パーシー家 (英語 : Percy family 、 古フランス語 では"Perci")は、イギリス の貴族の家系。中世 期にはネヴィル家 と双璧するイングランド北部の最有力貴族だった。嫡流は代々ノーサンバランド伯爵 位を継承したが、1670年 に廃絶した。その後、パーシー家の女系子孫のサマセット公 シーモア家 の娘と結婚したスミソン準男爵家 (英語版 ) の当主第4代準男爵ヒュー・スミソン がパーシーと改姓してノーサンバランド公爵 に叙された。彼の子孫のノーサンバランド公パーシー家は2020年 現在まで続いている。
歴史
貴族になる前のパーシー家
パーシーの家名はフランス 北部ノルマンディー地方 に複数存在する地名ペルシーに由来する。由来地として最も有力なのはペルシー・アン・オージュ (フランス語版 ) である。伝承ではパーシー家は9世紀 のデーン人 の海賊メインフレッド(Mainfred)を遠祖とし、その息子のジェフリーが初代ノルマンディー公 ロロ に従ってフランス北部に移住したのだというが、この経緯は伝承の域を出ていない。
家祖のウィリアム・ド・パーシー (英語版 ) (?-1096/9) はノルマンディー公の家臣だったが、ノルマン・コンクエスト 後の1067年 にイングランド に渡った。1086年 の土地台帳にはヨークシャー に荘園を所有している人物として彼の名前が出てくる。1072年 にはウィリアム1世 のスコットランド 遠征に従軍し、1096年 には十字軍 に参加してエルサレム で死去している。
彼の子孫たちはヨークシャーやノーサンバランド などの荘園を世襲し続け、イングランド北東部に大きな影響力を持った。彼の同名の孫であるウィリアム・ド・パーシー(?-1174/5) が死去した際に最初の男系の断絶が起こり、娘のアグネス・ド・パーシー(1134-1205) と結婚していたジョスリン・オブ・ルーヴァン (英語版 ) がパーシー家の領地を継いだ。彼はフランドル 貴族ルーヴァン伯爵家 (英語版 ) の出身であり、ヘンリー1世 の王妃アデライザ・オブ・ルーヴァン の兄弟でもあったので、ルーヴァン家の方が当時のパーシー家より家格が上だったと思われるが、この夫妻の子孫はルーヴァンではなくパーシーを名乗っている。
夫妻の子であるリチャード・ド・パーシー (英語版 ) (1170頃-1244) は、ジョン王 の失政を糾弾して大憲章(マグナカルタ )の履行を監視する25人のバロン の一人となった。その甥のウィリアム・ド・パーシー(1183頃-1245) も反乱バロンたちに加わってジョン王に対抗したが、後に恭順している。その子ヘンリー・ド・パーシー(1228頃–1272) は、ヘンリー3世 に忠実で1264年 にルイスの戦い で王に与して敗れている。
パーシー男爵パーシー家
アニック城
その子ヘンリー・ド・パーシー (英語版 ) (1273–1314) は、1299年 2月6日 にパーシー男爵 (英語版 ) として議会 招集令状を受けた[ 6] 。また1309年 にはダラム司教 (英語版 ) よりアニック城 を購入した。以降この城はパーシー家所有の城の中でももっとも有名なものとなる。彼はエドワード1世 とエドワード2世 のスコットランドへの計略に重要な役割を果たしたが、1314年 のバノックバーンの戦い に参加して敗れている。エドワード2世の寵臣政治に反対し、1312年 にはエドワード2世を捕虜にし、1316年 にはギャヴィストン を逮捕した貴族の一人である[ 6] 。
その息子の2代パーシー男爵ヘンリー・ド・パーシー (英語版 ) (1299–1352) は、1328年 に辺境警備長官 (英語版 ) に任じられ、第2代ネヴィル男爵ラルフ・ネヴィル (英語版 ) とともにスコットランド国境の守備にあたり、1346年 にネヴィルズ・クロスの戦い でスコットランド軍を撃破するのに貢献した。
