ライアン・ジェームズ・ハワード (Ryan James Howard , 1979年 11月19日 - )は、アメリカ合衆国 ミズーリ州 セントルイス 出身の元プロ野球選手 (一塁手 )。左投左打。
経歴
プロ入り前
1979年11月19日にミズーリ州セントルイス で、二卵性双生児 として誕生。ハワード家は父がIBM 社員で母がマーケティング 職という共働き 家庭であり、アフリカ系アメリカ人 でありながら住民の大半が白人 という地域で暮らしていた[ 1] 。野球 を始めたきっかけは2歳のときで、テレビの野球中継を観ながらおもちゃのバット を振っていたところ、たまたま部屋に入ってきた父がその滑らかなスウィングに才能を見出したことによる[ 1] 。セントルイス・カージナルス の当時の本拠地球場ブッシュ・メモリアル・スタジアム から車で20分ほどの場所に自宅があり、子供のころ憧れていた野球選手はオジー・スミス やウィリー・マギー だったが[ 2] 、ハワードは彼らと異なる長距離砲タイプとして頭角を現し、母親から「お前は、どの子よりもずっと遠くにボールを飛ばせるね」と語りかけられるほどだった[ 3] 。
12歳のときには推定飛距離400フィート(約121.9メートル)の本塁打 を放ったといい、その打球はフェンスをはるかに越えて、球場の向かいにあったレストラン "レッドロブスター " の店舗を直撃している[ 1] 。同州ワイルドウッド のラファイエット高等学校 (英語版 ) では、アメリカンフットボール こそ怪我を恐れる母親に止められたものの、バスケットボール では活躍した。しかしそのバスケットボールで徐々に成績が落ち、仕方なく野球を始める。1998年には、地元の書店でトニー・グウィン が新著発売記念イベントを行うと聞き、本人にサインを貰いに駆けつけた[ 4] 。
サウスウェスト・ミズーリ州立大学 (英語版 ) (現:ミズーリ州立大学)へ進学後は、野球に専念する。
2000年 にはアメリカ合衆国代表 に選出されたが、木製バットに対応できずに評価を下げた[ 2] 。日米大学野球選手権大会 では山村路直 や石川雅規 と対戦するも、1試合4三振 を含む3試合11打数2安打 に抑えられ「日本 の投手 はフォークボール が多くて、あんまり好きじゃない」とコメントしている[ 3] 。
2001年 にも、ドラフト会議 開催直前にスランプに陥った[ 5] 。
1999年 から2001年までの3年間の通算成績は、172試合で打率 .335・50本塁打・183打点 [ 6] 。
プロ入りとフィリーズ時代
2001年のMLBドラフト では5巡目(全体140位)とやや低い順位でフィラデルフィア・フィリーズ から指名された。およそ1か月後の7月2日にフィリーズと入団契約を交わし、傘下のマイナーリーグ でプロとしてのスタートを切る。
2003年 にはA+級クリアウォーター・フィリーズ で所属するフロリダ・ステートリーグ のMVPを受賞した[ 7] 。
2004年 はAA級レディング・フィリーズ でシーズン開幕を迎える。ここでハワードは102試合に出場し、打率.297・37本塁打・102打点・OPS 1.033という成績を残した。チームが本拠地を置くペンシルベニア州 レディング は、フィリーズの本拠地である同州フィラデルフィア と60マイル(約96.5km)ほどしか離れておらず、そのためハワードの活躍は、球団広報が「記憶にない」と言うほどメディアの注目を集めた[ 8] 。7月末にはAAA級スクラントン・ウィルクスバリ・レッドバロンズ へ昇格し、ここでも29試合で9本塁打を放つ。両クラス合計での46本塁打・131打点という数字は1956年 以降のマイナーリーグでは史上5人目という成績であり、シーズン終了後にはAA級イースタンリーグ のMVPを受賞した[ 7] 。
イースタンリーグMVPが発表されるおよそ1か月前の9月1日にメジャー昇格し、同日のアトランタ・ブレーブス 戦でデビュー。5回裏一死一塁の場面で代打 として登場するも、ジャレット・ライト の前に見逃し三振に倒れた[ 9] 。このときのフィリーズはジム・トーミ を正一塁手としていたため、ハワードの起用法は10月3日の閉幕まで代打中心に。メジャー初本塁打は9月11日のニューヨーク・メッツ 戦で、7回表無死二塁の場面でやはり代打として登場、バルトロメ・フォルトゥナート から放っている[ 10] 。フィリーズはトーミとハワードの両立を図り、シーズン終了後のアリゾナ秋季リーグや翌2005年 のスプリングトレーニング でハワードに外野 守備の練習をさせたが、結果はあまり良くなかった[ 11] 。
