公爵(こうしゃく、英: duke、羅: dux、独: Herzog)は、爵位(五爵)の第1位。侯爵の上位に相当する[1]。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳に使われる。
概要
日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられた。
日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。
日本の公爵
華族の公爵
1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層である大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。
1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。
公爵は華族の中でも最上位の階級(従一位相当)であり、全爵位の中でも最も少数だった。叙爵内規では公爵の叙爵基準について「親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉功アル者」と定められている。公爵家の数は1884年時点では11家(華族家の総数509家)、1907年には15家(同903家)、1926年時には19家(952家)、1947年時には17家(889家)である。
華族そのものが「皇室の藩屏」だが、公爵家はその中でも特に天皇に近しい選民集団だった。皇族妃となるのは公侯爵の娘が多く、さらに公侯爵は伯子男爵家と婚姻関係を持ったので、皇族と華族は親類縁者の集合体として一体化していった。天皇への拝謁には上から単独拝謁、広間で集団でお迎えする列立拝謁、廊下や庭園などに居並ぶ通御懸け拝謁の三種類あるが、公侯爵のような上級華族は単独拝謁が許されていた。また新年歌会始の読師は伯爵以上の有爵者でなければならないとされていた。
華族の使用人数は一般に爵位の高い家ほど多い傾向があるが、1915年(大正4年)末時点における使用人数の平均は侯爵家が43.7人から47.8名であるのに対し、公爵家のそれは10名ほど少ない。侯爵家の方が資産家である旧大藩大名華族が多いためと思われる。特に旧公家華族は経済的に困窮している家が多かったことから、明治27年(1894年)には明治天皇の結婚25周年記念で「旧堂上華族恵恤賜金」が作られ、その利子が旧公家華族に支給されることになった。配分は公侯爵が3、伯爵が2、子爵が1という割合で年間支給額では公侯爵が1800円、伯爵1200円、子爵600円だった。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより、公爵位を含めた華族制度は廃止された。
貴族院における公爵
1889年(明治22年)の貴族院令(勅令第11号)により貴族院議員の種別として華族議員が設けられ(ほかに皇族議員と勅任議員がある)、公侯爵は満25歳(大正14年以降は満30歳)に達すれば自動的に終身で貴族院議員に列することとなった。これに対して伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年の華族議員となった。また公侯爵議員が無給だったのに対し、伯爵以下の議員は有給であるという違いがあった。こうした違いから公侯爵議員は伯爵以下の議員たちほど貴族院活動に熱心ではない傾向があり、本会議出席率さえ十分ではなかった。特に現役軍人である公侯爵議員は皇族議員と同様に軍人の政治不関与の原則から貴族院に出席しないのが慣例になっていた(必ず入隊することになっていた皇族や王公族ほどではないものの、華族もノブレス・オブリージュの一環でなるべく入隊するよう奨励されていた)。しかし公侯爵全員が不熱心だったわけではなく、近衛篤麿公爵、近衛文麿公爵、徳川家達公爵、二条基弘公爵など代表的な貴族院政治家として活躍した公爵もいる。
また歴代貴族院議長は伊藤博文伯爵と松平頼寿伯爵を除き全員が公侯爵であり、貴族院副議長も公侯爵が多かった。議院内の役職に家格意識が反映されるのは近世以前の序列意識に基づく「座りの良さ」のあらわれであり、これが議事運営に影響を与えるというのが貴族院の特徴の一つであった。貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていたが、公侯爵は長年各派に分散していた。しかし1927年(昭和2年)には近衛文麿公爵の主導で「火曜会」という公侯爵議員による院内会派が形成された。これは互選がないゆえに「一番自由な立場」である世襲議員の公侯爵議員は「貴族院の自制」が必要だと考える者が多く、そのため公侯爵が結束してその影響力を大きくすることで子爵を中心とする院内最大会派の研究会を抑え込み、貴族院を「事実上の権限縮小」「貴族院は衆議院多数の支持する政府を援けて円満にその政策を遂行させてゆく」存在にすることができるという考えに立脚したものだった。近衛文麿公爵のほか、徳川家達公爵、木戸幸一侯爵、細川護立侯爵、広幡忠隆侯爵などが賛同して協力していた。
