赤司 鷹一郎(あかし たかいちろう、1876年(明治9年)5月10日 - 1933年(昭和8年)11月7日[1])は、文部官僚、教育者。錦鶏間祗候。
経歴
福島県令・検事の赤司欽一の長男として東京に生まれる。東京府立一中[要出典]、旧制第一高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、内務省に勤めた。翌年、文部省に移り参事官に任ぜられた。1902年(明治35年)から2年間、教育制度と行政法の研究のため欧米留学を命じられた。1911年(明治44年)、維新史料編纂会事務局長に就任した。1916年(大正5年)に普通学務局長に昇進し、1922年(大正11年)からは文部次官を務めた。その間、臨時教育行政調査会や教育評議会の委員となった。
1924年(大正13年)に退官した後も多くの委員会委員に選ばれた。また、文部省在官中から職業教育に力を注ぎ、1928年(昭和3年)には日本職業指導協会を設立して理事長に就いた。1932年(昭和7年)9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[2]。
その他に保善商工教育財団の評議員・理事を務め、1933年には同財団の運営する東京植民貿易語学校・東京保善商業学校・東京保善工業学校の校長に就任した。
栄典
著作
- 「普通教育近時の傾向 : 小学校、中学校、高等女学校」(国民教育奨励会編纂 『教育五十年史』 民友社、1922年10月 / 国書刊行会〈明治教育古典叢書〉、1981年4月 / 日本図書センター、1982年1月)
- 著書
脚注
- ^ 『官報』第2060号、昭和8年11月11日
- ^ 『官報』第1725号、昭和7年9月28日。
- ^ 『官報』第124号「叙任及辞令」1912年12月27日。
- ^ 『官報』第1201号「叙任及辞令」1916年8月1日
- ^ 『官報』第1251号「叙任及辞令」1916年9月30日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
参考文献
関連文献
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