最終的にコンバート は立ち消えとなり、ハワードは開幕メジャー入りはならず。2005年もシーズン開幕をAAA級スクラントン・ウィルクスバリで迎えることになる。5月3日にトーミが背中を痛めて故障者リスト 入りしたため、一度はメジャーへ昇格するも[ 12] 、12試合で打率.214・OPS.660と結果を残すことができず、21日のトーミ復帰とともにAAA級スクラントン・ウィルクスバリへと戻された。しかし7月1日になって、トーミが今度は右肘を痛めて再び故障者リスト入りとなり、ハワードは再昇格を果たす[ 13] 。このときハワードは、5月の不振の反省から「自分で余計なプレッシャーをかけないようにした」という[ 11] 。その結果、翌2日から前半戦終了までの9試合で打率.278・2本塁打・10打点・OPS.825を記録。後半戦に入っても、7月19日のロサンゼルス・ドジャース 戦では延長10回に逆転サヨナラ本塁打 [ 14] 、8月10日の同じカードでは9回に勝ち越し満塁本塁打[ 15] 、と印象的な活躍を続けた。9月には月間10本塁打。最終的なシーズン成績は、88試合で打率.288・22本塁打・63打点・OPS.923となった。シーズン終了後、ハワードはナ・リーグ新人王 を受賞した[ 16] 。
ハワードの台頭を受け、フィリーズはハワードを正一塁手として起用することを決断する。これにより、まだ契約が3年残っているトーミはホワイトソックス へトレード で放出された。2006年 、開幕戦に6番・一塁として先発出場したハワードは[ 17] 、前半戦だけで28本塁打・71打点を挙げ、7月にはオールスター 初選出。前日に行われた本塁打競争 で優勝した[ 18] 。後半戦は打順が4番になってさらに成績を上げ、75試合で打率.355・30本塁打・78打点・OPS 1.259を記録。8月と9月の2か月連続でナ・リーグ月間MVP を受賞した。特に8月の41打点は、フランク・ハワード が1962年 7月に記録して以来の多さであった[ 19] 。シーズン通算成績は打率.313・58本塁打・149打点・OPS 1.084となり、本塁打王 と打点王 の二冠を獲得。58本塁打は、1980年 にマイク・シュミット が記録した球団記録を10本上回っていた。また敬遠 37はメジャーで2番目に多い。この活躍が評価され、シーズン終了後にハワードはナ・リーグMVP に選ばれた[ 20] 。
シーズン終了後に日米野球 で訪日すると、6試合で5本塁打を記録した。
2007年 は左膝を痛めたこともあり開幕から不調で、5月10日から5月25日にかけて故障者リスト 入りを余儀なくされた。しかし復帰後は本塁打・打点を量産。6月27日のシンシナティ・レッズ 戦で本塁打を放ち、通算325試合目で100本塁打を達成した。これはラルフ・カイナー の376試合を上回るメジャー最速記録である[ 21] 。シーズン通算では47本塁打・136打点(共にリーグ2位[ 22] )を記録している。しかしその一方で、左投手の変化球攻めにてこずるなどしたため三振も多く[ 23] 、9月27日のブレーブス戦では2三振を喫し、シーズン197三振を記録。アダム・ダン が2004年に記録した195三振を超えシーズン三振記録を更新し、その後199三振まで記録を伸ばした。
3シーズンを過ごしたことで年俸調停権 を得たハワードは、2008年 の年俸として1,000万ドルを要求。これに対して球団側は700万ドルを提示し、交渉は平行線を辿った。調停の結果ハワード側の主張が認められ、年俸1,000万ドルの契約を勝ち取った。これは調停権取得初年度の選手としてはMLB歴代最高額の契約であり[ 24] 、また前年の年俸90万ドルから10倍以上の昇給となった。また、シーズン開幕前に「MLB 08: The Show (英語版 ) 」の表紙を務めた。
マニー・ラミレス (右)と
2008年序盤は前年同様不調で、50試合に出場した5月23日終了時点で打率.202・出塁率 .302と低迷。それでも監督のチャーリー・マニエル は、ハワードがかつてのアルバート・ベル のように味方打線全体にいい影響を及ぼす打者であるとの評価から、4番打者として起用し続けた[ 25] 。結局、オールスターゲーム までに28本塁打・84打点(共にリーグトップ)を挙げたが、低打率や他チームの一塁手との兼ね合いのためオールスター選出を逃す。本塁打・打点の2部門でリーグ1位にいながらオールスターに選ばれなかったのは1948年 のハンク・サウアー 以来60年ぶりだった[ 26] 。それでもオールスター終了後の後半戦になると調子を上げ、9月には打率.352・11本塁打・32打点・OPS 1.274という成績を残して月間MVPを受賞。この時期にはチームも17勝8敗・勝率.680と勝ちを重ね、同月終了=レギュラーシーズン終了時にはチームは2年連続の地区優勝、そしてハワードは本塁打王と打点王のタイトルを2年ぶりに獲得した。
ポストシーズン では、地区シリーズ 及びリーグ優勝決定戦 の9試合で本塁打なしに終わったが、レイズ との対戦となったワールドシリーズ では3本塁打・6打点を記録。特に第4戦では、1点差に迫られた直後の4回裏に3点本塁打を打って相手を突き放すと、8回裏にも2点本塁打を放った。チームは4勝1敗でシリーズを制し、28年ぶり2度目のワールドシリーズ優勝となった。
