歩兵連隊(ほへいれんたい、歩兵聯隊、英語: Infantry regiment)とは、歩兵を主とする連隊。
歩兵連隊の起源は、イタリア戦争中にスペイン王国のゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ将軍によって創案されたテルシオ(tercio)に遡る[1]。これはマスケット銃兵とパイク兵の混成部隊であり、それぞれの弱点を補うように運用することで、ヨーロッパ最強の野戦軍としての評価を獲得した[2]。16世紀初期の30年間、スペイン軍は数個のコラネラス(columelus)から成る総兵力3,000名以上、歩兵主体の大単位部隊としてテルシオを発展させた[1]。このコラネラスは銃兵やパイク兵などを混成した兵力1,000-1,250名程度の部隊で、武器と戦術運用を体系的に総合した点において近代西欧に出現した最初の合理的戦術単位部隊であり、歩兵大隊の起源となった[1]。またテルシオを構成するコラネラスの数は最終的に3個となり、近代軍隊として初の3単位制ともなった[1]。
イタリア戦争でテルシオの猛威を痛感したフランス王国は、まもなく16世紀中葉ごろにテルシオの概念を導入した[1]。ただし名称は「テルシオ」ではなく、当初は「軍団」(legion)[注 1]、そして後に「連隊」(regiment)と称された[1]。
初期の連隊の実態は連隊所有者たる大佐によって経営される私的企業体であり、雇用主に必要がなくなる、あるいは大佐が事業から撤退しようとする場合、連隊が解散されることも珍しくなかった[3]。ただし雇い主たる君主の立場からすると、連隊が解散するとこれにかわる新しい連隊の立ち上げが必要になるという問題があり、後には、大佐が事業から撤退する場合には他の大佐にこれを引き継がせるようになっていった[3]。
17世紀、スウェーデン王グスタフ2世アドルフは多くの軍事的改革を行ったが、その一つが小単位部隊編制の合理的・合目的的整備であり[1]、この際にも連隊が基本構成単位とされた[4]。グスタフ2世アドルフの統治下で、平時の行政単位としての地域連隊(Landsregiment)は3つの野戦連隊(Fältregiment)から構成されるようになり、1620年代後半より戦争が常態化すると野戦連隊の機能充実が図られて、1630年頃には地域連隊は廃止され、野戦連隊を発展させた地方連隊(Landskapsregiment)が設置されるようになった[4]。連隊においては1,200名の人員を8個中隊に編成するのが定数であり[4]、またこの連隊・中隊を基盤として、実際の戦場においては戦列歩兵として運用するため、マスケット銃兵やパイク兵などの兵科ごとの戦隊と、これらを編合した旅団が組織されるのが常であった[5]。
三十年戦争でのスウェーデンの同盟国フランスを始めとする欧州各国は、軍事革命を背景としてグスタフ2世アドルフの編制・戦術を競って採用し[1]、17世紀半ば以降、すべての国において、一定数の連隊を保有する傾向が顕著となっていった[3]。また私的企業体としての連隊から軍隊の恒久的組織体としての連隊への移行も進み、18世紀初頭には、ほとんど全ての国の軍隊で、後者のほうが前者よりも多くなっていた[3]。私的企業体としての連隊は、それを指揮する大佐の名を冠して呼ばれることが多かったのに対し、グスタフ2世アドルフは連隊旗の色を冠して呼ぶようにした[3]。指揮官は依然として大佐であったが、独立した企業家ではなく、王直々の任命を受けて公共財としての連隊を管理する高級官僚としての性格が強くなっていた[3]。
このような制度は連隊専属管理制度(仏: Regimentaire Propre Systeme)として、各国で全般的に普及していった[1]。連隊長(大佐)は行政上の管理と作戦時指揮をともに統轄して、政府から一括して支給される給与を各人に支給するとともに、人員の募集や装備の支給、訓練や組織管理などを担った[1]。連隊長は終身であったが、その地位とともに連隊の専属管理権を売却して引退する売官制度も併存した[1]。連隊長の行政上の管理権は中隊長(大尉)によって分担され、直接の募兵官として行動したほか、被服・武装にも責任を負うなど、連隊長に準ずる中隊の専属管理者としての性格を有していた[1]。
