30歳』『ピエール瀧の体操36歳』等のPV映像でその姿を確認できる。『電気グルーヴのドリルキングアワー』内にてケン・イシイにあやかり、(世界の)ケン・ニシイの名を授かる。ピエール瀧製作のDVD『究極ホ乳類ニシイ』ではタイトルにその名を冠することとなった。2007年ROCKIN'ON JAPAN6月号のメロン牧場にて、電気のマネージャー引退、実家に戻ることが発表された。ケン・イシイとは熱狂的なプロレスファンであることのみ共通している。『オールナイトニッポン』のハガキ職人「福井県・ペンネーム西井健一」は別人。2008年現在、介護系の仕事に従事している。本人曰く、「電気マネージャーの頃はアッパー系のキ○ガイを相手にしてたけど、今はダウナー系のキ○ガイを相手にしてる」とのこと。
大衆歌謡歌手。1992年、シングル「ハウスおまんた囃子」で突如ハウス・サウンドを導入。これに関連して開催された"HARUO IN DANCE BEAT"なるライヴイベントにて電気と共演(「ハウスおまんた囃子」等の楽曲の製作そのものには電気は関わっていない)。当日はゲストとして、死んだはずの瀧勝も登場した。そこで勝は春夫に「おまんた囃子」のワンフレーズを伝授されるが音程を外してしまうという、うすら寒いミニコントを披露。春夫サイドの書いたシナリオを瀧が嫌々演じたかたちとなる。この経験は現在でも瀧にとってトラウマになっているという。が、翌日のワイドショー等の報道では電気の活躍の模様は一切触れられなかった。2001年に他界。
「新幹線」および「虹」、「Nothing's Gonna Change」に参加した女性ミュージシャン。そもそもは電気と同じキューンソニー在籍(当時)ということで白羽の矢が立ったが、この起用は正解だったらしく、石野も「天使の声」と絶賛している。電気の作品やライヴへの参加だけでなく、石野プロデュースでシングル「TSUKI NO HANA」もリリースした。
通称アイゴン。堀江博久(現・ニール&イライザ)らとのバンド「ACROBAT BUNCH」としての「FLASH PAPA MENTHOL」への参加、「VITAMIN」での「富士山」のギター、そしてEL-MALOとしての「虹」のリミックスなど、様々な形態で電気の作品に関わる人物。事実、石野もインタビューにて「過去に共演したけど、また共演したいミュージシャン」として名前を挙げたことがある。石野や砂原のソロ作品でもギターを披露。砂原とはEL-MARINなるユニットも結成した。上記の朝本浩文の「Ram Jam World」にもメンバーとして在籍していた。また、EL-MALOとして受けた某雑誌インタビューでは電気のアルバム『DRAGON』の帯に書かれた「道が無くなりゃ自分で作ればいいじゃん」というコピーに甚く共感したことを表明していたが、実はこのコピーはキューンのディレクターが勝手に考えたもので、メンバーの全く意図するものではなかったことがのちに明らかにされている。
石野主催のクラブイベント「LOOPA」のレギュラーを務めた他、同名レーベルではサウンドクリエイターとしても活躍。電気グルーヴの活動には、1999年に行われたスペースシャワーTVの10周年記念イベント「2001: A SPACE SHOWER ODYSSEY」のライヴにサポートメンバーとして関わって以降、アルバム『VOXXX』にはコ・プロデュース的な立場で参加し、続いてライヴツアー「ツアー・ツアー」、WIREでのステージにも上がる。電気からは「美白DJ」との異名を授かるが、もともと極端な色白なので特に美白を心がけているわけではない。
テクノDJ、サウンドクリエイター。のちに「DISCO TWINS」を結成するDJ TASAKAと共に、電気グルーヴの活動には「2001: A SPACE SHOWER ODYSSEY」以降のライヴとアルバム『VOXXX』にサポートメンバーとして関わり、砂原脱退後の電気の屋台骨を支える。「COUNTDOWN JAPAN06/07」では電気関連の限定アイテムとして彼がデザインした「めいろTシャツ」が販売された。ソロでは電気グルーヴはもちろん、くるりなどジャンルを問わず数多くの楽曲のリミックスを手がけている。TASAKAとは電気のサポートメンバーとしての共演から発展し、「DISCO TWINS」なるクラブイベントを催し、同名のプロダクションユニットとして活動。2010年5月25日に過労による急性心不全で死去。石野やDJ TASAKAもTwitter上で哀悼の意を表した。