その息子の3代パーシー男爵ヘンリー (英語版 ) (1320–1368) は、百年戦争 のウィンチェルシーの海戦 でスペイン を撃破するのに貢献した[ 6] 。また辺境警備長官としてスコットランド軍とも戦火を交えた。
ノーサンバランド伯爵パーシー家
その息子の4代パーシー男爵ヘンリー・パーシー (1341–1408) は、リチャード2世 即位直後の1377年 7月16日 にノーサンバランド伯爵 に叙位された[ 8] 。彼の代がパーシー家の最盛期と考えられ、その息子で「ホットスパー(短気者)」の呼び名で知られるヘンリー・パーシー (1364–1403) や、宮廷官僚として活躍した弟の初代ウスター伯 (英語版 ) トマス・パーシー (英語版 ) (1343–1403) とともに絶大な権勢を握った。
ヘンリー・パーシー (「ホットスパー」)
しかしリチャード2世はイングランド北部のパーシー家の勢力の大きさを好ましく思わず、北部においてパーシー家に次ぐ勢力であるネヴィル家 やクリフォード家と均衡させようとしたり、パーシー家が代々継承してきた辺境警備長官の職を解くなどしたため、リチャード2世と対立を深め、1399年 のヘンリー4世 による王位簒奪を支持し、ランカスター朝 の樹立に貢献した。しかしその後パーシー家はヘンリー4世とも対立し、3度にわたって反乱を起こした。
最初の反乱の1403年 夏のシュルーズベリーの戦い (英語版 ) で「ホットスパー」が戦死し、ウスター伯も捕らえられて後に処刑されている。1405年 に二度目の反乱を起こしたが、失敗してスコットランドへ亡命。1406年 に私権剥奪 で爵位を剥奪されている[ 8] 。1408年 に故郷に戻るも発見されて、ブラマム・ムーアの戦い (英語版 ) で敗死した[ 8] 。
パーシー家は滅亡こそしなかったが、この反乱が原因で以降イングランド北部における勢力はネヴィル家 に押され気味となる。
「ホットスパー」の息子であるヘンリー・パーシー (1394–1455) は、1416年 に領地と称号を回復している[ 13] 。ただ祖父の私権剥奪が議会によって取り消されたという証拠がないため[ 8] 、「2代ノーサンバランド伯」ではなく、改めて新規に「初代ノーサンバランド伯」に叙されたとみなす見解もある[ 13] 。ヘンリー5世 に従って百年戦争 に従軍してノルマンディー地方で戦い、1417年 には北部に転じてスコットランド南部へ侵入した。1422年にヘンリー5世が崩御した際にはその遺言執行人を務めている。薔薇戦争 の始まりである1455年 の第一次セント・オールバンズの戦い にはランカスター派(ヘンリー6世 支持派)として参加したが、戦死した。
その息子の3代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー (1421-1461) もランカスター派としてヘンリー6世に仕え、1460年 のウェイクフィールドの戦い と1461年 の第二次セント・オールバンズの戦い でヨーク派を撃破したが、同年タウトンの戦い で3人の弟とともに敗死した。死後、ヨーク派 のエドワード4世 によって領地と爵位をはく奪され[ 13] 、ライバルのネヴィル家の一族であるジョン・ネヴィル が代わりにノーサンバランド伯に叙位された。
その息子のヘンリー・パーシー (1449–1489) は、最初エドワード4世によってロンドン塔 に投獄されていたが、エドワード4世とネヴィル家が不和になってきたことから、ヨーク派に転じることで赦免され、1470年 に爵位と領地をジョン・ネヴィルから取り戻し、式部卿 に任命された[ 13] 。以降エドワード4世に従って1475年 のフランス遠征、1482年 のスコットランド遠征に従軍した。1485年 のボズワースの戦い ではリチャード3世 側で出陣したが、戦闘に参加せず、ヘンリー7世 即位後、数カ月監禁されるも年末には釈放された。その後1489年 に新税の徴税でヨークシャーで暴動が起きた際に暴徒に殺害されている。
