九条 師教(くじょう もろのり)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。関白・九条忠教の一男。官位は従一位・摂政、左大臣。九条家7代当主。号に己心院。浄土寺摂政。
弘安4年(1281年)1月従五位上に初叙、禁色を聴された。次いで侍従・左近衛権中将などを経て、同8年(1285年)3月従三位に叙され公卿に列席。正応元年(1288年)9月権中納言、同3年(1290年)1月左衛門督、6月権大納言を歴任し、同5年(1292年)12月橘氏是定宣下を受けた。同6年(1293年)1月には上首5人を超越して内大臣に就任。さらに永仁4年(1296年)12月右大臣に転じ、同5年(1297年)12月左近衛大将を兼ねるも、翌年4月大将を辞任した。
正安元年(1299年)4月左大臣、同2年(1300年)1月従一位に叙任され、同3年(1301年)8月富仁親王(後の花園天皇)が立太子すると、その東宮傅に補任。嘉元3年(1305年)4月後二条天皇より関白宣下を受け、藤氏長者となり、徳治2年(1307年)2月太政大臣の上に列せられた。延慶元年(1308年)8月花園天皇の践祚に際して、摂政に補されたが、同年11月辞任した。元応2年(1320年)6月7日に薨去、享年48[注釈 1]。実弟で養子の房実が跡を継いだ。
歌人としては、嘉元元年(1303年)の『嘉元百首』に詠進し、『新後撰和歌集』以下の勅撰集に15首入る。
中大兄皇子を摂政とみなすのは、『藤氏家伝』上巻に「〔斉明天皇〕悉以庶務、委皇太子。皇太子毎事諮決、然後施行」とあることによる。草壁皇子を摂政とみなすのは、『日本書紀』天武天皇10年2月25日条に「立草壁皇子尊、為皇太子。因以令摂万機」とあることによる。