松平 頼順(まつだいら よりゆき)は、江戸時代中期の水戸徳川家御連枝。
水戸藩4代藩主・徳川宗堯の庶長子として誕生。母は岡島弥兵衛の娘礼武。幼名を軽麻呂、主税。はじめ翰鄰(もとちか、「翰」は実弟で第5代藩主となった徳川宗翰の偏諱と思われる)と称した。
宗堯の長男として生まれるも、庶子のため家督は継がず、藩内で2万石を得て分家した。長男の鐵吉が宝暦13年(1763年)に2歳で死去するなど男子に恵まれず、甥の頼図(よりのり、宗翰の子)を婿養子(娘・元の夫)として迎えた。頼順は安永3年(1774年)7月6日に没し(享年48)、頼図が跡を継ぐこととなるが、頼図も安永5年(1776年)に22歳(満21歳)で早世したため、結局駒込松平家は2代で断絶した。
松下烏石に教えられた書法を、水戸藩の立原翠軒に伝える。
分家・支流