その息子の5代ノーサンバランド伯ヘンリー・アルジャーノン・パーシー (英語版 ) (1478–1527) は、ぜいたくな生活を送って多額の借金を残した。しかし久しぶりにベッド の上で死んだ当主となった。
その息子の6代伯ヘンリー・パーシー (英語版 ) (1502-1537) は、少年時代にはトマス・ウルジー 枢機卿 の宮殿で暮らしており、襲爵前にアン・ブーリン と恋人となったが、ウルジー枢機卿から叱責され、父の5代ノーサンバランド伯からも廃嫡すると脅され、この恋を断念している。宗教改革 に対する反発が原因で発生した1536年 の恩寵の巡礼 には参加しなかったが、弟2人が参加し、長弟トマス・パーシー (英語版 ) (1504頃–1537) は1537年に私権剥奪されて処刑された。6代伯もその翌年に死去した。
6代伯には子供がなく、自分の死後所領を王室に寄贈することを申し出ていた。さらに相続人である弟トマス・パーシーは私権剥奪されていたため、当時の法の下ではその子(6代伯の甥)であるトマス・パーシー (1528–1572) に継承資格がなかった。そのため6代伯の死とともにノーサンバランド伯は一度廃絶となった[ 13] [ 23] 。その所領も王室のものとなった。
以降20年ほどノーサンバランド伯の称号はパーシー家を離れたが、その間にジョン・ダドリー がノーサンバランド公 に叙せられている。
6代伯の甥トマス・パーシーは、カトリック であったことからメアリー1世 の寵遇を得、1557年 4月30日 にパーシー男爵、同年5月1日 にノーサンバランド伯に叙位された。両爵位とも男子なき場合に弟ヘンリー・パーシー (英語版 ) を特別継承者とする規定があり、またノーサンバランド伯位については以前のノーサンバランド伯位の継承資格者も継承可能であり[ 25] 、7代伯爵の名乗りも許されていた。しかしメアリー崩御後、プロテスタント 化政策を推し進めるエリザベス1世 と対立を深め、1569年 に同じく北部カトリック貴族の6代ウェストモーランド伯爵 チャールズ・ネヴィル とともに北部諸侯の乱 (英語版 ) を起こしたが、失敗し、1572年 に大逆罪 で処刑された。カトリックの殉教者と見なされ、後世カトリック教会から列福 されている。
7代伯には男子がなく、弟のヘンリー・パーシー (英語版 ) (1532–1585) が8代伯となった[ 25] 。彼は襲爵前にノーサンバランド州選挙区選出の庶民院 議員を務めており、兄の反乱にも参加しなかったが、1571年 に元スコットランド女王 メアリー・ステュアート と共謀したとされ、ロンドン塔に送られた。獄中で襲爵し、1573年 に釈放されるも1583年 末にスロックモートン事件 (英語版 ) に連座して再度ロンドン塔に投獄され、1585年 に自殺した(他殺説もあり)。
サイオン・ハウス (英語版 )
その息子の9代伯ヘンリー・パーシー (1564–1632) は、エリザベス朝 時代にレスター伯 ロバート・ダドリー の指揮下でオランダで戦い、1594年にはエリザベス1世からサイオン・ハウス (英語版 ) を与えられた。しかしステュアート朝 時代の1605年 、火薬陰謀事件 に分流のトマス・パーシー (英語版 ) が加わったために関与を疑われてロンドン塔に投獄され、1621年 に釈放されるまで16年近く監禁生活を送った。
10代伯アルジャーノン・パーシー (1602–1668) は、清教徒革命 前夜の頃、チャールズ1世 に厚遇され、枢密顧問官や海軍司令長官やスコットランド遠征軍司令官に任命された。しかし議会派 と王党派 の内戦 が起きると議会派に味方し、それを知ったチャールズ1世は「私は奴に情婦のごとく阿ったのに、奴は裏切った」と怒りを露わにしていたという。伯は父を無実で投獄したステュアート朝 が今更すり寄ってきたところで恩義など一切感じていなかったといわれる。議会派に転じたとはいえ、貴族である以上共和国 政界での活躍は限界もあり、結局政界から退いた。王政復古 後には枢密院に復帰したが、1668年 に死去した。