シリーズ終了後、ハワードは2009年 の年俸として1,800万ドルを要求。これに対して球団側は1,400万ドルを提示した。2009年2月8日、両者は年俸調停突入を回避し、3年総額5,400万ドルで契約を延長することで合意に達した[ 27] 。年平均では1,800万ドルとなり、事実上ハワードの要求が受け入れられた格好となった。同年のシーズンでは、7月17日のマーリンズ 戦で本塁打を放ち、通算200本塁打を達成。この試合はデビューから658試合目であり、ラルフ・カイナー の706試合を抜く史上最速での200号到達となった[ 28] 。また、3年ぶりにオールスター 選出も果たした。生まれ故郷セントルイス でのオールスターゲームであったため、ブッシュ・スタジアム の観客からは地元カージナルスの選手にも劣らないほどの大声援で迎えられた[ 29] 。また、このシーズンは自己最多の8盗塁を記録している。
2010年 4月26日に2012年からの5年総額1億2500万ドルの契約を結んだ。既に契約が成立している2010年、2011年のものと合わせると7年総額1億6100万ドルとなる。この契約時点での年俸総額としては、CC・サバシアと並び、史上6番目である。この年は8月1日に足首を痛めて3週間DL入り した影響もあり[ 30] 、打率.276、31本塁打、108打点に留まった。
2011年 はフィリーズの地区5連覇に貢献し、打率.253・33本塁打・116打点を記録。さらにポストシーズン、セントルイス・カージナルスとのナ・リーグ地区シリーズ第5戦、9回に最後の打者でゴロを放って一塁に向かった直後、顔をしかめて倒れ込む。精密検査でアキレス腱断裂 が確認され、腫れが引いてから手術を行うことになり、球団は「復帰時期は分からないが、来春のキャンプに間に合う保証はない」とコメント。復帰まで一般的には6カ月程度を要すため、来季開幕も絶望となった。[ 31]
2012年 は前年のアキレス腱断裂の影響で復帰が遅れ、71試合で打率.219・14本塁打・56打点に留まった。
2013年 は2年連続で故障に苦しめられたシーズンとなる。7月 の試合前の練習で膝を痛め、半月板断裂により手術を受ける事になった[ 32] 。手術の影響で長期欠場を余儀なくされ、80試合の出場に終わった。
2014年7月6日
2014年 は3年ぶりとなるシーズンフル出場 (153試合) を果たし、規定打席に到達した。しかし打率.223・23本塁打・95打点 (リーグ4位) という成績に終わり、シーズン通じて低打率に終始した。リーグワーストの190三振を喫し、自身5度目となるシーズン180三振以上を喫した。
2015年 は129試合に出場し、2年連続でぎりぎり規定打席に達した。打撃面では通算350本塁打を達成した事がハイライトで、打率.229・23本塁打・77打点・OPS0.720と2年連続で低調な成績に終わった。出場試合数を超える138三振を喫した。
2016年 も開幕から調子が上がらず、5月終了時で8本塁打を放ったものの、5月の月間打率が.101に落ち込むなど打率は1割台半ばを推移した。本塁打数こそ2011年以来5年ぶりに25本を記録したものの、打率.196・59打点に終わり、11月3日にはフィリーズと契約しないことが発表される[ 33] 。
ブレーブス傘下時代
2017年 4月6日にブレーブスとマイナー契約を結んだ[ 34] 。4月22日より傘下のAAA級グウィネット・ブレーブス に合流も、11試合で打率.184・1本塁打・5打点と振るわず、5月8日に自由契約となった[ 35] 。
ロッキーズ傘下時代
2017年8月12日、コロラド・ロッキーズ とマイナー契約を結び、傘下のAAA級アルバカーキ・アイソトープス に配属された[ 36] 。11月6日にFAとなった。
現役引退
2018年 は未所属のままで、9月4日に現役引退を表明した[ 37] 。
2023年 9月6日にベースボール・ユナイテッド の共同オーナーとして参入した[ 38] 。
選手としての特徴
ハワードのスウィング
ナショナルリーグ のMVP を1回、本塁打王 を2回、打点王 を3回獲得した強打者。かつてフィリーズで活躍した強打者であるマイク・シュミット は「私どころか、絶好調時のハワードは全盛期のバリー・ボンズ よりさらに危険な打者かもしれない」と語っている[ 5] 。
長距離打者で、規定打席 に到達した2006年 から2010年 までの5シーズンで平均45.8本塁打 ・136打点 を挙げている。しかし打率 と長打率 は2006年から下落。そのため、コラムニストのジョー・ポスナンスキー はハワードを「『最強打者』ではなく『最高のホームランバッター』である」と評価している[ 39] 。打率の低さに対してハワード自身は「自分の役割は打点 を稼ぐことだ。もちろん打率は高い方がいいけど、打率を上げるための打撃をするつもりはない。そのためにフォームを崩したり、自分の特長である長打力が消えてしまったりする危険性があるからね」と語っている[ 25] 。
