ジョン (英 : John , 仏 : Jean ,1166年 12月24日 - 1216年 10月18日 または19日 )は、プランタジネット朝 (アンジュー朝)第3代イングランド 王 (在位:1199年 - 1216年)。同朝の初代王ヘンリー2世 とアリエノール・ダキテーヌ の末子。異父姉にマリー 、アリックス 、同父母の兄弟姉妹では兄にウィリアム 、若ヘンリー王 、リチャード1世 、ジェフリー 、姉にマティルダ 、エレノア 、ジョーン がいる。
出生時に父ヘンリー2世から領地を与えられなかったことから[ 1] 、ジョン・ラックランド(英 : John Lackland ), ジャン・サン・テール(仏 : Jean sans terre )すなわち失地王 (しっちおう)あるいは欠地王 (けっちおう)と呼ばれたが[ 1] 、のちに1185年、ヘンリー2世からアイルランドの統治権を与えられた[ 2] 。失政を重ねたことで国内諸侯 の怒りを招き、王権を制限するマグナ・カルタ への合意を余儀なくされた[ 1] 、イギリスの憲法 及び全ての憲法 の始まりである。
概要
兄であるリチャード1世 が戦いに明け暮れ、長くイングランド を留守にしたため、イングランド王の勢力を削ごうとするフランス 王フィリップ2世 にそそのかされて王位簒奪を夢見ていた。本来なら王位につく可能性は少なかったが、1199年 にリチャード1世が中部フランスで戦死してから状況が一変する。リチャードは即位当初、弟ジェフリー (ジョフロワ、ジョンには兄にあたる)の遺児アーサー (アルテュール)を王太子 になぞらえていた。しかしその後、アーサーはフィリップ2世に臣従してフランスの宮廷で育ち、さらにリチャードの臨終時にはまだ12歳であったため、リチャードは最終的に遺言でジョンを後継者に指名した。前王の重臣ヒューバート・ウォルター をはじめとする、フィリップ2世の干渉を憂慮したイングランド国内の諸侯もアーサーを排除し、結局ジョンがイングランド王位を継承した。
王位に就いたジョンは、フランス国内の領土をめぐってフィリップ2世をはじめとするフランスの諸侯と対立した。1203年 、アーサーがジョン支持派に暗殺されると、アーサーの後見人を自負するフィリップ2世との全面戦争に突入するが、その戦いにことごとく敗れ、1214年 までにフランスにおける領地をほとんど喪失した。また1208年 には、ヒューバート・ウォルター亡き後に空位となっていたカンタベリー大司教 の任命をめぐって、ローマ教皇 インノケンティウス3世 が推したスティーヴン・ラングトン (英語版 ) を拒否するなど教皇と対立した。当初は多くの諸侯がジョンを支持したが、1209年 に教皇はジョンを破門 し、さらに教皇やラングトンの切り崩しが徐々に功を奏すると、ジョンは1213年 に謝罪して教皇に屈した。その時、一旦イングランド全土を教皇に献上し、教皇から与えられる形で国王に返還された。
こうした外交政策の失敗の後、軍役代納金 ・課税をめぐってイングランド国内の諸侯から反発を招き、1215年 に国王が貴族 や聖職者の権利を認めるという形でマグナ・カルタ が成立した。しかし、教皇インノケンティウス3世による王権侵害により、わずか2か月で廃棄された。マグナ・カルタの廃棄宣言に不満を持つ貴族たちは、フィリップ2世の長男ルイ の支援を得て反乱を起こした。
生涯
領地無し
父王ヘンリー2世 は王妃アリエノール(エレアノール) と不仲になり、幼少期に母親からの愛情を受けることが少なかった末子のジョンを最も愛した。1169年 、ヘンリー2世はフランス王ルイ7世 との協約で、大陸の所領をジョン以外の3人の息子に分割した。当時まだ2歳にもならなかったジョンはその分与から除外され、父ヘンリー2世はジョンに「ラックランド、サン・テール(領地の無いやつ)」とあだ名をつけ憐れんだ。
1173年 、ジョンはモーリエンヌ伯の娘と婚約するが(この姫は後に亡くなり婚約は消滅)、その際ヘンリー2世は、征服して間もないアイルランド 以外にも、大陸領土内のシノン 、ルーダン (英語版 ) ・ミルボー (英語版 ) の3つの城を幼いジョンに与えようとして次男の若ヘンリー王 の、また1184年 にはアキテーヌ公 領を与えようとして三男リチャード の離反を招いた。1177年 にジョンは10歳でアイルランド卿 を継承するが、その後もアイルランドを統治出来なかった。1188年 以降の父王と兄リチャードの争いでは、当初は父についていたが、兄の勝利が確実になると寝返って、父王を大いに失望させその死因になったとも言われる。
1189年 、イザベル・オブ・グロスター との婚姻によりグロスター伯領を継ぎ、さらに兄リチャード1世よりノッティンガム 他6州を与えられた。
陰謀