その息子の11代伯ジョスリン (1644–1670) は襲爵後わずか2年で25歳にして死去。生存している男子は亡く彼の死去と共に爵位は廃絶した[ 25] [ 33] 。
11代伯の死去の翌年の1671年にアイルランド ・ダブリン 市のトランク 製造業者ジェイムズ・パーシーという男が8代伯の五男リチャード・パーシー(Richard Percy, ?-1648) の曽孫を名乗って貴族院 に12代ノーサンバランド伯爵位を請求した。11代伯の未亡人エリザベス・パーシー(旧姓リズリー) (英語版 ) (1646-1690) が抗議し、結局貴族院は1672年にジェイムズ・パーシーの請求を根拠なしとして退けた。その後もジェイムズは6代伯の弟インジェルラム・パーシー(Ingelram Percy, 生年不詳-1538) の子孫と主張して王座裁判所 (英語版 ) に申し立てているが、やはり敗訴している。インジェルラムは生涯独身で子供はなかった。
エリザベス・パーシーとサマセット公シーモア家
エリザベス・パーシー(後にシーモア)
11代ノーサンバランド伯は男子を残さなかったが、娘エリザベス・パーシー (1667-1722) があった。彼女は中世・近世のノーサンバランド伯パーシー家と近代のノーサンバランド公パーシー家(スミソン家)を繋ぐ存在である。ノーサンバランド伯爵位は男系男子に限られるので彼女が爵位を継承することはできなかったが、アニック城をはじめとする北部の所領、サセックス州南部のペットワース荘園、ノーサンバランド・ハウスやサイオン・ハウスなどロンドンの邸宅といったノーサンバランド伯爵家の財産は彼女が相続した。
彼女はスキャンダルな人生を送ったことで知られる。1679年 に第2代ニューカッスル公爵 ヘンリー・キャヴェンディッシュ の息子オーグル伯ヘンリー・キャヴェンディッシュと結婚したが、この最初の夫は父から爵位を継承する前に1680年に死去。翌1681年 にウィルトシャー の富豪トマス・シン (英語版 ) と秘密結婚したが、その直後にオランダへ出奔し、そこでスウェーデン貴族 (スウェーデン語版 ) のケーニヒスマルク伯爵カルル・ヨーハン (スウェーデン語版 ) と知り合った。エリザベスの敵によれば彼女はケーニヒスマルク伯爵に夫の殺害を依頼し、伯爵は3人の刺客にトマス・シンの馬車を襲撃させ、彼に致命傷を負わせた。伯爵と3人の実行犯は逮捕されたが、伯爵は外国貴族の特権を行使して釈放され、3人の実行犯のみ死刑となったが、これ以来エリザベスには「殺人者」という疑惑が付きまとった。
その後彼女はイングランドに帰国し、1682年 に第6代サマセット公 チャールズ・シーモア (1662-1748) と三度目の結婚をした。さらにサマセット公夫人としてアン女王 の宮廷で女官として活躍した。トーリー党 支持者であるジョナサン・スウィフト はホイッグ党 系の彼女を毛嫌いし、彼女のことを「殺人者」と非難したことでサマセット公爵夫人と仲の良いアン女王に嫌われ、イングランド主教や首席司祭への出世の道が閉ざされている。
6代サマセット公とエリザベスの間の子であるアルジャーノン・シーモア (1684-1750) は、1722年の母の死後の1723年1月21日にパーシー男爵として議会招集されているが、これは当時、エリザベスが11代伯から1299年 の議会召集令状によるパーシー男爵を継承していると誤認されていたからである。実際には1299年創設のパーシー男爵は1406年 の私権剥奪で剥奪されており、11代伯が保持していたパーシー男爵位は1557年に勅許状 で新設されたものであるため男系男子に限定されるものであり、ノーサンバランド伯位と一緒に廃絶している[ 25] 。したがってこの時のパーシー男爵位は新設の物と見なされる(錯誤により創設された男爵 )[ 25] [ 40] 。1748年に父が死去して第7代サマセット公爵位を襲爵したが、彼には男子がなかったので1749年 10月2日 に彼の娘エリザベス (英語版 ) の夫である第4代準男爵 (英語版 ) ヒュー・スミソン (1714頃-1786) を特別継承者とするノーサンバランド伯爵とノーサンバランド州におけるワークワース城のワークワース男爵に叙位された[ 40] [ 41] 。
