松平 頼胤(まつだいら よりたね) は、江戸時代後期の大名。讃岐高松藩10代藩主。官位は正四位・左近衛権中将、宮内大輔、讃岐守、玄蕃頭。字は舜民。
8代藩主・松平頼儀の次男として誕生した。母は藤木氏。幼名を雄丸、通称は都太郎、貞五郎。
文政元年(1818年)、松平頼恕の養嗣子となる。天保13年(1842年)、先代・頼恕の死去により家督を継ぐ。弘化元年(1844年)、幕命により若年の水戸藩主徳川慶篤の藩政を補佐した。安政4年(1857年)から翌年の将軍継嗣問題・日米修好通商条約の勅許問題においては、大老・井伊直弼につき、本藩である水戸藩を圧迫している。その後、桜田門外の変による井伊直弼暗殺もあり、文久元年(1861年)7月、蟄居を命じられたため、頼恕の四男で自身の養子の頼聰に家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)、東京に移る。明治10年(1877年)没、68歳。法諱は善得。
分家・支流