ロリポップ・ソニック、フリッパーズ・ギターを経て、現在はソロユニットCORNELIUSとして活動するミュージシャン。電気とフリッパーズ・ギターは、スチャダラパーなどと共にデビュー当初からポストバンドブームという括りで論じられることが多く、電気も少なからず良きライバル的に意識していたようで、当時の発言の端々でフリッパーズの斬新な活動姿勢や作品などに肯定的な態度を示していた。「ミュージシャンの歌詞には思い入れが無い」と頻繁に言っていた石野ですら、CMJKとの対談で、「好きな歌詞のミュージシャン」としてフリッパーズギターを挙げていたほどである(CMJKはフリクションを挙げていた)。活動当時は自ら「『小学六年生』から『リミックス』まで」と語るほど多岐のジャンルに渡る媒体露出を行ったが、このプロモーションスタイルは電気やスチャダラパーにも影響を与えている(ただし、電気の場合は『リミックス』から『スーパー写真塾』までで、その後、電気グルーヴが小学六年生に露出した際には中山美穂の楽曲を酷評した)。瀧いわく日本の音楽業界は総て少なからず「小山田の影響を受けている」らしい。砂原は「KARATEKA」発表後に、石野の「いないいない病」の発病などから、一時的に解散の危機に陥った電気の状況を憂いで「まだ電気にとっての『ヘッド博士の世界塔』(※フリッパーズが解散直前に発表した傑作とされるアルバム)を作らずに終わるのは勿体無い」と涙ながらに訴えた。一方、小山田も自身のラジオ番組内で電気とスチャダラをして『別の学校にいる同じ学年の友人みたいなもの』と発言している。それから『オールナイトニッポン』、『ドリルキングアワー』に小山田がゲスト出演するなどの場面はあったが、音楽活動方面での直接的繋がりは1996年に発表された『96/69』まで待たれることとなる。このアルバムでは石野と砂原がそれぞれ一曲を手がけたが、当初の構想では電気グルーヴとして一曲任されるアイデアもあったという。同時期に製作された電気の「A」、小山田の「FANTASMA」は互いに何らかの影響を与え合う作品となったという。これ以降、電気とのメディア上での共演もさらに増え、テレビブロス10周年記念シングルとして「九官鳥 & ヒズフレンズ」を石野と共同制作。スペースシャワーTVの10周年記念イベント「2001: A SPACE SHOWER ODYSSEY」では対バンし、電気の10周年企画アルバム「The Last Supper」、電気グルーヴ×スチャダラパーのシングル「聖☆おじさん」にもリミキサーとして参加した。石野、川辺らと共にポップジャムの「DJブース」に置き去りにされた1人でもある。ピチカート・ファイヴと共に瀧が愛猫の便所を掃除したまま手を洗わず握った「喧嘩握り寿司」を食らわされた経験を持つ。
電気グルーヴのオフィシャルファンクラブ。入会特典[47] として会員証と年数回発行される会報(現在2006年3月発行のvol.74まで)が配られるが、会員証は特製CDシングルがその役割を果たしているのが特徴である。そのCDでしか聴くことができない特別音源(※2000年発行版の「Suppe Suppe Inbe Inbe」のみベスト盤『SINGLES and STRIKES』に採録)とファンクラブの連絡先のナレーションが収録されている。この会員証は入会時にしか発行されず、定期的に内容は更新されている。その全てを入手することは困難である。
鬼日
電気グルーヴ内では11月17日を「鬼日(きび)」と制定している。1990年11月17日、イギリスのマンチェスターで製作されたファーストアルバム「FLASH PAPA」レコーディング中、収録曲「カフェ・ド・鬼」の瀧の担当パートである「鬼、鬼〜♪」のテイクに何故か何度やってもOKが出ず、数十回にわたり延々と「鬼」と言わなければいけなかったエピソードに由来する。以来、瀧が「今まで生きてきた人生の中で最も『鬼』という言葉を口にした日」として、この日を「鬼日」とした。この時のプロデューサーはヒプノトーンのトニー・マーティンが務めた。毎年この日に公式ウェブサイトが記念仕様に更新され、2016年にはこの日に因んで公式Youtubeチャンネルより「Cafe de 鬼(顔と科学)」のミュージック・ビデオが公開された。