ノーサンバランド公爵パーシー家 (旧スミソン家)
初代ノーサンバランド公ヒュー・パーシー(旧姓スミソン)
1750年2月に7代サマセット公が死去すると、特別継承者の規定に基づいてヒュー・スミソン準男爵が第2代ノーサンバランド伯と第2代ワークワース男爵を継承するとともに議会の議決によりパーシーに改姓した[ 42] [ 43] 。スミソン家はイングランド内戦の際に王党派に尽くした功績で王政復古後の1660年に準男爵に叙せられていた家柄でヨークシャーのスタニックに6000エーカーの土地を所有した中規模の地主だった。彼がパーシーに改名したことで80年ぶりに「ノーサンバランド伯パーシー家」が「復活」する形となった。彼はその後もトーリー党 の政治家として活躍し、1766年 10月22日 にはグレートブリテン貴族 爵位ノーサンバーランド公爵 に叙せられた[ 42] [ 43] 。
初代公の死後はその嫡出子の息子のヒュー・パーシー (1742-1817) が2代公を継承する。彼は陸軍大将まで昇進した陸軍軍人であり、トーリー党 の政治家でもあった[ 43] [ 46] 。彼は父から公爵位を継承する前の1776年 12月5日 に母から前述のパーシー男爵を継承している[ 43] 。
また初代公には非嫡出子があり、その一人が科学者のジェームズ・スミソン である。彼はパーシー家の血を引いていないため、父の元来の姓スミソンを名乗った。彼の遺産はアメリカ合衆国 に寄贈され、この遺産をもとに1846年にスミソニアン協会 が創設されている。ワシントンD.C. にあるスミソニアン博物館はスミソニアン協会が運営しているものである。ジェームズ・スミソンは生前「ノーサンバランドの爵位が絶え、パーシーの名が忘れ去られても、私の名前は人類に記憶されるだろう」と述べたという。
2代公の息子の3代公ヒュー・パーシー (1785-1847) もトーリー党の政治家であり、1829年 から1830年 にかけてアイルランド総督 を務めた[ 43] 。しかし反動保守的な人物であり、1832年 の選挙法改正に反対している。
その弟の4代公アルジャーノン・パーシー (1792-1865) も保守党 の政治家であり、公爵位を継承する前の1816年 11月27日 には連合王国貴族 爵位のノーサンバーランド州におけるプルードホー城のプルードホー男爵に叙されていた。公爵襲爵後の1852年 には第一次ダービー伯爵 内閣で海軍大臣 (英語版 ) を務めている[ 43] [ 49] 。
4代公が死去するとプルードホー男爵位は廃絶し、また女系継承が可能なパーシー男爵位は第7代アソル公爵 ジョン・ステュワート=マレー (英語版 ) に継承された。ノーサンバランド公爵位は初代公の次男初代ビバリー伯 (英語版 ) アルジャーノン・パーシー の息子である2代ビバリー伯ジョージ・パーシー (1778-1867) が継承した[ 43] 。
その息子である6代公アルジャーノン・パーシー (1810-1899) はヴィクトリア朝 の保守党政権下で閣僚職を歴任した[ 43] 。トーリー気質の者が多いノーサンバーランド公爵家の歴代当主の中でも特に保守反動的だったことで知られ、1867年 の第二次選挙法改正や1886年 に提出されたアイルランド自治法案に強く反対した。
その孫である8代公アラン・パーシー (英語版 ) (1880-1930) は、貴族院の極右 グループの指導者となり、『愛国者』と名付けた定期刊行物を発行し、「大英帝国 をユダヤ人とボルシェヴィズムから守る」と称して反ユダヤ主義 と反共主義 の宣伝を行った。