叙爵内規
叙爵内規では公爵の基準について「親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉勲アル者」と定められていた。具体的には以下のようになっている。
- 親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 - 「親王諸王」とは後の1889年(明治22年)制定の皇室典範で「皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王」「五世以下は男を王」と定められるが、華族令制定当時(明治17年当時)においては明確な定義はなかった。当初は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家、閑院宮家の四親王家以外の皇族の子は華族に列することになっていたが、実際には該当者は維新の功により皇族となったので(これにより親王家は4家から15家に増えていた)、華族令制定当時において「親王諸王より臣位に列せらるる者」に該当する者は存在しなかった。皇族急増により1907年(明治40年)2月11日の皇室典範増補第1条で「王は勅旨又は請願に依り家名を賜い華族に列せしむることあるべし」と定められたことで臣籍降下で華族になる例が増えてくるが、公爵になった者はおらず、侯爵か伯爵だった。
- 旧摂家 - 公家社会でも最高位に属するとされ、摂政・関白に昇る資格を持っていた家柄である。近衛家、鷹司家、九条家、一条家、二条家の計5家。
- 徳川宗家 - 旧将軍家・旧静岡藩主の徳川宗家のことである。
- 国家二偉勲アル者 - 勲功華族の規定。侯爵以下の爵位の勲功華族の規定は「国家ニ勲功アル者」になっているのに対し、公爵のみ「偉勲」が要求される。これは3種に大別できる。
- 「偉勲」がなくとも華族たる資格を持っていた家のうち、功績が加味されて本来よりも高い爵位を与えられたグループ。旧清華家の三条家(家格では侯爵だが三条実美の功績により)、旧羽林家の岩倉家(家格では子爵だが岩倉具視の功績により)、旧薩摩鹿児島藩主の島津家(家格では侯爵だが島津忠義の功績により)、旧長門萩藩主の毛利家(家格では侯爵だが毛利敬親・元徳の功績により)の4家がこれにあたる。また、後年侯爵から陞爵した旧清華家西園寺家(西園寺公望の功績により)、旧清華家徳大寺家(徳大寺実則の功績により)、旧水戸藩主水戸徳川家(『大日本史』編纂の功績により)の3家もこれに含めて考えられる。
- 本家がすでに公爵となっているにもかかわらず、その人物の特別な功績が認められて別に家を立てることを許され、さらに公爵位を授けられたグループがある。具体的には、藩主ではなかったがその後見人として幕末の薩摩藩に大きな影響を与えた島津久光とその子孫(玉里島津家)、大政奉還後に養子の徳川家達に家督を譲って隠棲した江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜とその子孫(徳川慶喜家)の2家である。叙爵内規上明治以降の華族の分家は男爵と定められていたのでこの二家は岩倉家の三階級特進を超える四階級特進だったといえる。
- 家系によらず、初代の勲功によって公爵となったグループ。伊藤博文の伊藤家、大山巌の大山家、山縣有朋の山縣家、松方正義の松方家、桂太郎の桂家の五家である。いずれも内閣総理大臣など国家中枢の役職を歴任して元勲と称された人々であり、当初子爵ないし伯爵の爵位を受け、その後、日清戦争や日露戦争などで勲功を重ねて侯爵を経て陞爵したものである。
日本の公爵家一覧
中国の公爵
西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「公」は五つある爵の最上位に位置づけている。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、公の表記はない。『礼記』・『孟子』とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている。金文史料が検討されるようになって傅斯年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている。
