ユスポフ家の紋章、1799年
ユスポフ家 (ロシア語 : Юсу́повы)は、ロシアの貴族 。ロシア帝国 でも裕福で影響力のあった貴族で、ロマノフ家 同様に莫大な財産を所有していたことで知られている。著名な人物にラスプーチン 暗殺に関与したフェリックス・ユスポフ 公がいる。
歴史
起源
ユスポフ家の起源は6世紀にまで遡り、イスラム教徒の最高指導者であるアブべキル・ベン・ライオック(Aboubekir ben Raioc)[ 注釈 1] によって創設されたとされている。アブべキルは、エミール・エル・オムラ(Emir el Omra)やカン などの様々な称号を持ち、宗教的、政治的な権限を一体化させていた。また、アブべキルの子孫たちはエジプト やアンティオキア 、コンスタンティノプールにおいても同様に、最高権力を行使した。そのうちの数名はメッカ に埋葬されたという[ 1] 。
14世紀、アブべキルの子孫の一人であるエディゲ [ 注釈 2] はティムール朝 の建国者ティムール の遠征全てに参加し、ジョチ・ウルス のカンと戦った[ 1] 。
15世紀以降
15世紀末、ムサ・ビー (ロシア語版 ) [ 注釈 3] はノガイ・オルダ の統治者となり、イヴァン3世 と同盟を結んだ。ムサ・ビーの死後は、長男のサク・ママイが跡を継いだが、後にユスフ (ロシア語版 ) が跡を継ぐことになったという[ 2] 。
1533年 、ユスフは娘スユンビケ (英語版 ) を当時のカザン=ハンであったジャン=アリ (英語版 ) と結婚させたが、ユスフはカザン・ハン国 の派閥のうちクリム派を唆し、1535年にジャン=アリを殺害させた。その後、モスクワ派により追放されていたクリム派のハンであるサファ=ギレイ (英語版 ) がカザン・ハン国に戻ると、スユンビケはサファ=ギレイと結婚することになったが、1549年に2番目の夫が再び殺害され、1553年にシャー・アリ (英語版 ) と3度目の結婚をした[ 2] [ 3] [ 4] 。
1870年、ヴァシーリー・フデャコーフ作『カザンを去るスユンビケ』
しかし、すぐにシャー・アリはモスクワ に避難せざるを得なくなり、その間スユンビケがカザン=ハン国を統治した。しかし、父ユスフとイヴァン雷帝 との間で争いが勃発すると、ロシアによりカザンは包囲され、スユンビケは捕虜となる。スユンビケが捕虜として投獄されると、ユスフはイヴァン雷帝に娘と孫の釈放を要求した。しかし、ユスフはイヴァン雷帝が自身の懇願を全く気にとめなかったことに憤慨し、戦争を再開する準備していたという[ 5] 。
しかし、その最中の1555年、ユスフは兄イスマイル (ロシア語版 ) によって暗殺され、イスマイルがノガイの統治者となる。4月、ユスフの息子たちはノガイ・オルダの有力者オラク[ 注釈 4] の息子カズ(又はカジ)やユヌス=ムルザ、アリ=ムルザと共にアストラハン を攻撃し、6月には宮帳を攻撃した上でイスマイルを追いやった[ 6] 。
17世紀以降
ユスフの曾孫であるアブドゥル・ムルザは正教会 へと改宗したことで、名をドミトリーと改め、ロシア・ツァーリ国 のツァーリ であるフョードルからユスポフ公の称号を授かった。また、ドミトリーは勇敢さで名高く、ポーランドとクリミア・ハン国 に対するツァーリの遠征全てに参加した[ 7] 。
しかし、断食日にモスクワ 府主教 と食事をした際に、魚に見せかけたガチョウを給仕したため、財産を半分没収されたという。これに関して、ドミトリーの曾孫ニコライ・ボリソヴィチ公 (ロシア語版 ) は、エカチェリーナ2世 の客人として冬宮殿 に招かれた際、ガチョウの切り分け方を知っているかどうか尋ねられ、「私たちの財産の半分を失わせた鳥について、どうして何も知らないでいられましょうか。」と答えたという[ 8] [ 7] 。
ドミトリーの息子であるグレゴリー・ドミトリエヴィチ公 (ロシア語版 ) は、ピョートル大帝 の最も私的な顧問の一人であり、艦隊の再建や戦争だけでなく政治改革にも積極的に参加した[ 7] 。
ボリス・グリゴリエヴィチ公 (ロシア語版 ) は、20歳の時にフランスに派遣され、海軍について研究し、皇帝の新しい顧問となった。女帝アンナ の治世中には、モスクワ総督に任命され、女帝エリザヴェータ の治世中には、帝国学校の校長を務めた。また、ラドガ湖 とドン川 、オカ川 の間に河川航行システムを作り上げた[ 9] 。
