近衞 忠嗣(このえ ただつぐ)は、日本の南北朝時代(北朝)から室町時代にかけての公卿。初名は良嗣(忠嗣への改名は関白任官直前の応永15年(1408年)3月)。
南北朝時代末の公家、父は近衛兼嗣、母は家女房。康応1年(元中6年、1389年)元服ののち、良嗣と称し、応永15年(1408年)忠嗣と改める。明徳1年(元中7年、1390年)従三位となり、左大臣を経て、応永15年関白・氏長者。同29年閏10月10日出家するが(逝去は誤記)、その原因は月の初めに最愛の妻室が他界したことにあった。
忠嗣は悲しみのあまり取り乱し、切腹に及ぶ。周囲は驚いて刀を奪い取り、切腹を制止するが、その後すぐ忠嗣は髻を切った。伏見宮貞成親王、三宝院満済はそれぞれの日記『看聞日記』『満済准后日記』にこの事件を記し、すこぶる狂気か、摂関家では前代未聞の例であると結んでいる。
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