鷹司 輔平(たかつかさ すけひら)は、江戸時代中期の公家。藤氏長者。従一位、関白。幼名は淳宮。東山天皇の孫にあたる。兄妹に第2代当主・閑院宮家典仁親王や徳川家治の御台所となった五十宮倫子女王がいる。
閑院宮直仁親王(東山天皇皇子)の第4王子。生母は長祥院(家女房)。五摂家のひとつ鷹司家の養子になり、第21代当主となる。以降鷹司家は皇別摂家となった。
略歴
寛保3年(1743年)、鷹司基輝(従二位内大臣)が17歳で急死(5月15日)して鷹司家は断絶の危機を迎えた。基輝の実父で、元々鷹司家から養子に入って一条家を継いでいた当時の関白一条兼香はこれを憂慮して桜町天皇に対して弟の政宮(後の遵仁法親王)を鷹司家の養子にするように願い出た。これに対して天皇は鷹司家から西園寺家に養子に入った西園寺実輔の子孫[注釈 1]から養子を迎えることを提案した。だが、兼香の案は政宮が病弱で摂家の当主は務まらないとする天皇が反対し、天皇の案は摂関が摂家以外(西園寺家は閑院流の清華家)に移ることを恐れた兼香が反対した。そのため、兼香は世襲親王家からの養子を取る旨、天皇より同意を得て、有栖川宮職仁親王の第5王子である律宮と直仁の王子である淳宮のいずれか、もしくはいずれも不可とするか、春日大社に使者を発して後継の神託を求めた。春日大社での占いの結果、直仁親王の王子である淳宮が養子に選ばれた[注釈 2][3]。そこで兼香はまず淳宮を桜町天皇の猶子(10月4日)とし、続いて氏姓を藤原姓とするために自分の養子に迎えた(同27日)上で一条家からの養子という形式で鷹司家を相続させた。
延享2年12月7日(1745年)、元服。寛延6年(1756年)、内大臣。天明7年(1787年)、関白に就任して自分と同様に閑院宮家から皇室に入って即位した甥の光格天皇(実兄である典仁親王の実子、安永8年(1779年)即位)をよく補佐した。天明8年(1788年)に始まる「尊号一件」の際は、多くの公家が典仁親王の尊号宣下に賛成する中、嗣子・政煕とともに一貫して反対の立場を取ったため、典仁親王や光格天皇から信頼を失った。それでも幕府との穏便な打開策を測ろうと奔走し、時の老中、松平定信と折衝を続け解決に尽力した。
寛政9年(1797年)に出家し、理延と号する。文化10年(1813年)、75歳で薨去。
系譜
なお、相続した鷹司家に関しては玄孫の輔政の死後に、その父・輔煕が新たに九条家から煕通を養嗣子に迎えたことにより、以降輔平の血統ではなくなるが、輔政の長兄徳大寺公純が継いだ徳大寺家などがその血統を伝えている。
系図
脚注
注釈
- ^ 西園寺実輔は一条兼香の実兄であるが兼香の誕生前に既に死去している。養子の候補としては具体的に孫にあたる寿季(後の橋本実理)の名前まで上っていた[1]。
- ^ 『兼香公記別記』七(寛保3年7月27日条)によると、この時には兼香と天皇の間で世襲親王家から後継に迎える方針が決められており、淳宮と律宮(職仁親王第五王子)の名前が入った紙、それに白紙(どちらも不可)の3枚から選んだという[2]。
- ^ 読みはまさこ。「昌子」とも記される。
出典
- ^ 長坂、2018年、P30-34.
- ^ 長坂、2018年、P36-37.
- ^ 長坂良宏「近世摂家相続の原則と朝幕関係」『近世の摂家と朝幕関係』吉川弘文館、2018年(原論文:『日本歴史』第721号、2008年)。2018年、P30-38.
関連項目
|
---|
飛鳥時代 | |
---|
奈良時代 | |
---|
平安時代 | |
---|
鎌倉時代 | |
---|
南北朝時代 | |
---|
室町時代 | |
---|
戦国時代 | |
---|
安土桃山時代 | |
---|
江戸時代 | |
---|
カテゴリ |
|
---|
平安時代 | |
---|
鎌倉時代 | |
---|
南北朝時代 |
|
---|
室町時代 | |
---|
戦国時代 | |
---|
安土桃山時代 | |
---|
江戸時代 | |
---|
|