初代コノート=ストラサーン公爵 アーサー 王子(英語 : Prince Arthur, 1st Duke of Connaught and Strathearn 、全名:アーサー・ウィリアム・パトリック・アルバート (英語 : Arthur William Patrick Albert ))、1850年 5月1日 - 1942年 1月16日 )は、イギリス の王族 。
ヴィクトリア女王 の第3王子であり、主に陸軍 軍人として活躍した。最終階級は陸軍元帥 。1911年から1916年にかけてはカナダ総督 を務めた。
経歴
ヴィクトリア女王に抱かれる1歳のアーサー王子。初代ウェリントン公爵 アーサー・ウェルズリー が誕生日の贈り物を捧げている。(フランツ・ヴィンターハルター 画)
生誕
1850年 5月1日 、女王ヴィクトリア と王配 アルバート の三男(第7子)としてバッキンガム宮殿 に生まれた。その日誕生日を迎えていた初代ウェリントン公爵 アーサー・ウェルズリー が代父 に立てられ、その名前をとって「アーサー」と名付けられた。
後に国王エドワード7世となるプリンス・オブ・ウェールズ のアルバート・エドワード と、後にザクセン=コーブルク=ゴータ公 となるエディンバラ公 アルフレッド は兄である。
陸軍に入隊
ウーリッジ の王立陸軍士官学校 で学び、1868年 6月に王立工兵連隊 (英語版 ) に少尉として任官した。その後王立砲兵連隊 (英語版 ) 、ついで王配所有ライフル旅団 (英語版 ) に転任した。この旅団所属中の1870年に初めてカナダに勤務した。1871年5月に大尉に昇進。
同年に枢密顧問官 (PC)に列する[ 4] 。1874年 5月24日 にコノート=ストラサーン公爵 とサセックス伯爵 に叙せられた[ 4] 。
1874年4月に第7女王所有軽騎兵連隊 (英語版 ) に転属し、1875年 8月に少佐に昇進する。1876年に王配所有ライフル旅団に戻るとともに中佐に昇進し、1880年 まで第一大隊を指揮した。
1878年 には姉ヴィクトリア (ヴィッキー)とプロイセン 王子フリードリヒ(のちのドイツ皇帝フリードリヒ3世 )の結婚式に出席するため、ベルリン を訪問し、そこでプロイセン王族(フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 の曾孫)のルイーゼ・マルガレーテ と恋におちて婚約し、1879年3月にウィンザー城 のセント・ジョージ・チャペル (英語版 ) で挙式した。
1880年5月には大佐に昇進し、王配所有ライフル旅団の名誉連隊長となった。
エジプトに出征
1882年にエジプトに出征した際のコノート公(カール・ルドルフ・ゾーン 画)
1882年には反英運動オラービー革命 を鎮圧すべくエジプト に出征した。もともとは皇太子アルバート・エドワードが出征を希望していたが、皇太子の身の安全を考慮して、代わりに弟のコノート公が王族を代表して出征することになった。
1882年 9月13日 のテル・エル・ケビールの戦い (英語版 ) では近衛旅団を率いて戦功をあげた。この戦いにエジプト軍が惨敗した結果、カイロは英軍に占領され、以降エジプトは実質的にイギリスの統治下に置かれた。
コノート公の活躍を聞いた母ヴィクトリア女王は、出征軍総司令官サー・ガーネット・ヴォルズリー (英語版 ) (後のウォルズリー子爵 (英語版 ) )にあてた手紙の中で息子が「彼の愛する父(王配アルバート)にも偉大な代父(ウェリントン公爵)にも劣らぬ功績をあげた」ことに喜びを表明した。また1882年11月に女王はロンドンに凱旋した出征軍を閲兵したが、長女ヴィッキーにあてた手紙の中でその時の心情を次のように書いている。「可愛いアーサーが、自分が率いて共に戦った勇士たちの先頭に立ち、最愛のパパと瓜二つの身のこなしで目の前を通過して行ったときには嬉しくて胸の鼓動が一段と高鳴る思いだった」。
1893年、ヴィクトリア女王の王子3人。左から皇太子アルバート・エドワード (エドワード7世)、コノート公、エジンバラ公 アルフレッド
陸軍将官として
1883年 3月には少将に昇進した。1883年にはスコッツガーズ の名誉連隊長に就任。1886年から1890年にかけてはボンベイ陸軍 (英語版 ) の最高司令官 (C-in-C) を務めた。1889年4月に中将に昇進した。1893年 4月に大将に昇進するとともにアルダーショット司令部 (英語版 ) 最高司令官(GOC-in-C)に就任。
