ウィリー・メイズWillie Mays
基本情報 国籍
アメリカ合衆国 出身地
アラバマ州 ウェストフィールド 生年月日
(1931-05-06 ) 1931年 5月6日 没年月日
(2024-06-18 ) 2024年 6月18日 (93歳没) 身長 体重
5' 11" =約180.3 cm 180 lb =約81.6 kg 選手情報 投球・打席
右投右打 ポジション
外野手 (主に中堅手 ) プロ入り
1950年 初出場
1951年5月25日 最終出場
1973年9月9日 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選出年
1979年 得票率
94.68% 選出方法
全米野球担当記者協会選出
ウィリー・ハワード・メイズ・ジュニア (Willie Howard Mays Jr. , 1931年 5月6日 - 2024年 6月18日 [ 1] )は、アメリカ合衆国 アラバマ州 ウェストフィールド 出身のプロ野球選手 (中堅手 )。右投右打。ニックネームは「セイ・ヘイ・キッド (The Say Hey Kid)」。
通算3283安打、660本塁打 、338盗塁 。首位打者 1回、本塁打王 4回、盗塁王 4回、MVP 2回。長打力を含め、走攻守すべてを兼ね備えた伝説的な名外野手と称される[ 2] 。
MLB 史上最高の「コンプリート・プレーヤー 」と称され、史上最高の中堅手 と評価されることが多い[ 3] [ 4] 。
経歴
ジャイアンツ時代
1948年 から1949年 、ニグロリーグ のバーミンガム・ブラックバロンズ (英語版 ) に所属した後、1950年 にニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ )と契約。
1951年 にAAA級のミネアポリス・ミラーズ (英語版 ) で35試合に出場して打率.477を記録し、同年の5月25日にメジャーデビューを果たした。当初は12打数連続無安打だったが、13打数目でウォーレン・スパーン からメジャー初安打・初本塁打を記録[ 5] 。このシーズンは121試合に出場し、打率.274、20本塁打、68打点を記録し、新人王 に選出された。
1952年 に34試合に出場した後、朝鮮戦争 に従軍し、一時的に野球を離れる。
1954年 に復帰。打率.345で首位打者 のタイトルを獲得し、41本塁打、110打点の活躍で、テッド・クルズースキー らを抑えてMVP に選出された[ 6] 。ジャイアンツはナリーグのペナントを制し、ワールドシリーズ ではクリーブランド・インディアンス を4連勝で下して優勝。このシリーズの第1戦で、メイズは「ザ・キャッチ 」として語り継がれる伝説的ファインプレーを披露している[ 7] 。
1955年 には51本塁打で本塁打王 のタイトルを獲得。また、24歳137日で達成したシーズン50本塁打 は2007年 にプリンス・フィルダー (23歳139日)に更新されるまでメジャー最年少記録だった[ 8] 。
1956年 は36本塁打、40盗塁を記録。
1957年 は35本塁打、36盗塁で2年連続して30本塁打・30盗塁 を達成。
1957年シーズン終了後ジャイアンツは本拠地をニューヨーク からサンフランシスコ へ移転。新しいホームグラウンドのキャンドルスティック・パーク は左翼から本塁へ海からの強風が吹きこみ、メイズの引っ張った打球も強風で押し戻されることが多かったが[ 7] 20-20-20 を達成。
1962年 にはシーズン49本塁打で2回目の本塁打王のタイトルを獲得。
1965年 は自己最多の52本塁打を記録し、サンディー・コーファックス らを抑えて2回目のMVPに選出された[ 9] 。このシーズンの8月には17本塁打を記録し、月間本塁打のナ・リーグ新記録を樹立[ 10] し、9月13日に史上5人目となる通算500本塁打 を達成した。
1966年 5月4日に通算512本目の本塁打で、メル・オット のナ・リーグ通算最多本塁打記録を更新[ 10] 。
しかし、1967年以降はシーズン30本塁打・100打点を記録することはできず、成績は徐々に下降線をたどる。
1967年 は不調が続き、スポーツ・イラストレイテッド 誌は「メイズの両目の下にはクマができている。おそらく不振で眠れないのだろう。すでに36歳。エネルギッシュで颯爽としていたプレーは、過去のものとなってしまった」との記事を掲載した。これに対し、メイズは反論をせず、記事を認めるコメントをしている[ 7] 。その一方で1970年 1月17日に「スポーティング・ニュース 」はメイズを1960年代最高の選手(Player of the Decade )に選出した[ 10] 。
1969年 9月22日、ベーブ・ルース 以来史上2人目となる通算600本塁打を達成。
1970年 7月18日、史上10人目となる通算3000安打 を達成。
メッツ時代
メッツ時代のメイズ (1972年)
1972年 5月12日にチャーリー・ウィリアムズ (英語版 ) と金銭5万ドルでニューヨーク・メッツ へトレード移籍[ 11] 。なお、これまでの成績を評し、ジャイアンツは同日、メイズの在籍時の背番号 『24 』を永久欠番 に指定。ジャイアンツとしては3人目、さらにサンフランシスコにフランチャイズを移転してから初の永久欠番選手だった[ 12] 。