ニコライ・ボリソヴィチ公 (ロシア語版 ) は、エカチェリーナ2世やパーヴェル1世 、アレクサンドル1世 、ニコライ1世 の友人であり、顧問であった。1798年には、マルタ騎士団 の最高司令官に任命された。また、ニコライ公は、ロシア国外で多くの時間を過ごしていたこともあり、多くの著名な人物と交流を深めた。その中でも著名なのに、ルイ16世 やマリー・アントワネット 、プロイセン王フリードリヒ2世 、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世 がいる[ 10] [ 注釈 5] 。
19世紀以降
ニコライ・ボリソヴィチ公 (ロシア語版 ) は、露土戦争 の際、軍に病院列車を提供するなど、慈善活動や福祉活動に関心を持っていた。しかし、慈善活動には惜しみなく資金を援助するのに対し、日常生活における出費には厳しく、けちで節約家であったという[ 11] [ 注釈 6] 。
父フェリックス、下段左からニコライ、ジナイダ、フェリックス
ニコライ公の長女で、ユスポフ家の女性相続人となったジナイダ・ユスポヴァ 公女は、1882年にフェリックス・スマローコフ=エルストン伯爵と結婚した。[ 12]
ジナイダは、1903年 に開催された舞踏会でニコライ2世 からロシアの国民的舞踏を演じるよう頼まれたところ、即興で踊り、5回のカーテンコールを受けるなどダンスの才に恵まれていた。また、スペイン王女エウラリア は、ロシアを訪れた際、ジナイダが開いたレセプションに参加し、感銘を受けたという[ 13] 。
1917年 、 宮廷歯科医Kastritzkyによって、ニコライ2世からジナイダに向けて、「ユスポフ公女に会ったら、彼女がいかに正しかったか、今になって気づいたと伝えてほしい。私が彼女の言うことを聞いていたら、多くの悲劇的な出来事を防ぐことができたかもしれない。」という最後の言葉を伝えられたという[ 13] 。
左からフェリックス、イリナ、娘イリナ
1914年 、フェリックス・ユスポフ はニコライ2世の姪イリナ・アレクサンドロヴナ 公女と結婚した[ 12] 。結婚式はアニチコフ宮殿で行われ、イリナはマリー・アントワネット のヴェールとカルティエ のティアラを身につけた。ロシア革命が勃発すると、ユスポフ夫妻は、イギリス国王ジョージ5世 が派遣した戦艦マールバラ に他の皇族と共に乗船した。戦艦は1919年4月11日にセヴァストポリ からコンスタンティノープルに向けて出発し、夫妻はフランスに亡命した[ 14] 。
ユスポフ家の他に、同じエディゲを祖とするウルソフ家 (ロシア語版 ) (イスマイルの子ウルスが始祖)とバイテレコフ家 (ロシア語版 ) (イスマイルの子バイテレクが始祖)が存在する[ 15] 。うちウルソフ家は現在も存続している。
ユスポフ家のコレクション
1925年、モイカ宮殿 の秘密金庫でユスポフ家が所有していた宝飾品の多くが発見され、国家銀行とクレムリン武器庫博物館 (英語版 ) に分配され、一部の宝飾品は売却された。秘密金庫には、1t以上の銀と13kgの金、古いカップやゴブレット、200個の銀のショットグラス、3つの銀の白鳥、255個のブローチ、42個のブレスレット、12個のティアラなど、合計210kgの宝飾品が革命時にフェリックス・ユスポフ 公によって隠されていたという[ 16] 。
ラ・ペレグリナ・パールを身につけたジナイダの肖像画
宝飾品の中でも著名なものに、「ラ・ペレグリナ・パール」、「ポーラー・スター」、マリー・アントワネット のダイヤモンドのイヤリング、イリナ公女のウェディング・ティアラ(カルティエ 製)、「サンライズ・ティアラ」(ショーメ 製)がある。[ 16] [ 17] 。
宝飾品以外にも多くの美術品やルイ16世 とマリー・アントワネットから贈られたセーブルの食器セット、ナポレオン1世 から贈られたセーブルの花瓶とメレアグロス の狩りを描いたタペストリーなどを所有していた。また、ニコライ・ボリソヴィチ公が所有していたものにアマティ やストラディバリウス のヴァイオリンがあったという[ 18] 。
主な人物
系譜
エディゲ
ヌラディン
ワッカス
ムサ・ビー