フランスにおいて、連隊は長く軍隊の最大常置単位部隊となったほか、単なる野戦部隊に留まらず、常設の地方的編制部隊として、17-18世紀には募兵・軍制・作戦組織としての地方別連隊の創設に繋がっていった[1]。またその下位部隊としての大隊・中隊の編制も安定恒久化した[1]。
大佐個人による連隊の編成権や経理の自主的運営は数世紀に及ぶ慣習・特権であり、このように連隊が軍隊の恒久的単位となった時代にも容易には撤廃されなかった[3]。ただし連隊長・中隊長が所有権を行使することで装備更新が滞るなど、弊害も少なくなかった[1]。兵員数を水増ししてその分の給与を連隊長が副収入とすることもしばしばで、1個中隊が15-20名にまで減ることもあったとされる[1]。このような非実在人員には、脱走兵や病欠者が出た場合に臨時に募兵するための空き枠という意味合いもあり、パスヴォラン(passe-volant)と称された[4]。
このためもあって、ルイ14世統治下のフランスでは国家的統制が強化され、連隊長の責任は募兵と訓練のみとなり、戦場での指揮は王が任命した中佐(lieutenant-colonel)、また装備・物資の補給・調達は軍隊を管理する文官官僚群によって執行されるようになって、1670年頃には組織的規律ある軍隊として面目を一新した[1]。このように国家的統制が強化されるとともに、大佐より下級の将校も大佐の私的任用による代理人や補佐役ではなく、直接的に王権によって保証された地位身分となっていき、フランスでは、1660年頃に陸軍卿であったルーヴォワ侯(フランス語版)によって法制化された[6]。更に連隊近代化が進むと、1762年のショワズール陸軍卿の政令によって、連隊専属管理制度は廃止された[1]。
17世紀後期には連隊長(大佐)の上位の階級として軍司令官(armee commandant)が常設されたが、その次級者たる中将(lieutenant général)や次級者たる少将(sergent major general)は戦役ごとに連隊長(大佐)のうちから選任され、戦役終了時に軍が解体されるとともに本来の連隊長職に復帰することになっていた[1]。しかし17世紀中葉ごろより連隊よりも大規模な単位部隊として旅団が登場したのち、1788年には、フランスにおいて、歩兵・騎兵連隊2個をもってそれぞれ歩兵旅団・騎兵旅団を構成し、更に歩兵旅団・騎兵旅団各1個をもって師団とする編制が定められた[1]。
大日本帝国陸軍には以下のような歩兵連隊があった。なお当時は当用漢字表の告示以前であり、「歩兵聯隊(步兵聯隊󠄁)」と表記された。
冠称無しの「歩兵連隊(歩兵聯隊)」は第1から第524連隊(間に欠番多数を有す)まで置かれた。帝国陸軍における歩兵連隊(歩兵)の軍隊符号(部隊符号)はi。隊号(連隊番号)などは符号に冠し321i(歩兵第321連隊)などと表記し、近衛歩兵連隊は近衛のGと合わせ1Gi(近衛歩兵第1連隊)、歩兵旅団・歩兵団は旅団・団のBと合わせiBとした。
明治4年(1871年)に設置された鎮台が明治6年(1873年)に6個鎮台になり、隷下に第1から第14までの14個歩兵連隊が置かれ、その後明治19年(1886年)までに24個の歩兵連隊が置かれた。これら24個歩兵連隊は明治21年(1888年)5月、鎮台が師団に改編されると師団隷下となった。各歩兵連隊には衛戍地が定められており、基本的に永久にその土地に駐屯するものとされた(改編・移動・廃止・復古はままあった)。鎮台が師団に改編される時点の陸軍常備団隊配備表(明治21年5月12日勅令第31号)では下表のように衛戍地が定められていた。
近衛歩兵連隊が第1から第10連隊まで置かれた。近衛歩兵連隊は、近衛師団創設後は同師団(後に近衛第1から第3師団に分かれた)に属した。