漢代においては二十等爵制が敷かれ、「公」の爵位は存在しなかったが、特に身分の高い三つの官職は三公と呼ばれた。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、公の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる。食邑は郡公なら一万戸で諸侯王に並び、県公なら千八百戸、七十五里四方の土地が与えられることとなっている。その後西晋でも爵位制度は存続し、恵帝期以降には公・侯の濫授が行われた。このため東晋では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている。
南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた。
主要な中国の公爵
咸熙元年の五等爵制発足時には、公となったのは司馬氏の長老である司馬孚であり、晋王朝成立後は諸侯王となった。その他では魏皇帝の外戚二名が公となっており、発足時点では公は3名のみであった。三公であった王祥・鄭沖、そのほかの重臣賈充、石苞、衛瓘、裴秀、何曾たちが侯となったが、晋王朝成立後はいずれも公となっている。またこの際には魏の諸侯王たちが公に格下げされている。
呉から降伏した孫秀、歩璿も公に叙せられている。太康の役の論功行賞としては、王渾が公となっている。
以降西晋期には宰相であった張華、前涼の基盤を作った張軌などが公となっている。東晋では建国に功のあった王導と、後に反乱を起こした王敦、前秦からの防衛に成功した謝安、武将の陶侃。そして東晋を滅ぼし宋を建国した劉裕などがいる。
唐においては太宗即位後に長孫無忌、高士廉(義興郡公)などの功臣が公となっている。
また宋代以降、孔子の直系である当主は衍聖公の爵位を受け、清末まで続いた。
イギリスの公爵
イングランドに確固たる貴族制度を最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったが、エドワード懺悔王(在位:1042年-1066年)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになった[68]。
イングランドの公爵(Duke)は、伯爵(Earl)と男爵(Baron)に続いて創設された爵位だった。1337年にエドワード3世(在位:1327年-1377年)が皇太子エドワード黒太子にコーンウォール公爵(Duke of Cornwall)位を与えたのが公爵の最初である。続いて1351年に同じくエドワード3世がヘンリー3世(在位:1216年-1272年)の曾孫であるヘンリーにランカスター公爵(Duke of Lancaster)位を与えたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ称号であることが明確化した[69]。
臣民に公爵位が与えられた最初の事例は、1483年にリチャード3世(在位:1483年-1485年)よりノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)を与えられたジョン・ハワードである(もっとも彼も先祖を遡れば王族にたどり着く)[70][71]。
その後、臣民の公爵位はステュアート朝期(特に王政復古後の最初の国王チャールズ2世時代)に急増した。ハノーファー朝期にも公爵位の授与が行われ、最も多い時期には40家の公爵家が存在した。しかし家系の断絶でその数は減少していった[72]。2021年時点臣民の公爵家は24家にまで減っている。
またジャコバイトの王位請求者たちが創設したジャコバイト貴族(英語版)の爵位にも17の公爵位がある。
イングランド王国、スコットランド王国、アイルランド王国それぞれに貴族制度が存在し、それぞれをイングランド貴族、スコットランド貴族、アイルランド貴族という。イングランド王国とスコットランド王国がグレートブリテン王国として統合された後は新設爵位はグレートブリテン貴族として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国として統合された後には新設爵位は連合王国貴族として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても公爵位は第1位として存在する。
公爵内の序列はまず王族公爵が別格で先頭である。その下におかれる臣民公爵たちはイングランド貴族公爵、スコットランド貴族公爵、グレートブリテン貴族公爵、アイルランド貴族公爵、連合王国貴族公爵の順番で序列付けられる[73]。宮中席次における臣民公爵の序列は、国王(女王)、王妃(王配)、皇太子、王子、カンタベリー大主教、大法官、ヨーク大主教、首相、枢密院議長、庶民院議長、国璽尚書、英連邦高等弁務官及び外国大使に次ぐ13番目である[74]。