母ヴィクトリアは、コノート公をイギリス陸軍最高司令官 (英語版 ) にすることを夢見ており、1895年にケンブリッジ公 ジョージ が同職を退任した際、コノート公をその後任にしようとしたが、ウォルズリーの反対で阻止され、ウォルズリーがその地位を得た。1900年にウォルズリーが退任した際にも女王はコノート公をその後任にすることを策動したが、首相第3代ソールズベリー侯爵 ロバート・ガスコイン=セシル が初代ロバーツ男爵フレデリック・ロバーツ (英語版 ) を強く押したため失敗に終わった。
1900年に勃発した第2次ボーア戦争 には従軍せず、代わりにアイルランド最高司令官 (英語版 ) に就任した。
1901年1月に母が崩御し、兄アルバート・エドワードがエドワード7世として即位した。即位に際してエドワード7世は、フリーメイソンのイングランド・連合グランドロッジ のグランドマスターの地位を辞し、代わってコノート公がその地位に就いた[ 10] 。
1902年 6月には元帥に昇進。甥にあたるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 からもプロイセン軍元帥位を与えられた。
1904年 には陸軍監査長官(Inspector-General of the Forces)に就任。1907年には新設された地中海最高司令官(C-in-C mediterranean)に就任したが、1909年に辞した。
カナダ総督として
1913年のカナダ総督コノート公
1911年 にカナダ総督 に就任した。1914年に第一次世界大戦 が勃発すると、ドミニオン からできる限り戦争協力を引き出そうとしたが、そのことで軍事・防衛大臣 (英語版 ) サム・ヒュージェス (英語版 ) と対立を深めた。
1916年 に任務を終えてイギリスへ帰国した。
晩年と薨去
カナダ総督退任後は実質的な引退生活に入り、公務から離れるようになった。
1942年 1月16日 にサリー の地所バグショット・パーク (英語版 ) で薨去した。フロッグモア王室墓地 (英語版 ) に葬られた。爵位は孫のアラステア が継承したが、彼はわずか1年後の1943年 4月に子供なく薨去し、そこで爵位は絶えた[ 12] 。
来日
ガーター勲章をコノート公より伝達される明治天皇 (1906年)。この時コノート公は誤ってピンで自分の指を傷付け出血したが、何事もなかったように式を続け、天皇も気付かない振りをした。天皇は式が終わった後、コノート公の落ち着きを称えた[ 13] 。
コノートは1890年 (明治 23年)、1906年 (明治39年)、1912年 (大正 元年)、1918年 (大正7年)の4回、日本を訪問している。なお日本では『コンノート殿下 』と呼ばれた[ 14] 。
1890年の来日では上村松園 の「四季美人図」を買い上げて話題となった。1906年の来日は明治天皇 にガーター勲章 を奉呈するために、エドワード7世 の名代となったもので、英国王室の日本公式訪問としては最初のものであった。2月19日から3月16日まで滞在し、日本各地を訪問している。このときの首席随員は、明治維新期に英国公使館に勤務したリーズデイル卿 であった[ 15] 。
1912年の来日は明治天皇 の大喪儀 に参列するため、1918年の来日は大正天皇 への元帥杖 授与のためのものであった。
『文身百姿』には、1906年の来日時に、「是非日本で文身を✕✕✕✕[ 16] 」とのご希望から、初代彫宇之が日光中禅寺湖のホテルへ召出され、畏くも殿下の✕✕[ 16] へ不動明王を✕✕[ 16] 奉った。この話の一部は既に世間にも流れている噂であった、とある[ 17] 。
栄典
爵位
勲章
外国勲章
名誉職
家族
妻のルイーゼ・マルガレーテ・フォン・プロイセン
1893年のコノート公爵一家。
1879年、アーサーはプロイセン 王族(フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 の曾孫)のルイーゼ・マルガレーテ と結婚した。
長男アーサー は、伯父エドワード7世の孫娘で第2代ファイフ公爵(夫人)のアレクサンドラ と結婚。一子アラステア が祖父の跡を継いでコノート公となったが、子供を得ないまま死去し、コノート公家は断絶した。
脚注
参考文献
ウィキメディア・コモンズには、
アーサー (コノート公) に関連する
メディア および
カテゴリ があります。