その長男の9代公ヘンリー・パーシー (1912-1940) は、第二次世界大戦 に従軍したが、1940年 5月のドイツ軍の西方電撃戦 の際にベルギー ・エスケルム (オランダ語版 ) で戦死している[ 52] 。
その弟である10代公ヒュー・パーシー (英語版 ) (1914-1988) は、1957年 の第9代アソル公爵ジェイムズ・ステュワート=マレー (英語版 ) の死去時に彼が所持していたパーシー男爵を継承した。アソル公爵家に移っていたパーシー男爵位が再びノーサンバーランド公爵家に戻る形となった[ 43] [ 53] 。
2020年 現在の当主は10代公の次男である12代公ラルフ・パーシー (英語版 ) (1956-) である[ 43] [ 54] 。
初代公が領地で鉱山開発に励み、子孫たちが鉱山を賃貸して金を稼いだため、非常に裕福な貴族である。20世紀 には経済的に没落する貴族が増え、領地売却が盛んになったが、ノーサンバーランド公爵家はうまく立ち回って大きな没落を防いだ。18万エーカーもの領地を有した19世紀後半の最盛期と比べると減少したものの、いまだ10万5000エーカー(1976年の発表)にもおよぶ領地を所有する大地主である。ノーサンバランド州に広大な領地を持ち、ノーサンバランド伯パーシー家時代から伝わるアニック城やサイオン・ハウスを所有し続けている。
備考
近代のノーサンバランド公パーシー家(スミソン家)と中世のノーサンバランド伯パーシー家の繋がりの薄さのためにしばしばノーサンバランド公パーシー家は新興貴族扱いを受けた。例えば作家サマセット・モーム は甥のロビン・モーム (英語版 ) (同じく作家で後に第2代モーム子爵 (英語版 ) )に宛てた、ロビンの父が爵位を与えられることにロビンが反対していることに関する手紙の中で次のように皮肉っている。「お前のお父さんに爵位が与えられるなら、息子のお前がとやかく批判するのは馬鹿げているよ。法廷弁護士 を目指すお前にとっても、爵位は決して邪魔にはならんさ。競争相手にぶつかった時、この世の中は爵位の所有者には多少は有利に働くものだ。お前は自分の家が中産階級 の出身だとか言っているが、そんなのは戯言だ。パーシーやグローヴナー の出自を知っているか。パーシーなんて名乗っているけど、本当の名前はスミなんとかいうんだぞ」。
イングランド・プロサッカーチームトッテナム・ホットスパーFC の「ホットスパー」はパーシー家がトッテナム湿地 (英語版 ) を所有していたことから同家の祖先である「ホットスパー」ヘンリー・パーシー から取ったものである[ 57] 。
系図
紋章
Category:Percy arms 参照
脚注
注釈
出典
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^ Collins' Baronetage of England; The old arms can be seen carved in wood impaling the arms of Fairfax (A lion rampant ) on the staircase of Moulton Hall, Richmond, York, made following the 1653 marriage of George Smithson. See image in: Smithson, George R., Genealogical notes memoirs of the Smithson family, London, 1906, plate between pp.24&25 [1]
^ Collins, Arthur, The English Baronetage, vol.3, part 1; Victoria County History, Stanwick St John
参考文献