松平 頼徳(まつだいら よりのり)は、江戸時代後期の大名。常陸国宍戸藩9代藩主。官位は従五位下・大炊頭。贈従三位。水戸市回天神社祭神。神名は宍戸支藩松平大炊頭賴徳命(回天神社)。
天保2年4月3日(1831年5月14日)、常陸水戸藩一門家老格松平頼位の長男として誕生する。母は松平絲(養父は頼位の養父でもある松平頼善、実父は頼善の祖父・松平保福[1])。幼名は豊太郎。天保10年(1839年)、父の頼位は生家の家督を継ぎ、宍戸藩8代藩主となった。
弘化元年(1844年)、正室を迎える。正室の父は松平頼顕(松平頼儀の三男)、義父は讃岐国高松藩10代藩主・松平頼胤。継室は小出充御(小出英発の娘)。側室に三田氏の娘。
弘化3年9月21日(1846年11月9日)、父の隠居により跡を継ぎ、同年12月、従五位下大炊頭を賜わる。父と共に本家水戸藩の徳川慶篤の補佐を務める。
元治元年8月4日(1864年9月4日)、幕府の命により水戸藩主の名代として水戸表の騒乱の平定に出発する。しかし、水戸城の入城に失敗した上、頼徳にも天狗党に同情的な部分があったため、不本意ながら市川三左衛門らの諸生党と那珂湊ほかで交戦してしまい、幕府追討軍総括田沼意尊より責任を追及される。頼徳は田沼にその経緯の実情を訴え嘆願しようとしたが、その機会は与えられず、「賊魁」という汚名を着せられた。同年10月5日(旧暦11月4日)に頼徳は水戸藩の支族・松平頼遵(万次郎)[2]邸にて切腹させられた。享年34。家臣の多くも処刑され、父の頼位もこれに連座、官位を剥奪され、出羽国新庄藩預りの身となった。宍戸藩は改易され、江戸藩邸も幕府没収となった。頼徳の墓所は茨城県常陸太田市の瑞龍山。辞世の句「思ひきや野田の案山子の竹の弓 引きも放たで朽ち果てんとは」
慶応4年(1868年)2月、新政府より宍戸藩の復旧を命ぜられ、父・頼位が再相続する。その後、明治13年(1880年)7月、家督を父・頼位から譲られた弟・頼安は明治17年(1884年)7月8日、子爵に叙された。
分家・支流
1645年から1682年まで幕府直轄・水戸藩領
1864年から1868年まで幕府直轄