台湾歩兵連隊は2個置かれ、日中戦争開戦以前は台湾守備隊に属していた。太平洋戦争では第48師団に属しフィリピン攻略と蘭印作戦の主力を務めた。
北清事変(義和団の乱)に際して、清朝による外国公館保護が十分でなかったことから、列強は自国の公館を防衛するため軍隊を駐屯させる権利を得た。これに基いて、日本も天津に清国駐屯軍(後に支那駐屯軍に改称)を駐屯させ、その隷下に北平駐屯歩兵隊と天津駐屯歩兵隊を置いた。その後、昭和11年(1936年)4月18日に支那駐屯軍を強化したのにともない、北平駐屯歩兵隊を支那駐屯歩兵第1連隊に、天津駐屯歩兵隊を支那駐屯歩兵第2連隊に改編した。
昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発、同年8月31日に支那駐屯軍を第1軍に改編し廃止した際直轄部隊は支那駐屯混成旅団に改編され、翌昭和13年(1938年)3月12日に支那駐屯兵団と改称した際に支那駐屯歩兵第3連隊が設けられた。 支那駐屯軍廃止以前は支那駐屯歩兵旅団、廃止後は支那駐屯混成旅団、昭和13年(1938年)3月12日から支那駐屯兵団に、同年6月21日からは第27師団に属した。
独立歩兵連隊は関東軍の独立混成第11旅団に属していたが、後に第26師団に属することとなった。各独立歩兵連隊は第26師団に属して以降も「独立歩兵第○○連隊」を称し続けた。
以上のほか、部隊名に「歩兵連隊」が含まれるが、特殊な性格のものとして以下がある。
明治23年(1890年)11月1日制定時の「陸軍定員令」(明治23年11月1日勅令第267号)によると、当時の歩兵連隊の平時定員は次の通りであった。1個連隊は3個大隊12個中隊から構成されていた。なお、本章において単に「軍曹」としたものは1等軍曹(判任官3等)又は2等軍曹(判任官4等)の意味である。また、諸工長は1等軍曹相当官であり、諸工下長は2等軍曹相当官である。
この内、連隊長、連隊附少佐、連隊副官、2等軍医正、大隊長及び大隊副官が乗馬本分者であり、連隊長及び大隊長には乗馬2匹が用意される。
よって、連隊全体では、将校70名、准士官下士145名、兵卒1,440名、各部66名の総計1,721名、軍馬14匹が定員となっていた。
軍旗祭等の行事も行われた。
警察予備隊では、同時期のアメリカ陸軍の3単位制歩兵師団に準拠した管区隊4個を基本作戦単位としており、その基幹となる普通科連隊も、アメリカ陸軍の歩兵連隊に準じた編制を採用していた[21][22]。下記のように隷下には戦車部隊(特車中隊)や工兵部隊(工作補給小隊)もいるほか、幕僚もおり、日本陸軍出身者からするとミニ師団というべき贅沢な編制であった[21]。普通科大隊隷下の小銃中隊・重火器中隊および連隊長直轄の重迫撃砲中隊・特車中隊には通し番号が振られており、重火器中隊が第4・8・12中隊、重迫撃砲中隊が第13中隊、特車中隊が第14中隊であった[22]。豊富な無反動砲・迫撃砲と車両装備も日本陸軍出身者にとっては印象的だったが、一部の装備は警察予備隊時代には充足しなかった[21][22]。
この編制は保安隊でも踏襲されたが、陸上自衛隊への移行の際に、普通科連隊の第14中隊(特車中隊)の廃止や小銃中隊の火器小隊の迫撃砲小隊への改編(57mm無反動砲の廃止)、連隊本部中隊および管理中隊の圧縮などが行われた[23]。また陸上自衛隊では、10個作戦単位の整備を目指して管区隊を6個に増設するとともに、これを補完する4個混成団の編成に着手した[23]。
なお発足当時は普通科など付かずに単に「第〇連隊」と称されていたが、職種が制定されたことで「普通科第〇連隊」と称されるようになり、陸上自衛隊への移行とあわせて「第〇普通科連隊」と称されるようになった[24]。
警察予備隊時代の編制
10個作戦単位の整備を目指して管区隊を6個に増設するとともに、これを補完する4個混成団の編成に着手した[23]。当初、これは機動運用を前提とした機械化部隊とする予定であったが、装備品を確保できず、結局は管区隊の単なる縮小版となった[23]。管区隊では3個ある普通科連隊が混成団では1個のみになったため、予備兵力確保のため普通科大隊が4個に増設されたほか、普戦協同の観点から特車中隊が普通科連隊の隷下に入った[23]。
