松平 頼啓(まつだいら よりゆき)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。伊予西条藩8代藩主。官位は従四位下・侍従、左近衛権少将。
略歴
6代藩主・松平頼謙の三男として誕生。母は永石氏。幼名は友三郎。
寛政9年(1797年)、同母兄で先代藩主の頼看が早世したため、その養嗣子として跡を継いだ。寛政11年(1799年)に叙任する。藩政においては文化2年(1805年)に近藤篤山の弟・三品容斎を登用して藩校・択善堂を創設するなど文治政策に尽くした。また、多喜浜新田の開発なども行なっている。伊能忠敬の測量にも積極的に協力した。
天保3年(1832年)閏11月25日、家督を長男・頼学に譲って隠居し、嘉永元年(1848年)7月9日、65歳で死去した。法号は秀徳院殿慈善法潤日実大居士。墓所は東京都大田区の池上本門寺。
系譜
- 父:松平頼謙(1755-1806)
- 母:永石氏
- 養父:松平頼看(1774-1797)
- 正室:美寿 - 大久保忠顕娘
- 側室:大熊氏
- 生母不明の子女
関連項目
松平家 西条藩8代藩主 (1797年 - 1832年) |
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一柳家 | |
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西条松平家 | |
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