リチャード1世が第3回十字軍 に出陣した際は、フランスに留まるよう指示されたが、勝手にイングランドに戻り留守中の統治に関与した。リチャード1世がドイツで幽閉されると、フランス王フィリップ2世 と提携しイングランド王位を狙ったが、重臣や諸侯の支持を得られず果たせなかった。
この事件は、後世大きく脚色されてさまざまな物語が作られ、ロビン・フッド 伝説にも取り入れられた。
即位
1194年 にリチャード1世がイングランドに戻ると、一旦抵抗の姿勢を見せたものの、まもなく屈服し和解した。1199年に兄がアキテーヌで亡くなると、ジョンはすぐにノルマンディー からイングランドに渡り、イングランド王として戴冠した。一方、一時は後継者とされていた甥のブルターニュ公 アルテュール (アーサー)はアンジュー 伯領を確保して王位を主張したが、ヒューバート・ウォルター を始めとするイングランドとノルマンディの諸侯は、フランス王と親しかったアルテュールよりジョンを支持した。リチャードの臨終に際し遺言を聞いた母のアリエノールも、アルテュールを押さえてジョンを支持している。
大陸領土喪失
1200年ごろのフランスにおけるジョンの領土
1200年 にジョンはイザベル・オブ・グロスターと離婚、既に婚約者のいたイザベラ・オブ・アングレーム と再婚した。イザベラの婚約者ユーグ9世・ド・リュジニャン は封建主人であるフランス王にこれを訴えたため、1202年 にフィリップ2世はジョンを法廷に呼び出した。イングランド王はフランス領においてフランス王の封建臣下であるが、これまで法廷に呼び出されたことはないためジョンは拒絶した。このため、フィリップ2世・アルテュール対ジョンの戦争となった。(詳細はフランスのノルマンディー侵攻 (1202年-1204年) を参照)
当初ジョンは劣勢だったが、1203年 にアルテュールがポワチエにいたアリエノールを捕らえようとした際、ジョンは迅速に対応して逆にアルテュールを捕らえた。幽閉されたアルテュールはまもなく消息不明となったため、人々はジョンがアルテュールを殺したと考え、ブルターニュ の諸侯はフランス王を頼ってジョンに反旗を翻した。ジョンはフランスにおける人望を既に失っており、フランス王の攻勢の前にノルマンディ・アンジュー・メーヌ・トゥレーヌ・ポワトゥーはほとんど抵抗せずに降伏した。わずかにアキテーヌの中心地であるガスコーニュ のみがジョンの下に残った。これは、元々アキテーヌは諸侯の力が強く、彼らは強力なフランス王より弱体化したイングランド王の支配を好んだためとされる。
教皇との争い
1205年 にカンタベリー大司教 ヒューバート・ウォルターが亡くなると、修道士達が選んだ候補とイングランド王と司教が推薦した候補とが共にローマへ行き、カンタベリー大司教の座を争ったが、教皇権の強化を狙っていたローマ教皇 インノケンティウス3世 は両者とも認めず、代わりに枢機卿のラングトンを任命した。ジョンはこれを認めず、これを支持する司教たちを追放して教会領を没収したため、1207年 にインノケンティウス3世はイングランドを聖務停止とし、1209年 にジョンを破門 した[ 1] 。
ジョンはこれを無視し、逆に没収した教会領の収入で軍備増強を図ったが、1213年 になるとインノケンティウス3世はさらにフランス王のイングランド侵攻を支持し、これに呼応して諸侯の反乱が計画されたため、ジョンはイングランド及びアイルランドを教皇に寄進し教皇の封臣となり、聖ペテロ祭費とは別に年額千マルクを支払う事を約することにより、破門を解かれた。
ブーヴィーヌの戦い
大陸領土を失ったジョンは、ウェールズ ・アイルランド ・スコットランド への影響力の強化に努め、一時的に成果を挙げている。さらに、大陸領土奪回のために海軍を整備し、フランス王と対立する甥の神聖ローマ皇帝 オットー4世 やフランドル伯 フェラン と提携を深めたが、大陸領土喪失による収入減に加え、軍事力強化を図ってイングランドに重税をかけたため、諸侯・庶民の不満は高まった。
一方、ジョンが教皇の封建臣下になったため、フランス王によるイングランド侵攻への教皇の支持は撤回された。フランス王は代わりに、かねてから反抗しているフランドル伯を攻めたが、イングランド海軍の援軍によりフランス王軍は船舶の大半を失って撤退した。
好機到来と考えたジョンはオットー4世らと謀って、フィリップ2世を南北から挟撃する計画を立てた。ジョンがフランス南部に進撃し、同時にドイツ・フランドル軍がフランドルからフランスに侵入するというもので、1214年 に入るとジョンはギュイエンヌ から侵攻し、ポワチエ ・アンジュー を回復したが、オットー4世はドイツ諸侯の動員に手間どり進軍が遅れた。この間にフィリップ2世は王太子ルイ を南部に派遣したため、ジョンは戦線を支えきれずギュイエンヌに撤退した。こうして、南部の負担が少なくなったフィリップ2世率いるフランス王軍と皇帝連合軍が1214年7月27日 にフランドルのブーヴィーヌで会戦し、数で劣るフランス軍が皇帝連合軍を打ち破った(ブーヴィーヌの戦い )。