打撃フォームは、最初の構えからスウィングが始まるまでグリップ位置をほとんど動かさず、その代わりに左肘を高く上げることによって腕にパワーを蓄え、右足で壁を作ってスイングすることで溜め込んだパワーをボールに伝えている[ 40] 。また、打撃の特徴として、左翼方向へ流し打っての本塁打が多い。デビューした2004年から2010年までの計253本塁打のうち、左翼・左中間方向へのものが全体の40.3%にあたる102本あり、右翼・右中間方向へのもの(89本 / 35.2%)より多い[ 41] 。本人は「(打席で)リラックスすればするほどスウィングは鋭さを増し、集中すればするほどバットの出だしは遅くなる(=左翼方向への打球が増える)」と語っている[ 42] 。
シーズン終盤に大きく成績を伸ばすことでも知られている。2010年までの7年間におけるハワードのレギュラーシーズン9月・10月の成績は、打率.307と他の月よりも向上している[ 43] 。これについて本人は「9月に好調な理由? いろいろ言われているけど、はっきりした答えはないよ」としつつも、チームのポストシーズン 進出争いを挙げ「やはりビッグゲームになるほど燃えるタイプなんだと思う」と話している[ 25] 。その一方で、左腕投手 には打率.234・OPS.767と抑え込まれ[ 43] 、三振 数では2006年から2009年 まで4年連続で180以上を喫してリーグ2位以内に入るなど、短所もある。
盗塁 はほとんど試みず、メジャー初盗塁は2007年 8月21日のロサンゼルス・ドジャース 戦で、通算1572打席目に中前打を放った後で達成した。初盗塁までに費やした打席数としては史上5位(投手は除く)であり、この試合の翌日にはチームメイトから記念の二塁ベースを贈られたという[ 44] 。一塁守備では、2010年に守備防御点 -14という数値が算出されている[ 45] 。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度
球 団
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
O P S
2004
PHI
19
42
39
5
11
5
0
2
22
5
0
0
0
0
2
0
1
13
2
.282
.333
.564
.897
2005
88
348
312
52
90
17
2
22
177
63
0
1
0
2
33
8
1
100
6
.288
.356
.567
.924
2006
159
704
581
104
182
25
1
58
383
149
0
0
0
6
108
37
9
181
7
.313
.425
.659
1.084
2007
144
648
529
94
142
26
0
47
309
136
1
0
0
7
107
35
5
199
13
.268
.392
.584
.976
2008
162
700
610
105
153
26
4
48
331
146
1
1
0
6
81
17
3
199
11
.251
.339
.543
.881
2009
160
703
616
105
172
37
4
45
352
141
8
1
0
6
75
8
6
186
11
.279
.360
.571
.931
2010
143
620
550
87
152
23
5
31
278
108
1
1
0
3
59
11
8
157
14
.276
.353
.505
.859
2011
152
644
557
81
141
30
1
33
272
116
1
0
0
5
75
16
7
172
10
.253
.346
.488
.835
2012
71
292
260
28
57
11
0
14
110
56
0
0
0
3
25
7
4
99
8
.219
.295
.423
.718
2013
80
317
286
34
76
20
2
11
133
43
0
0
0
6
23
4
2
95
6
.266
.319
.465
.784
2014
153
648
569
65
127
18
1
23
216
95
0
0
0
5
67
7
7
190
10
.223
.310
.380
.690
2015
129
503
467
53
107
29
1
23
207
77
0
0
0
3
27
2
5
138
11
.229
.277
.443
.720
2016
112
362
331
35
65
10
0
25
150
59
0
1
0
3
27
2
1
114
7
.196
.257
.453
.710
通算:13年
1572
6531
5707
848
1475
277
21
382
2940
1194
12
5
0
55
709
154
59
1843
116
.258
.343
.515
.859
年度別守備成績
年 度
球 団
一塁(1B)