メッツ移籍後はさすがに衰えは隠せず、移籍初年の1972年は打率.250、8本塁打だった。
1973年 、8月17日の試合で現役最後の660号本塁打を放ち、この後で今シーズン限りの現役引退を表明する。シーズンの成績は自己最低の打率.211、6本塁打だったが同年、メッツはワールドシリーズ に進出しており、メイズは第1試合で先発出場した。第2試合では9回に代走として出場し、延長12回6-6で適時打を放ったのが生涯最後の安打となった[ 13] 。第3試合は10回に代打で出場し、ゴロを放ったのが最後の打席となった[ 14] 。
メッツ移籍後、当時のオーナー・ジョアン・ペイソンに引退後の自身の背番号『24 』がジャイアンツ時代と同じく永久欠番にすると言明されていたが、ペイソンは1975年に死去したため、その欠番指定が反故にされた形となってしまう。
引退後
メイズのジャイアンツ在籍時の背番号「24 」。 サンフランシスコ・ジャイアンツの永久欠番 に1972年 指定。
メイズのメッツ在籍時の背番号「24 」。 ニューヨーク・メッツの永久欠番 に2022年 指定。
1979年 、432票中409票(約94%)の得票で有資格初年度にアメリカ野球殿堂 入りを果たした[ 15] 。
1979年10月29日にカジノ経営に絡む企業の仕事を受けたとして、MLBコミッショナー のボウイ・キューン から追放処分を受ける。同様の処分は1983年にミッキー・マントル にも科せられていたが、1985年 3月18日にMLBコミッショナーのピーター・ユベロス が2人の追放を解除している[ 16] 。
2015年 11月24日にホワイトハウス でバラク・オバマ 大統領 より大統領自由勲章 を授与された[ 17] 。
2022年 、最後にプレーしたニューヨーク・メッツにおいて、前述の反故にされていた在籍時の背番号『24 』の永久欠番を改めて指定されることになり、同年8月27日に開催されたメッツのオールドタイマーズデイにて指定された。
2024年 6月18日、心不全 のため死去。93歳没[ 1] [ 18] [ 19] 。
選手としての特徴
MLBを代表する5ツールプレイヤー 。「ライフルアーム 」と呼ばれた強肩の持ち主。
通算660本塁打 で引退当時はベーブ・ルース 、ハンク・アーロン に次ぐ3位だった。22年の現役生活で通算打率.302を記録した高打率を誇り、1951年 に新人王 、ゴールドグラブ賞 12回、本塁打王 4回、盗塁王 4回を獲得している。
オールスター にも1954年 から1973年 まで20回連続で出場した。テッド・ウィリアムズ は「オールスターはメイズのためにつくられた」と述べている。
逸話
ザ・キャッチ
1954年のワールドシリーズ はメイズ擁するニューヨーク・ジャイアンツとクリーブランド・インディアンス との対戦で、第1戦は9月29日、ジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズ で行われた。
2対2の同点で迎えた8回表、インディアンスは先頭のラリー・ドビー が四球で出塁、続くアル・ローゼンの安打で無死一・二塁とチャンスを作る。ここで打席に立ったビック・ワーツ (英語版 ) が打った打球は中堅手のメイズの後方への大飛球となる。この瞬間、誰もがインディアンスの勝ち越しを予期し、試合が決まったと思った。
しかし、この打球を懸命の背走で追ったメイズは、ほとんど振り向くことなく、全速力のままボールの落下点に到達。グラブを大きく開いたメイズは肩越しに捕球すると同時に反転、内野に送球すると勢いで前方に倒れこんだ。固唾を飲んで打球の行方を追っていた大観衆は、安打性の当たりがアウトになったことを悟り、大歓声をあげた。ジャイアンツが絶体絶命のピンチを脱した一方で、インディアンスは試合を決めるチャンスを逃した。結局この試合は延長戦にもつれ込み、最後はジャイアンツがサヨナラ勝ちを収めた。そのまま勢いに乗ったジャイアンツは、下馬評で有利と見られていたインディアンスに4連勝のスウィープ で優勝した[ 7] 。
このメイズのファイン・プレーはシリーズの流れを決し、メイズがボールをグラブに収める瞬間を見事にとらえた写真が広まったこともあり、「ザ・キャッチ 」として今も語り継がれている。
また、ワーツは後に「あの打球が三塁打かホームランになったら、みな私の事など忘れているだろう」と語っていたという。
その他
「ザ・キャッチ」のプレーは有名だが、メイズは4度出場したワールドシリーズにおいて特筆すべきプレーは同プレーが唯一と言ってよく、その8年後に出場したニューヨーク・ヤンキース とのワールドシリーズ では第1戦で3安打、1打点を記録するものの、第2戦以降は24打数4安打、0打点であった。ワールドシリーズ通算でも打率.239、本塁打0本に終わっており、メイズはワールドシリーズで本来の実力が発揮出来なかった名選手の1人に挙げられている[ 20] 。
同時代に活躍したハンク・アーロン と比較されることが多かった。一時期は地味なアーロンに比べ華やかなメイズの評判が高かったが、1974年にアーロンがベーブ・ルース の通算本塁打記録を更新してからは評価が逆転した[ 7] 。なお、殿堂入りの際に「あなたの現役時代においてもっともすぐれた選手は誰だったと思いますか」と問われたメイズは、「俺こそがそうだった」と答えている。