これによりフィリップ2世の優位は確定し、ジョンは占領地を全て放棄して撤退を余儀なくされた。連合軍に参加したフランドル伯・ブローニュ伯は捕虜となり、オットー4世はフリードリヒ2世 に皇帝位を奪われることになる。
マグナ・カルタ
ブーヴィーヌの惨敗でイングランドに戻ったジョンを待っていたのは、国内諸侯 の反発だった。ジョンは戦費捻出のため議会を通さずに(国王特権で)臨時課税を乱発しており、苛政への不満が鬱積していたのである。強圧を持ってこれを抑えようとしたジョンに対して諸侯は結束して反抗し、内戦状態となった。戦いが起こるとジョンを見限る者が多く、支持を失ってロンドン を制圧されたジョンは、以前から突き付けられていた諸侯の要求事項を受け入れざるを得ないと決意。1215年 6月15日、ラニーミード にて行われた調印で、国王の徴税権 の制限や法の支配 などが明記されたマグナ・カルタ (大憲章)が制定された。
保身のためマグナ・カルタへの合意を余儀なくされたジョンだったが、すぐに不服をローマ教皇 に訴えて、インノケンティウス3世 に無効破棄を宣言してもらうなど反撃に転じ、再び圧政と恣意的重税を行うようになった[ 3] 。これに憤慨した諸侯たちが再び蜂起して、またもジョンとの間で内乱となり、諸侯がフランス王太子ルイ に援軍を求めて招聘したことで第一次バロン戦争 が勃発した。ジョンは一旦ロンドンから撤退してルイの軍隊と戦いを繰り広げたが、そのさ中に赤痢 に罹って1216年 10月19日に病没した[ 3] 。
ジョン当人の崩御により戦争理由が無くなると、諸侯はウィリアム・マーシャル を摂政 に立てたうえで、王位を9歳のヘンリー(ジョンの息子)に継承させた[ 3] 。同年11月、マグナ・カルタはイングランド王に即位した息子ヘンリー3世 の名前であらためて発行された。
妻と子供
最初の妻イザベル・オブ・グロスター との間に子供はなく、1200年 に離婚した。王妃とは認められなかった。
2度目の妻イザベラ・オブ・アングレーム との間に2男3女をもうけた。イザベラはジョンと死別後、かつての婚約者ユーグ9世の息子ユーグ10世と再婚した。
他に庶子が多数記録されている。
リチャード・フィッツロイ(1190年頃 - 1246年6月) - 母はアデラ・ド・ワーレン(サリー伯ハメリン・ド・ワーレンの娘)
ジョーン(1191年頃 - 1237年2月) - ウェールズのグウィネズ王サウェリン・アプ・ヨーワース(大サウェリン)と結婚
ジョン - 聖職者
ジェフリー(1205年没) - ペルシュ領(the honour of Perche)を保持
オリヴァー・フィッツレジス(1199年以前 - 1218/9年) - 母はフルク・フィッツワリンの姉妹アヴォワーズ
オズバート・ジファール
系図
評価
無能・暴虐・陰謀好き・裏切り者・恥知らずと評され、大陸領土喪失・甥殺しによる信望の喪失・教皇への屈服とイングランドの寄進・重税・諸侯の反乱と失政が続き、唯一評価されるのは「強制されてマグナ・カルタを認めイギリスの民主主義の発展に貢献した」ことのみと、在位当時から後世の評価まで徹頭徹尾評判の悪い王である。近年ではその反動から、海軍 の育成やリヴァプール の建設、イングランドにおける司法・行政の発展、スコットランド・ウェールズ・アイルランドへの支配の道筋を付けたという点で再評価する声も出てはいるが、イングランド史上最悪の君主という暗君の評価は覆りそうもない。兄リチャードの十字軍遠征、その帰途に虜囚となったことによる身代金、と莫大な出費が嵩んだ後に即位したことも困難な治世の原因となった。
逸話
「ジョンの評判が悪かったため、以降のイングランド王・イギリス王でこれを襲名したものはいない」という通説がある。プランタジネット朝 以降ジョンという名の王子は何人かいるが(ランカスター家 の祖ジョン・オブ・ゴーント 、ジョージ5世 の息子ジョン など)、「ジョン2世」が存在しないことは事実である。さらに、当時は長子に親の名を付ける習慣があったにもかかわらず、息子ヘンリー3世 が長子をジョンと名づけず、エドワード懺悔王 にちなんでエドワード と名づけたのは、諸侯のジョンへの強い抵抗感を考慮したためであり、またテューダー朝 以降に付けられなくなったのは、やはり人気がないからとも考えられる。
あだ名のLacklandは、元々幼いころ領地をもらえなかったことから付いたものだったが、対仏戦争の敗北で広大な大陸領土を失ったため、人々の記憶に残ることになった。このため日本語では「失地王」とも訳される。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
1603年の王冠連合 後のイングランド及びスコットランドの君主