侯爵から男爵までの貴族が「卿(My Lord)」と呼び掛けられるのに対し、公爵のみは「閣下(Your Grace)」と呼び掛けられる[75]。また公爵・侯爵・伯爵は従属爵位を持っているのが一般的であり、その嫡男は父の持つ爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する[75](父と混同されないよう主たる爵位と同じ名前や等級の爵位は避ける)。公爵と侯爵の息子は全員がLord(卿、ロード)を、娘はLady(レディ)が敬称として付けられる。
英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった。
現在の公爵位はランカスター公爵(英国王が保持)とコーンウォール公爵(皇太子が保持)以外は領地が付随するわけでもなく、貴族称号を保持することの唯一の具体的な効果は貴族院議員になりえることである。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。なお公爵のうちノーフォーク公爵家の当主は軍務伯を世襲で務める関係上必ず貴族院議員になる。公爵だからと貴族院で特別に重んじられるような制度はなく、貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない。
現存する公爵位
王族公爵位
臣民公爵位
かつて存在した公爵位
フランスの公爵
フランスの称号で「公爵」と訳されているのはデュック(duc)である。ラテン語のドゥクス(dux)に由来する。ドゥクスはフランスやドイツ、イタリアの前身であるフランク王国がローマ帝国から継承した制度であり、都市管区を統治するコメス(comes 伯)たちに対する軍事命令権を持って複数の都市管区を支配する存在だった。
フランスの諸侯はカロリング朝のコメスやその下僚のヴィカリウス(副伯)、あるいはカロリング権力から排除されていた地域の土着貴族層に起源が求められる。西フランク(フランス)地域ではドイツよりもカロリング朝官僚貴族に連なる家系が多かったと見られる。9世紀後半のポスト・カロリング期に中央権力の弱体化に乗じて私的支配領域を拡大した彼らは、最初辺境伯(marchio)を名乗っていたが、10世紀前半に公(dux)を名乗るようになった。
11世紀、とりわけ王の集会に彼らが参列する機会が激減する1077年を境にして諸侯層(公、伯、司教)の王政からの排除と封臣化が進み、12世紀末までには諸侯領(公領)は王の下から移動した封と見なす観念が一般化していた。そのため中世の諸侯の独立性は強く、諸侯領は事実上独自の統治機構を備えた「独立国家」であり、フランス王といえども一諸侯に過ぎない面もあった。
11世紀の著名な公爵には北部のノルマンディー公、西部のブルターニュ公、東部のブルゴーニュ公、南部のアキテーヌ公があった。ノルマンディー公は1066年にイングランドを征服してイングランド王室となり、12世紀には「アンジュー帝国」と呼ばれる英仏海峡をまたぐ巨大勢力圏を築いた。カペー朝末には後にブルボン朝となるブルボン公が誕生している。
オルレアン公、アンジュー公、ベリー公、アングレーム公、アランソン公、トゥーレーヌ公(フランス語版)などは伝統的に王族の爵位となった。
15世紀から16世紀初頭にかけて諸侯領は様々な形で王領に取り込まれていくようになり、諸侯の独立性は弱まっていった。
16世紀の宗教戦争時代にはシャンパーニュ、ブルゴーニュを拠点とするギーズ公と、ラングドック、プロヴァンス、イル=ド=フランスに勢力を張るモンモランシー公が宗教戦争の党派の中核となり、著名な公爵だった。
アンリ3世時代に領地の所有だけでは貴族たることを証しえなくなり、国王発行の証書が必要となった。ブルボン朝のアンリ4世以降、中央集権化が推し進められて絶対王政への移行が始まった。絶対王政下の貴族たちは絶対権力者の国王の恩寵を得ようと宮廷貴族となって「王室の藩屏」化が進んだ。絶対王政のもとで、duc(デュク・公爵)、marquis(マルキ・侯爵)、comte(コント・伯爵)、vicomte(ビコント・子爵)、baron(バロン・男爵)、chevalier(シュヴァリエ/シェヴァリア・騎士)、écuyer(エキュイエ・平貴族)等、旧来の封建領主の称号が段階づけられ、同時に宮廷席次も示された[88]。
アンリ4世期の著名な公爵位にはギーズ公とモンモランシー公の他にヴァンドーム公、ヌヴェール公(フランス語版)、ベルガルド公(フランス語版)、ブイヨン公(フランス語版)、ロアン公(フランス語版)などがあった。ルイ13世の宰相アルマン・ジャン・デュ・プレシーはリシュリュー公爵(フランス語版)に叙位され、リシュリューの名で知られる。またルイ14世の弟の系譜のオルレアン公は、1830年の7月革命後にルイ・フィリップの一代のみだがフランス王位に就いた(オルレアン朝)。
