松平頼啓

 
松平 頼啓
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 天明4年12月23日1785年2月2日
死没 嘉永元年7月9日1848年8月7日
改名 友三郎(幼名)、頼啓
戒名 秀徳院殿慈善法潤日実大居士
墓所 東京都大田区池上本門寺
官位 従四位下侍従左近衛権少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
伊予西条藩
氏族 紀州徳川家支流西条松平家
父母 松平頼謙、永石氏
松平頼看
兄弟 頼看本多忠顕頼啓、鑑、於津、錫、
内藤政偏正室
大久保忠顕娘美寿、大熊氏
頼学、龐姫
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松平 頼啓(まつだいら よりゆき)は、江戸時代中期から後期にかけての大名伊予西条藩8代藩主。官位従四位下侍従左近衛権少将

略歴

6代藩主・松平頼謙の三男として誕生。母は永石氏。幼名は友三郎。

寛政9年(1797年)、同母兄で先代藩主の頼看が早世したため、その養嗣子として跡を継いだ。寛政11年(1799年)に叙任する。藩政においては文化2年(1805年)に近藤篤山の弟・三品容斎を登用して藩校・択善堂を創設するなど文治政策に尽くした。また、多喜浜新田の開発なども行なっている。伊能忠敬の測量にも積極的に協力した。

天保3年(1832年11月25日、家督を長男・頼学に譲って隠居し、嘉永元年(1848年)7月9日、65歳で死去した。法号は秀徳院殿慈善法潤日実大居士。墓所は東京都大田区池上本門寺

系譜

関連項目

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