Roland SH-2は、ローランドが発表したモノフォニックアナログシンセサイザー[48]。石野にとって最初のシンセ。シンプルでコンパクトながら、その完成度は高く、生産完了から久しい現在でも中古市場でプレミア化している。「人生」時代より数々の楽曲で主戦力として活躍し続けているが、「Shangri-La」のシンセベースでの使用が最も有名。砂原も同じものを持っており、「A」のレコーディングでは砂原所有のものが使われていた模様。石野所有のものにはボディ全体に瀧による落書きが施されていた(近年は黒マジックと修正液で上から塗りつぶされている)。
W-30
ローランドが発表したミュージックワークステーション。サンプラーとシーケンサー、キーボードが一体になっている。石野が所有し、シーケンサーとしてコンピューターを本格導入する1995年まで、初期 - 中期の電気グルーヴのサウンドプロダクションの中核を成していたといっても過言ではない。「662 BPM BY DG」の内ジャケでその勇姿が確認できる。石野は機材の取扱説明書を読まないので、シーケンスパターンのコピー方法を知らず、曲の頭から最後までマニュアルで打ち込んだりしていた。
S-10
W-30と同じくローランドが発表したサンプラーで、やはり「662 BPM BY DG」の内ジャケで姿が確認できる。ピエール瀧がローンで購入した。この機材も結成当初の電気グルーヴで大活躍したといわれているが、サンプリングタイムが短いことと、保存メディアに時代遅れのクイックディスクを採用していたことなどから、AKAI S-1000導入以降は徐々に一線を退くこととなった。石野が最初に購入したサンプラー、X7000もクイックディスクを採用していた。既にメディア自体が入手困難だった為に、ファミコンのディスクシステム用のディスクを調達し、任天堂ロゴ部分をハンダごてで焼き切って代用品として使っていたという。
ローランドのアナログシンセサイザー。リズムマシンと同期演奏することを前提としたシーケンサー内蔵ベース音源として発売されたが、後年それとは違った用途で再評価され、アシッド・ハウスという一大ジャンルを形成するまでとなる。石野はとあるクラブに遊びに行った先でファンの少年からプレゼントされ入手。それを切っ掛けとしてこの機材に心酔し、『Flash Papa Menthol』以降の作品から大幅にフィーチャーしていくこととなる。折しも当時(1993年)には英国を中心としたアシッドハウスリヴァイバルが起こっており、そのシーンが電気の活動に与えた影響も大きい。「野村ツアー」で販売されていた限定TシャツはTB-303を正面にプリントしたものであった。日本ではYMOのアルバムで使用されたことや石野、砂原による音楽雑誌上での啓蒙活動もあり、その中古価格は高騰した。1990年代を過ぎてからは、熱狂的だったブームの沈静化もあり、作品から影を潜めていたものの、2004年以降の石野ソロを含む音源やライヴでは、再びその音色が大幅に使用されているのを聴くことが出来る。現在石野は計三台を所有し、最初の1台は人生時代から[注釈 42]、そのうち一台はReal World Interfaces社による『Devilfish』というチューンナップ版に改造されている。
ローランドが90年代に発表したデジタルシンセサイザー。基本的にはケン・イシイも愛用するJD-800のラックマウントタイプだが、スライダーによるパラメーター入力方式が最大の特徴だったJD-800の構成を全面的に見直し、ラックマウントタイプながら非常に扱いやすく設計されている。雑誌媒体の広告キャラクターを電気が務めたことでも有名。電気の作品では「VITAMIN」以降使用されており、砂原のソロ作品「TAKE OFF AND LANDING」、「THE SOUND OF 70's」でも活躍している。