鷹司 兼忠(たかつかさ かねただ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。鷹司家3代当主。
太政大臣・鷹司兼平の子。官位は従一位・関白、左大臣。号に歓喜苑摂政。
兄・基忠の養子となり、基忠の長男・冬平を自身の養子とした。
官職歴
- 文永8年2月17日(1271年3月29日) - 文永8年7月2日(1271年8月8日) 右近衛少将
- 文永8年7月2日(1271年8月8日) - 建治元年12月22日(1276年1月9日) 右近衛中将
- 文永9年7月11日(1272年8月6日) - ? 近江権守
- 文永10年5月3日(1273年5月20日) - 建治元年12月22日(1276年1月9日) 権中納言
- 建治元年12月22日(1276年1月9日) - 正応元年10月27日(1288年11月22日) 権大納言
- 弘安2年正月10日(1279年2月22日) - 正応元年11月8日(1288年12月2日) 左近衛大将
- 正応元年10月27日(1288年11月22日) - 正応2年10月18日(1289年11月2日) 内大臣
- 正応2年4月25日(1289年5月16日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日) 東宮傅(胤仁親王)
- 正応2年10月18日(1289年11月2日) - 正応4年12月25日(1292年1月16日) 右大臣
- 正応4年12月25日(1292年1月16日) - 永仁4年12月25日(1297年1月19日) 左大臣
- 永仁4年7月24日(1296年8月24日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日) 関白(伏見天皇)
- 永仁6年7月22日(1289年8月30日) - 永仁6年12月20日(1299年1月23日) 摂政(後伏見天皇)
位階歴
- 文永8年2月11日(1271年3月23日) 正五位下
- 文永8年5月5日(1271年6月13日) 従四位下
- 文永8年10月13日(1271年11月16日) 正四位下
- 文永9年正月5日(1272年2月5日) 従三位
- 文永9年9月27日(1272年10月20日) 正三位
- 文永11年正月5日(1274年2月13日) 従二位
- 文永12年正月6日(1275年2月3日) 正二位
- 正応元年12月20日(1289年1月13日) 従一位
系譜
- 父:鷹司兼平(1228-1294)
- 母:平親継の娘(?-1292)
- 養父:鷹司基忠(1247-1313)
- 妻:近衛基平の娘
- 生母不明の子女
- 男子:鷹司兼冬
- 男子:鷹司基教
- 男子:兼源
- 男子:兼覚
- 養子
- 男子:鷹司冬平(1275-1327) - 鷹司基忠の子
参考文献
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中大兄皇子を摂政とみなすのは、『藤氏家伝』上巻に「〔斉明天皇〕悉以庶務、委皇太子。皇太子毎事諮決、然後施行」とあることによる。 草壁皇子を摂政とみなすのは、『日本書紀』天武天皇10年2月25日条に「立草壁皇子尊、為皇太子。因以令摂万機」とあることによる。
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