混成団隷下の普通科連隊の一覧
1961年(昭和36年)度より、6個管区隊・4個混成団体制から13個師団体制へと移行するにあたり、普通科連隊の編制も大規模に改訂された[23]。従来の普通科連隊は、3単位制の管区隊にあわせて編制が大規模になっていたため、隘路を一夜の機動で通過しきれない場合があるなど、小規模な平地が点在する日本の国土・地形の特性に不適な面が指摘されていた[23]。このことから、13個師団体制においては4単位制を基本とするように変更し、連隊を増設する一方で、個々の連隊の規模を縮小することとなった[23]。
普通科連隊における最大の変更点が大隊結節の消失で[23]、連隊長が4個普通科中隊、本部管理中隊、重迫撃砲中隊を直轄する編制となった[22]。大隊の隷下にあった重火器中隊も消失し、機関銃は小銃分隊に組み入れられ、81mm迫撃砲は迫撃砲小隊に引き継がれ、無反動砲小隊も装備を106mm無反動砲に更新して小銃中隊の隷下に入った[22][23]。これらの改編に伴って小銃中隊は普通科中隊、小銃分隊は小銃班と改称された[22][23]。
この改編によって人員数はほぼ半減し、通信機能の強化もあって軽快な運用が可能となった[22][23]。連隊単位での戦闘能力の低下には不満もあり、旧陸軍の軍人からは「増強歩兵大隊」とも揶揄されたが、実際には師団の戦車・特科部隊などを配属されて連隊戦闘団(RCT)として行動することもあって、時間が経つに連れて不満は薄れていった[22]。
その後、小銃小隊の3.5インチロケット発射筒は89mmロケット発射筒、ついで84mm無反動砲へと更新されていった[23]。また普通科中隊の無反動砲小隊に装備されていた106mm無反動砲が対戦車ミサイルに更新されると、部隊名は対戦車小隊に変更された[25]。更に、後に対戦車隊が廃隊となった師団では、その機能は普通科連隊に組み込まれ、連隊の下にも対戦車中隊が編成されていった[22]。
13個師団体制時代の編制[23]
冷戦終結などの内外情勢の変化を受けて、1995年(平成7年)に閣議決定された防衛計画の大綱(07大綱)に基づき、陸上自衛隊は9個師団体制へ移行するとともに、各作戦単位は機能別に分化することになった[22]。北海道の部隊はあらゆる事態に対応しうる編制を維持した「総合近代化師団」とされる一方、それ以外の地域の部隊は重装備を効率化した「即応近代化師団」とされ、後者については特に地域の特性にあわせた政経中枢タイプと離島タイプも派生した[26]。
これらの普通科連隊では普通科中隊のうち1個が装甲化されており、即応近代化師団においては軽装甲機動車、総合近代化師団では96式装輪装甲車が用いられる[26]。その他の中隊も、高機動車によって自動車化されている[26]。政経中枢タイプの即応近代化師団については、2002年(平成14年)に第1師団が改編される際、隷下の普通科連隊の重迫撃砲中隊を廃止する一方、普通科中隊を5個に強化した[22][24]。ただし重迫撃砲中隊の廃止は師団の固有火力の絶対的な低下を招いたことから、2006年(平成18年)に第3師団が政経中枢タイプ即応近代化師団に改編された際には重迫撃砲中隊の廃止は行われず、第5普通科中隊の純増という形で改編された[27]。また第1師団でも、廃止された第6地対艦ミサイル連隊の要員を充てる形で、2011年(平成23年)には重迫撃砲中隊を復活させた[24]。
07大綱に基づく9個師団体制への移行に伴い、4個師団が旅団に縮小改編されるとともに、13個師団体制下で新編されていた2個混成団も旅団に改編された[28]。旅団の下の結節としては、当初は2等陸佐を指揮官とする普通科大隊4個を配置することも検討されたが、結局は1等陸佐を指揮官とする普通科連隊が存続することになった[29]。これは旅団の基幹となる戦術単位として、戦闘団を編成して行動する場合に、2等陸佐では諸職種連合部隊の指揮に不安が残ると判断されたためとされる[29]。
