松平 頼貞(まつだいら よりさだ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。常陸国額田藩2代藩主、のち陸奥国守山藩初代藩主。官位は従四位下・侍従、大学頭、左近衛少将。水戸徳川家初代の徳川頼房の孫。
寛文4年(1664年)1月25日、松平頼元の長男として誕生。母は小倉藩主小笠原忠真の娘嘉禰。元禄6年(1693年)、父の死去により家督を継ぐ。
元禄13年(1700年)9月25日、額田から陸奥守山に移封された。元文4年(1739年)、尾張藩主・徳川宗春に対して蟄居を伝える使者を務めた。寛保3年(1743年)10月28日、家督を三男・頼寛に譲って隠居する。翌延享元年(1744年)8月3日に死去した。享年81。
頼貞は多くの男子をもうけており、元文から寛保の間に五男頼恭が高松松平家を、七男頼済が石岡松平家を継いでいる。以後、文化年間(19世紀初め)以降に本家の水戸藩主徳川治紀・斉昭の息子たちが養子入りするまで、水戸家の連枝4家のうち宍戸松平家を除く3家を頼貞の血筋が占めた。他にも五男の定賢が親藩久松松平家を継いでいる。