フランス革命により貴族制度は廃止されたが、ナポレオンの第一帝政下の1803年3月に皇帝令で大公(Prince)、公爵(Duc)、伯爵(Comte)、男爵(Baron)、シェヴァリア(Chevalier)の五爵位から成る帝国貴族(フランス語版)が創設され、警察大臣ジョゼフ・フーシェ(オトラント公爵(フランス語版))やミシェル・ネイ元帥(エルヒンゲン公爵)、オーギュスト・マルモン元帥(ラグーサ公爵)などが公爵に叙された。帝国貴族には免税特権などの封建的特権は附随せず、爵位は個人の功績に与えられるもので世襲のためには「貴族財産」(爵位とともに長男に譲り渡される財産)の設定が必要であるなど旧貴族とは異なったルールがあった。
復古王政下ではアンシャン・レジーム下で爵位を得た旧貴族が爵位を回復するとともにナポレオン下で爵位を得た新貴族も爵位を維持した。爵位に義務や負担を免れるなどの特権が附随しない点もナポレオン時代と同じであった。ただし貴族院が設置され、その議員の地位は世襲だった。
1848年の二月革命と1848年憲法で第二共和政になると貴族院と貴族の称号は廃止された。ナポレオン3世の第二帝政では再び貴族称号の授与が行われるようになったが、貴族制度は復活されなかった[95]。ナポレオン3世が創設した公爵位にはマラコフ公爵(フランス語版)(1856年エイマブル・ペリシエ(フランス語版))、マジェンタ公爵(フランス語版)(1859年パトリス・ド・マクマオン)、オーディフレ=パスキエ公爵(フランス語版)(1862年ガストン・ド・オーディフレ=パスキエ(フランス語版))、モルニー公爵(フランス語版)(1862年シャルル・ド・モルニー)、 ペルシニー公爵(1863年ヴィクトール・ド・ペルシニー)、フェルトレ公爵(フランス語版)(1864年シャルル=マリー=ミシェル・ド・ゴヨン(フランス語版))がある。
第二帝政崩壊後、貴族称号の廃止は法律によっては宣言されていないが、1875年にフランス大統領パトリス・ド・マクマオンは貴族の称号の新設は今後は行わず、称号の継承のみ引き続き公式法令の対象となると閣議決定した[96]。1955年に裁判所は合憲性ブロック(フランス語版)の一部である1789年の人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)が出生に付随する法的区別を禁じていることから「貴族はもはや法的効力を持たない」と判示している。現在もフランス政府は貴族の称号の新設を行ってはいないが、様々な君主制のもとで誕生した称号を名前の飾りとして認識し、その保護は行っている。結婚状況や行政文書などで称号が表示される可能性がある[97]。
ドイツの公爵
ドイツの称号で「公爵」と訳されるのはヘルツォーク(Herzog)である。これは初期の10世紀頃には君主に相当する最高位の貴族部族大公(Stammesherzog)のことだった。この時期のヘルツォークは「大公」と訳されるのが一般的である。次のものがある。
13世紀に現れた選帝侯7人の中で公の称号を持つのはザクセン公のみだった。三十年戦争後にはバイエルン公もプファルツの選帝侯位が与えられる形で選帝侯に加わった。
ナポレオン戦争後、陪臣化などで諸侯の数が減らされ、ナポレオン失脚後のウィーン体制下でもその状態が維持され、ドイツ連邦には公爵が治める公国が以下の10個あった。
ナッサウ公国とホルシュタイン公国は普墺戦争後プロイセンに併合されて消滅し、ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公はエルネスティン諸公国再編の中で消滅し、アンハルト諸国はアンハルト公国として統合されたのでドイツ帝国加盟国として残った公国の公爵位はブラウンシュヴァイク公、ザクセン=アルテンブルク公、ザクセン=コーブルク=ゴータ公、ザクセン=マイニンゲン公、アンハルト公の5個だった。これ以外に統治領域がなくなっていた公爵としてロイヒテンベルク公、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公、ラチブシュ公、ウラッハ公などがある。
ドイツ革命後、ヴァイマル共和政になると貴族は法的根拠を失ったが、爵位を姓名の一部として私的に用いることは認められた[88]。
スペインの公爵
王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、スペイン貴族の階級には上からduque(公爵)、marqués(侯爵)、conde(伯爵)、vizconde(子爵)、 barón(男爵)、señor(領主)の6階級があり、公爵は最上位である[104]。すべての公爵位にはグランデの格式が伴い、グランデ委員会に属する。グランデの格式を伴う爵位保有者は「閣下(Excelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性))」の敬称で呼ばれる[104]。
