一条 昭良(いちじょう あきよし)は、江戸時代前期の公卿。後陽成天皇の第九皇子[2]。関白・一条内基の養子となり一条家14代当主となる。それにより一条家は皇別摂家となった。官位は従一位・摂政、関白、左大臣。
後陽成天皇の第九皇子として生まれる。幼称は九宮。慶長14年(1609年)前関白・一条内基の養子となり、兼遐(かねとお)と称した。寛永6年(1629年)関白となり、後に摂政となった。寛永12年(1635年)名を昭良に改め、摂政を退任している。正保4年(1647年)摂政に再任され、その後関白となった。承応元年(1652年)出家して恵観と称した。寛永18年(1641年)頃から洛北西賀茂に山荘を営み、醍醐家の祖となった次男・冬基に伝領された。
賀茂の山荘(一条恵観山荘)の茶室が、1959年に建築家堀口捨己の監修の下に鎌倉市浄明寺に移築され、現存する(国の重要文化財)[3][4]。
分家・支流
中大兄皇子を摂政とみなすのは、『藤氏家伝』上巻に「〔斉明天皇〕悉以庶務、委皇太子。皇太子毎事諮決、然後施行」とあることによる。草壁皇子を摂政とみなすのは、『日本書紀』天武天皇10年2月25日条に「立草壁皇子尊、為皇太子。因以令摂万機」とあることによる。