ユスフ=ムルザ (?-1555) ママイ アルシャギル イスマイル
イル=ムルザ (?-1611) サファ=ギレイ(1510-1549)
スユンビケ
ジャン=アリ オラク(?-1550) ウルス=ビー バイテレク ディンバイ=ムルザ
セユシュ=ムルザ・ユスポフ=クニャージェヴォ ウチャミシュ=ギレイ(?‐1566) カラサイ カズ ウルソフ家 バイテレコフ家 カナイ
アブドゥル=ムルザ
エカテリーナ・スマローコヴァ
マトヴェイ グリゴリー (1676-1730)
アンナ・アキンフォヴァ イヴァン
ボリス (1695-1759)
イリナ・ジノヴィエヴァ グリゴリー(?-1737)
エウドキア・シャホフスカヤ セルゲイ(?-1734) プラスコヴィヤ(?-1762) マリア(?-1738)
ニコライ (1751-1831)
タチアナ・エンゲルハート(1767-1841)
M.S.ポチョムキン(1744-1791) アレクサンドラ(1744-1791) エリザヴェータ(1745-1770) アンナ(1749-1772) エウドキア(1747-1780)
プラスコヴィヤ・シェルバトワ(1795-1820)
ボリス (1794-1849)
ジナイダ・ナルイシキナ(1810-1893) エカテリーナ・リボピエール(1788-1872)
ニコライ (1827-1891)
タチアナ・リボピエール(1828-1879)
フェリックス(1856-1928)
ジナイダ (1861-1939) ボリス(1863) タチアナ(1866-1888)
ニコライ(1883-1908) フェリックス (1887-1967)
ロシア公女 イリナ・アレクサンドロヴナ (1895-1970)
イリナ (1915-1983)
ニコライ・シュレメーテフ(1904-1979)
イリヤ・スフィリ
クセニア・シュレメーテヴァ
アンソニー・ヴァンヴァキディス
タチアナ・スフィリ
アレクシス・ギアンナコプーロス
マリリア・ヴァンヴァキディス ヤスミナ・ヴァンヴァキディス
ユスポフ家の宮殿と邸宅
現在、モイカ宮殿は博物館となっており、宮殿では国際会議や外交上の会談も行われているという。モイカ宮殿のガイドのアリョーナ・ペルミャコワ氏は、展示品のほとんどの配置やインテリアがそのまま、つまり所有者が亡命する前の状態であると語っている。[ 29] また、ラキトノエ宮殿も同様に郷土伝承博物館として利用されている。[ 30]
フェリックス・ユスポフ 公によれば、アルハンゲリスコエ宮殿には、35000冊の蔵書が所蔵されている図書館があり、うち500冊はエリゼヴィール (英語版 ) のもので、蔵書の中には、1462年の聖書もあったと回顧録の中で述べている。[ 31]
ケリオレ城は 1893年にジナイダ・ナルイシキナ (ロシア語版 ) によって市に寄贈されたが、1956年にフェリックス・ユスポフが裁判で勝訴したことで、再び城の所有者となった。現在は一般公開されている。[ 32]
ギャラリー
脚注
注釈
^ 預言者ムハンマドの甥アリの子孫であったという。
^ カラカルパク版の「エディゲ」では、エディゲの父はババ=トゥクリ=アジズで、エディゲにはアクビレクという妻がいたとされている。
^ バシュコルト版の「ママイ・ハンの物語」とノガイ版の「ミルザ・ママイ」において、ムサ・ビー(又はムサ・ハン)には、2人の妻と12人の息子がいたとされている。ノガイ版では、第一夫人の子は上から、サク・ママイ、サギム、アリ、コスム、ドスム、イスマイル、ユスフの7人で、第二夫人の子は上から、アルシャギル、シダク、ジャンマンベト、ヤブガシュト、ママイの5人がいたと記載されている。
^ バシュコルト版ではオラクはママイの同士(yuldash)とされており、オラクはママイの甥であることは確かであるとされている。
^ 他にヴォルテール やディドロ 、ダランベール 、ボーマルシェ とも友人であった。
^ 実際にニコライ公は主催した晩餐会で金銀の皿を並べながらも、偽物の果物を混ぜるなどの節約をしていた。
^ 8人の息子と1人の娘がいた。また、イヴァン雷帝 とは20年来の友人であった。
^ Суюмбекaの日本語読みに関しては、スユンビケ又はシュユンベキの2つがある。
^ グリゴリー・ポチョムキン の姪でエカチェリーナ2世 の侍女。1人目の夫は遠縁のミハイル・セルゲエヴィチ・ポチョムキン。