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
2004
PHI
8
59
6
0
9
1.000
2005
84
707
40
5
53
.993
2006
159
1373
91
14
139
.991
2007
140
1191
103
12
124
.991
2008
159
1408
101
19
128
.988
2009
156
1300
95
14
109
.990
2010
139
1266
59
14
117
.990
2011
149
1282
70
9
110
.993
2012
67
495
30
5
37
.991
2013
76
618
42
1
55
.998
2014
141
1224
80
9
103
.993
2015
116
871
66
6
75
.994
2016
83
557
45
11
47
.982
MLB
1477
12351
828
119
1106
.991
タイトル
本塁打王 :2回(2006年、2008年)
打点王 :3回(2006年、2008年、2009年)
受賞
MiLB
MLB
記録
MiLB
MLB
100本塁打最速記録「325試合」
150本塁打最速記録「495試合」
200本塁打最速記録「658試合」
250本塁打最速記録「855試合」
通算1000打数での本塁打数「85」
通算満塁本塁打数「15」(歴代13位タイ)
9イニング試合での故意四球数「5」(ナ・リーグタイ記録 2006)
1シーズンでの本塁打数「58」(フィリーズ球団記録 2006)
故意四球数「37」(フィリーズ球団記録 2006)
シーズン三振数「199」(フィリーズ球団記録 2007 2008)
オールスターゲーム 選出:3回(2006年 、2009年 、2010年 )
代表歴
脚注
注釈
出典
^ a b c Michael Sokolove. “Ryan Howard, No Asterisk ”. New York Times . 2007年3月4日 閲覧。
^ a b 福島良一 「FACE IN THE CROWD」 『週刊ベースボール 』2005年12月5日号、ベースボール・マガジン社 、2005年、雑誌20441-12/5、85頁。
^ a b 臼田雄一 「イオン 日米野球 2006 11月2日開幕(1) R・ハワード(フィリーズ)自然体の長距離砲」 『読売新聞 』2006年10月24日付朝刊、24面。
^ Ken Mandel / MLB.com, "Notes: Phils' pair admires Gwynn / Rollins, Howard glad to witness Saturday's ceremony ," MLB.com , July 22, 2007. 201年5月3日閲覧。
^ a b 杉浦大介 「パワー全開/ナ・リーグ二冠王 ライアン・ハワード[フィリーズ]」 『月刊スラッガー 』2006年12月号、日本スポーツ企画出版社 、2006年、雑誌 15509-12、14-17頁。
^ Courtesy: MSU Athletics Communications. “Ryan Howard Returns to Campus Saturday for Jersey Retirement Ceremony ”. MissouriStateBears.com . 2011年7月27日時点のオリジナル よりアーカイブ。2010年12月15日 閲覧。
^ a b "Howard named Eastern League MVP ," phillies.com , September 30, 2004. 2011年5月1日閲覧。
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^ ただし、レギュラーシーズンが終了した時点ではハワードの136打点はリーグ1位だった。この年はワイルドカード 争いでコロラド・ロッキーズ とサンディエゴ・パドレス が90勝72敗で並んだため、ワンゲーム・プレイオフが行われることに。このプレイオフの成績はレギュラーシーズンの成績に含まれ、そこでマット・ホリデイ (ロッキーズ)が2打点を挙げてシーズン137打点でハワードを逆転したため、ハワードは2年連続の打点タイトルを逃すこととなった。
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^ [1] フ軍ハワードがアキレス腱断裂していた
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関連項目
外部リンク
業績 チャルマーズ賞 リーグ表彰 1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
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