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松平頼寿
松平 頼寿(まつだいら よりなが、旧字体:松󠄁平󠄁 賴壽、明治7年(1874年)12月10日 - 昭和19年(1944年)9月13日[1])は、明治から昭和にかけての華族(伯爵)。旧高松藩主松平頼聰の八男。母は正妻千代子(井伊直弼次女)。妻は徳川昭武(旧水戸藩主)の娘昭子。第10・11代貴族院議長、第8・10代大東文化学院総長などを歴任した。
経歴
学習院高等科から大隈重信に傾倒し、東京専門学校(現:早稲田大学)邦語法律科卒業後、明治41年(1908年)2月28日に補欠選挙で貴族院伯爵議員に当選し[2]、1911年(明治44年)7月9日まで在任[1]。1914年(大正3年)8月8日、補欠選挙で貴族院議員に再選され[3]、1944年の死去まで在任し[1][4]30年以上にわたって議員を務めた。会派は扶桑会→甲寅倶楽部→研究会。
また、教育者としても活動し、本郷学園旧制本郷中学校(現:本郷中学校・高等学校)を設立、文武両道のエリート教育を目指す。本郷区教育長も務める。
昭和11年(1936年)の日本競馬会発足に際しては初代理事長を務め、日本の競馬発展に寄与した人物でもあった。
昭和8年(1933年)、貴族院の正副議長は公爵・侯爵が就任するという慣例を破って副議長に就任し、4年後には議長の近衛文麿の内閣総理大臣就任に伴い、議長に昇格する。第8・10代大東文化学院総長を務めた。議長在任中に長野県軽井沢町で死去し、勲一等旭日大綬章に叙せられ、貴族院葬が行われた。
盆栽趣味
盆栽を趣味としていて、熱烈な愛好家として知られていた。昭和9年(1934年)に国風盆栽会(現:日本盆栽協会の前身団体のひとつ)を設立し初代会長に就任。日本で最も歴史のある盆栽の品評会である国風盆栽展(国風展)の設立と開催に寄与した人物でもある。また盆栽の中でも小鉢の品を集めて棚飾りの妙を演出する小品盆栽という境地を開いた先駆者であることでも知られている。
栄典
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
脚注
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』29-30頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、17頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、23頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、52頁。
- ^ 『官報』第7899号「叙任及辞令」1909年10月21日。
- ^ 『官報』第5304号「叙任及辞令」1944年09月16日。
- ^ 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第5304号「叙任及辞令」1944年9月16日。
- ^ 『官報』第93号「叙任及辞令」1927年4月23日。
参考文献
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
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