バリー・ボンズ の名付け親としてもよく知られており、バリーがジャイアンツに移籍する際にメイズの永久欠番である「24 」をつけたいと依頼し、これにはメイズも快諾したが、周囲の強い反対を受けた。そのためバリーの父であり、メイズのチームメイトであったボビー・ボンズ がつけていた隣の「25 」をつけた逸話がある。
若かりし頃の野村克也 に「ムース」のあだ名をつけたのはメイズである。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度
球 団
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
O P S
1951
NYG SF
121
524
464
59
127
22
5
20
219
68
7
4
1
--
57
7
2
60
11
.274
.356
.472
.828
1952
34
144
127
17
30
2
4
4
52
23
4
1
0
--
16
1
1
17
2
.236
.326
.409
.735
1954
151
641
565
119
195
33
13
41
377
110
8
5
0
7
66
14
2
57
12
.345
.411
.667
1.078
1955
152
670
580
123
185
18
13
51
382
127
24
4
0
7
79
13
4
60
12
.319
.400
.659
1.059
1956
152
651
578
101
171
27
8
36
322
84
40
10
0
3
68
20
1
65
16
.296
.369
.557
.926
1957
152
669
585
112
195
26
20
35
366
97
38
19
0
6
76
15
1
62
14
.333
.407
.626
1.033
1958
152
685
600
121
208
33
11
29
350
96
31
6
0
6
78
12
1
56
11
.347
.419
.583
1.002
1959
151
649
575
125
180
43
5
34
335
104
27
4
0
6
65
9
2
58
11
.313
.381
.583
.964
1960
153
669
595
107
190
29
12
29
330
103
25
10
0
9
61
11
4
70
15
.319
.381
.555
.936
1961
154
659
572
129
176
32
3
40
334
123
18
9
0
4
81
15
2
77
14
.308
.393
.584
.977
1962
162
706
621
130
189
36
5
49
382
141
18
2
0
3
78
11
4
85
19
.304
.384
.615
.999
1963
157
671
596
115
187
32
7
38
347
103
8
3
0
7
66
5
2
83
15
.314
.380
.582
.962
1964
157
665
578
121
171
21
9
47
351
111
19
5
1
3
82
13
1
72
11
.296
.383
.607
.990
1965
157
638
558
118
177
21
3
52
360
112
9
4
2
2
76
16
0
71
11
.317
.398
.645
1.043
1966
152
629
552
99
159
29
4
37
307
103
5
1
1
4
70
11
2
81
13
.288
.368
.556
.924
1967
141
544
486
83
128
22
2
22
220
70
6
0
2
3
51
7
2
92
12
.263
.334
.453
.787
1968
148
573
498
84
144
20
5
23
243
79
12
6
0
6
67
7
2
81
13
.289
.372
.488
.860
1969
117
459
403
64
114
17
3
13
176
58
6
2
0
4
49
7
3
71
8
.283
.362
.437
.799
1970
139
566
478
94
139
15
2
28
242
83
5
0
0
6
79
3
3
90
7
.291
.390
.506
.896
1971
136
537
417
82
113
24
5
18
201
61
23
3
1
4
112
11
3
123
8
.271
.425
.482
.907
1972
19
67
49
8
9
2
0
0
11
3
3
0
1
0
17
1
0
5
4
.184
.394
.224
.618
NYM
69
242
195
27
52
9
1
8
87
19
1
5
3
0
43
5
1
43
5
.267
.402
.446
.848
'72計
88
309
244
35
61
11
1
8
98
22
4
5
4
0
60
6
1
48
9
.250
.400
.402
.802
1973
66
239
209
24
44
10
0
6
72
25
1
0
1
1
27
0
1
47
7
.211
.303
.344
.647
MLB :22年
2992
12497
10881
2062
3283
523
140
660
6066