スペインの公爵位は現在155個存在し、有名な物には16世紀の宗教戦争時代に当主が軍人として活躍したアルバ公爵、アルマダの海戦の際に当主が無敵艦隊の司令官を務めたメディナ=シドニア公爵、新大陸発見者とされるクリストファー・コロンブスの子孫が保有するベラグア公爵とラ・ベガ公爵(スペイン語版)、アステカ皇帝モクテスマ2世の子孫が保有するモクテスマ・デ・トゥルテンゴ公爵(スペイン語版)、フェリペ3世の寵臣(スペイン語版)を初代とするレルマ公爵(スペイン語版)、フェリペ4世の寵臣を初代とするサンルーカル・ラ・マヨル公爵(スペイン語版)(オリバーレス伯爵の爵位を埋没させたがらず、「オリバーレス伯公爵」を名乗っていた)、ナポレオン戦争時代のイギリス軍司令官ウェリントン公に与えられたシウダ・ロドリゴ公爵、スペイン内戦を起こしたエミリオ・モラ(スペイン語版)の子孫が保有するモラ公爵(スペイン語版)、フランシスコ・フランコ総統の子孫が保有するフランコ公爵などがある。またオスーナ公爵(スペイン語版)は、19世紀末の当主(スペイン語版)が駐ロシア大使を務めていた際に来客のために用意した金食器を川に捨てるという余興を催したことで、浪費を指して「オスーナ家でもあるまいし」という言い回しができたことで有名になった。
正式な称号とは認められていないが、カルリスタの王位請求者によって創設された171の称号の中にも4つの公爵位があった[104]。
王室の称号プリンシペも公爵と訳されることがあるが(「大公」や「王子」と訳されることもある)、これには皇太子に与えられるアストゥリアス公などがある[104]。
公爵を含む伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる[104]。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない[104]。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる[104]。爵位の継承には所定の料金がかかる[104]。スペインに貴族院はなく、爵位をもっていても法的な特権は何も得られない。かつてグランデの格式を有する者は外交官パスポートを持つことができたが、これも1984年に廃止されている。だがそれでも爵位を持つことは社会的信頼が大きいことから多くの人が高いお金を出してでも取得を希望する。
歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国、アラゴン連合王国、ナバラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使った。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した。
1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが[112]、1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ[104][113]、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった[104]。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。
現存する公爵位
国民記憶法により廃止された公爵位
2022年10月、国民記憶法(英語版)の施行により、以下の公爵位が強制的に称号廃止となった[114]。
ロシアの公爵
帝政ロシアの貴族(ロシア語版)は17世紀以前のボヤール(モスクワ大公国以前からの諸侯)に由来するものと、18世紀以降ロシア帝国初代皇帝ピョートル1世が制定した官等表に基づいて貴族になった官僚貴族のドヴォリャンストヴォに分けられるが、ボヤールも官僚としての勤務で官等表に組み込まれ、ドヴォリャンストヴォ化したので両者は同質化していった。
ロシア貴族の称号は当初は公爵(クニャージ、Князь、knyaz)しかなかったが、ピョートル1世はドイツと同じ伯爵位(グラフ、граф, graf)、イギリスと同じ男爵位(バロン、барон、baron)を加えて爵位制度を作った[116]。また皇族の称号として大公(ヴェリーキー・クニャージ、Великий князь)があった。
帝政ロシア時代の公爵家にはドルゴルーコフ家、ゴリツィン家(ロシア語版)、ロプーヒン=デミドフ家、カンテミール家、ポチョムキン家(ロシア語版)、オボレンスキー家(ロシア語版)、ゴルチャコフ家(ロシア語版)、ロバノフ=ロストフスキー家(ロシア語版)、ユスポフ家、ヴォルコンスキー家(ロシア語版)などがあった。