^ 正教会において、従兄妹同士の結婚は禁止されていた。ニコライの父とタチアナの母は異父姉弟であるため、ニコライとタチアナは従兄妹である。
^ セルゲイ大公とパーヴェル 大公などユスポフ家と居住が近かったロマノフ家の人々は、しばしばユスポフ家を訪れていたという。
^ タチアナの死因については断定されておらず、急性疾患、もしくは腸チフスによるものとされている。父ニコライ・ボリソヴィチ・ユスポフ公はタチアナの死の詳細を隠すことを望んだと言われている。
出典
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^ a b c Yusupov(1954年)p.4
^ “中央ユーラシアの叙事詩に謡われる「ノガイ」について ”. スラブ・ユーラシア研究センター. 2024年7月19日 閲覧。
^ “モンゴル・タタールの4人の王女:ロシアで暮らしロシアに死す ”. ロシア・ビヨンド. 2024年8月6日 閲覧。
^ Yusupov(1954年)p.5
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^ a b c d e f Yusupov(1954年)p.6
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^ Yusupov(1954年)pp.6‐7
^ a b Yusupov(1954年)pp.8‐9
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^ a b c d e “Онлайн-выставка «Каплюша, Зайде, княжна Зинаида...» ”. Музей-заповедник «Архангельское. 2024年7月22日 閲覧。
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^ a b “Русские ювелирные коллекции: семья Юсуповых ”. chk-jewelry.ru. 2024年7月9日 閲覧。
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^ 坂井(2008年)
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^ “ロシアにも「ピサの斜塔」があった! ”. ロシア・ビヨンド. 2024年7月23日 閲覧。
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^ a b “Юсуповы ”. yusupov.org. 2024年8月8日 閲覧。
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^ Yusupov(1954年)p.23
^ “Княжна Татьяна Николаевна Юсупова ”. Юсуповский дворец на мойке. 2024年7月22日 閲覧。
^ “Ракурс Татьяна Сабурова, Николай Феликсович Юсупов ”. yusupov.org. 2024年7月23日 閲覧。
^ “ペテルブルクのユスポフ宮殿:「怪僧」ラスプーチンが殺された場所(写真特集) ”. ロシア・ビヨンド. 2024年7月9日 閲覧。
^ “Усадьба Юсуповых. Адрес — Белгородская обл., Ракитянский р-н, п. Ракитное, ул. Пролетарская, 2 ” (ロシア語). Культурный регион. 2024年7月10日 閲覧。
^ Yusupov(1954年)p.16
^ “Kériolet. Le château d'une fantasque Russe ” (フランス語). Le Télégramme. 2024年7月9日 閲覧。
参考文献
外部リンク
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