旅団隷下の普通科連隊は「普通科連隊(軽)」と通称され、普通科中隊は3個に削減されたほか、重迫撃砲中隊も廃止されて本部管理中隊に重迫撃砲小隊を組み込む形となっており[22]、定員は600-700名に削減されている[26]。2004年(平成16年)に第5師団が旅団に縮小改編された際には、同旅団隷下の第4・6・27普通科連隊だけは4個普通科中隊を基幹としており、定員約750名と、他の連隊よりも100名多かったが、2011年(平成23年)の総合近代化旅団への改編時に他の旅団と同様に削減された[30]。一方、第14旅団が機動旅団に改編される際に、その隷下の第50普通科連隊には重迫撃砲中隊が再編された[31]。第12旅団の改編の際にも第2・第13・第30普通科連隊に重迫撃砲中隊が再編された。
「旅団隷下の普通科連隊の一覧」を参照
2006年(平成18年)3月27日に東北方面混成団が第9師団隷下の第38普通科連隊等を編合して編成された。方面混成団隷下の普通科連隊は即応予備自衛官を主体として構成されるコア部隊で通常の編成から改編された連隊とコア部隊として新編された連隊がある。東北方面混成団新編以降、1個普通科連隊を有する方面混成団が各方面隊隷下に編成された。連隊の編制は、方面混成団へ異動するまでは所属する師団・旅団の普通科連隊と同じであったが、逐次師団普通科連隊と同等の編制に増強改編されている。また、一部の連隊は隷下の普通科中隊を別の駐屯地へ分派している。2013年(平成25年)3月26日には東部方面混成団に第12旅団隷下の第48普通科連隊(コア部隊)が、2014年(平成26年)3月26日には中部方面混成団に第10師団隷下の第49普通科連隊(コア部隊)が、2018年(平成30年)3月27日には西部方面混成団に第8師団隷下の第24普通科連隊(コア部隊)が編合され東部、中部、西部の各方面混成団は2個普通科連隊を有することとなった。
「方面混成団隷下の普通科連隊の一覧」を参照
この節は、普通科連隊等に関する記事の沿革のまとめであり、編成等の歴史を一元的に確認できるようにすることを目的としている。
出典等は該当部隊等の各記事を確認のこと。
第二次世界大戦当時のアメリカ陸軍の歩兵連隊は総員3,068名で、編制は以下の通り。
歩兵中隊は小銃3個小隊と火器小隊1個から編成され、火器小隊はM2 60mm 迫撃砲班3個と機関銃分隊2個からなっており、歩兵3個小隊を3門のM2 60mm 迫撃砲が支援するようになっていた。 M1 81mm 迫撃砲は重火器中隊の迫撃砲小隊に6門が配備され、3個歩兵大隊で1個連隊を構成していたので、合計で18門となった。
1957年、アメリカ陸軍は、ペントミックとして知られる新しい編制を採用した。この編制では、従来の歩兵連隊の枠組みは解体され、かわりに、5個の連隊戦闘群が編制された。この連隊戦闘群は5個小銃中隊と戦闘支援中隊から編成されており、従来の歩兵連隊と歩兵大隊の中間的な規模であった。
ペントミック編制は1960年代初頭には見直され、ROAD再編成計画が発動された。これによってペントミック式の連隊戦闘群は解体されたが、歩兵連隊が再編されることはなく、大隊を基幹とする編制法に移行した。ただし、連隊の戦歴を継承するため、それぞれの歩兵大隊は、かつての所属連隊の名前を冠することとされた。ROAD計画以後も数度にわたって編制の見直しが行なわれたが、大隊を基幹とするという点は変化しておらず、現在、アメリカ陸軍には、常時編成される戦闘単位としての歩兵連隊は、第75レンジャー連隊(アメリカ特殊作戦軍指揮下)が存在するのみとなっている。また、第503歩兵連隊(英語版)は、その名前を冠する大隊がいずれも第173空挺旅団戦闘団に所属していることから、事実上、連隊の編制が存続していると見なされることもある。
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