1903
338
103
13
91
1464
214
44
1526
251
.302
.384
.557
.941
各年度の太字 はリーグ最高
NYG(ニューヨーク・ジャイアンツ)は、1958年にSF(サンフランシスコ・ジャイアンツ)に球団名を変更
年度別守備成績
内野守備
年 度
球 団
一塁(1B)
三塁(3B)
遊撃(SS)
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
1963
SF
-
-
1
0
0
0
0
----
1964
1
6
1
0
1
1.000
1
0
1
0
0
1.000
1
0
0
0
0
----
1968
1
9
0
0
1
1.000
-
-
1969
1
6
0
0
1
1.000
-
-
1970
5
34
3
0
3
1.000
-
-
1971
48
384
27
11
43
.974
-
-
1972
NYM
11
75
2
1
3
.987
-
-
1973
17
143
4
3
9
.980
-
-
MLB
84
657
37
15
61
.979
1
0
1
0
0
1.000
2
0
0
0
0
----
外野守備
年 度
球 団
左翼(LF)
中堅(CF)
右翼(RF)
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
1948
BBB
11
17
1
2
0
.900
-
1
0
0
0
0
----
1951
NYG SF
-
121
349
13
9
2
.976
-
1952
-
34
110
5
1
2
.991
-
1954
-
151
443
13
7
9
.985
-
1955
-
152
399
22
8
8
.981
-
1956
-
152
405
14
9
6
.979
-
1957
-
150
407
14
9
4
.979
-
1958
-
151
429
15
9
2
.980
-
1959
-
147
351
6
5
2
.986
-
1960
-
152
391
11
8
2
.980
-
1961
-
153
385
7
8
3
.980
-
1962
-
161
425
6
4
1
.991
-
1963
-
157
398
8
8
1
.981
-
1964
-
155
364
9
6
4
.984
-
1965
1
6
0
0
0
1.000
147
323
10
5
4
.985
4
5
2
1
0
.875
1966
1
1
0
0
0
1.000
144
358
8
7
2
.981
5
9
0
0
0
1.000
1967
-
134
278
3
7
0
.976
-
1968
-
141
302
7
7
2
.978
1
2
0
0
0
1.000
1969
-
106
202
4
5
0
.976
2
5
0
0
0
1.000
1970
-
128
272
6
7
3
.975
-
1971
-
84
193
3
6
1
.970
-
1972
-
14
30
0
0
0
1.000
-
NYM
-
50
107
3
3
1
.973
-
'72計
-
64
137
3
3
1
.979
-
1973
-
45
103
1
1
0
.990
-
NLB
11
17
1
2
0
.900
-
1
0
0
0
0
----
MLB
2
7
0
0
0
1.000
2829
7024
188
139
59
.981
12
21
2
1
0
.958
各年度の太字 はリーグ最高、赤文字 はMLB歴代最高
各年度の太字年 はゴールドグラブ賞 受賞
タイトル
首位打者 :1回(1954年)
本塁打王 :4回(1955年、1962年、1964年、1965年)
盗塁王 :4回(1956年 - 1959年)
表彰
記録
背番号
脚注
関連項目
外部リンク
業績 チャルマーズ賞 リーグ表彰 1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1870年代 1880年代 1890年代 1900年代 1910年代 1920年代 1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1870年代 1880年代 1890年代 1900年代 1910年代 1920年代 1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1880年代 1890年代 1900年代 1910年代 1920年代 1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
※1957年のみ、両リーグ合同で選出。ミノーソとケーラインはアメリカンリーグ所属選手。
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 2010年代 2020年代
1977年から2011年まで中断
球団 歴代本拠地 文化 永久欠番 ジャイアンツ球団殿堂 ワールドシリーズ優勝(0 8回) ワールドシリーズ敗退(12回) リーグ優勝(23回) できごと 傘下マイナーチーム
球団 歴代本拠地 文化 永久欠番 メッツ球団殿堂 ワールドシリーズ優勝(2回) ワールドシリーズ敗退(3回) リーグ優勝(5回) 傘下マイナーチーム