帝政ロシアの貴族の特徴はロマノフ朝皇帝権力に強く従属し、勤務義務を負っていることだった。その原因の一つとしてロシア貴族は伝統的に均分相続法によって所領が細分化しやすかったため、官僚として働いて生活費を稼ぐ必要のある者が多かったことがあげられる。またロマノフ皇帝は絶対権力者であるので、その近くで勤務することは自分の権力と財産を拡大させるチャンスであった。
しかし18世紀を通じて貴族の勤務義務は徐々に緩和されていき、1762年のピョートル3世の布告で廃止された。貴族の領地と農奴を私有財産として保障した1785年のエカチェリーナ2世の特権認可状は貴族を身分に再編しようというものだったが、実際にロシア貴族に身分意識が生まれたのは19世紀以降だった。
ロシア貴族が住む屋敷はウサージバと呼ばれた。
ロシア革命により貴族身分は廃止され、ソビエト連邦時代を通じて貴族家系の出身者は迫害・抑圧されたが、ソビエト連邦の崩壊後には貴族の子孫たちが自分の先祖の再評価の出版を相次いで行っている。
脚注
- ^ 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)942頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)849頁参照。
- ^ “毛利博物館(毛利邸)の歴史”. 毛利博物館. 2021年9月12日閲覧。
- ^ 小林(1991) p.16-17
- ^ 森(1987) p.5
- ^ 森(1987) p.6
- ^ 小林(1991) p.18
- ^ 森(1987) p.7-8
- ^ 森(1987) p.9
- ^ 森(1987) p.11-12
- ^ a b 森(1987) p.15
- ^ a b 「爵位」『日本大百科全書(ニッポニカ)』。https://kotobank.jp/word/%E7%88%B5%E4%BD%8D。コトバンクより2021年3月28日閲覧。
- ^ Éric Mension-Rigau Enquête sur la noblesse. La permanence aristocratique, éditions Perrin, 2019, page 69.
- ^ Marc Guillaume, Directeur des affaires civiles et du Sceau, 2006.
- ^ Marc Guillaume, Maître des requêtes au Conseil d’Etat, Directeur des affaires civiles et du Sceau, Le Sceau de France, titre nobiliaire et changement de nom Académie des Sciences Morales et Politiques séance du lundi 3 juillet 2006.
- ^ a b c d e f g h i j Noble Titles in Spain and Spanish Grandees
- ^ https://www.boe.es/datos/pdfs/BOE//1931/153/A01122-01123.pdf
- ^ https://www.boe.es/buscar/act.php?id=BOE-A-1948-3512
- ^ Jefatura del Estado: “Ley 20/2022, de 19 de octubre, de Memoria Democrática”. Boletín Oficial del Estado (Madrid: Agencia Estatal Boletín Oficial del Estado): 33–34. (20 October 2022). ISSN 0212-033X. https://www.boe.es/buscar/pdf/2022/BOE-A-2022-17099-consolidado.pdf.
- ^ 「官等表」『世界大百科事典』。https://kotobank.jp/word/%E5%AE%98%E7%AD%89%E8%A1%A8。コトバンクより2021年3月23日閲覧。
参考文献
文献資料
- 日本の公爵について
- 中国の公爵について
- イギリスの公爵について
- フランスの公爵について
- ドイツの公爵について
- スペインの公爵について
- ロシアの公爵について
- その他
関連項目
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、公爵に関するカテゴリがあります。