ロードレース世界選手権の沿革
ロードレース世界選手権の沿革 (ロードレースせかいせんしゅけんのえんかく)では、ロードレース世界選手権(WGP/MotoGP)の沿革などについて書き記す。
沿革
ロードレース世界選手権開幕 (1949年)
1904年 - FIMの前身FICMが発足
FIM の前身組織であるFICM が1904年に発足する[ 1] 。
1912年 - FICMが再発足
FICM が1912年に再発足する[ 1] 。
1948年 - FICMがロードレース世界選手権開催を議決
FICM がヨーロッパ各国で行われていたロードレースを世界選手権化することを議決し、1949年 からロードレース世界選手権 開催が決定する[ 2] 。
1949年 - ロードレース世界選手権開幕
FIM が発足し[ 3] 、ロードレース世界選手権 (WGP)が開幕する。今シーズンのWGP開催国は次の6ヶ国である。イギリスGP/マン島TT (マウンテン・コース )、スイスGP(ブレガルテン )、オランダGP/ダッチTT (アッセン )、ベルギーGP(スパ・フランコルシャン )、アルスターGP (アルスター 、ダンドロッド )、イタリアGP(モンツァ )[ 4] 。レースはエンジン排気量別に次の4クラスに分けて行われる -- 500cc 、350cc 、250cc 、125cc 。主なレギュレーション [ 5] は、自然吸気エンジン とし、過給機 の使用は禁止される[ 2] 。第二次世界大戦 前のロードレースではメーカー間の高速化競争が激しく、そのような事態が再び起こることを抑制するために過給機を禁止した[ 6] 。また、マシンにはネイキッド・バイク もあるが、AJSのようにステアリングヘッド のトップブリッジ に小さなスクリーンを装備したマシンもある[ 7] 。このような小さなスクリーンは1937年 のノートン で既に使用されている[ 8] 。
1950年 -
1951年 -
1952年 -
1953年 - BMWがロードレース世界選手権に復帰
BMW がWGP に復帰するが、そのバイクはフルカウル を装備していた[ 9] 。
1954年 - ノートンが撤退を発表、本田宗一郎がマン島TTレースを視察
ノートン が今シーズンを最後にワークス活動を停止し、また、フルカウル(ストリームライニング) に反対する声明を発表する[ 10] 。今シーズンは、各メーカーはマシンにフルカウル やハーフカウル を装備するようになる[ 11] 。
本田宗一郎 が3月にマン島TTレース (イギリスGP)出場宣言し、6月にマン島TTレースを視察する[ 12] 。
1955年 -
1956年 - ジョン・サーティース 500ccクラス世界チャンピオン、鈴木俊三 ヨーロッパ視察
ジョン・サーティース (1964年 )ジョン・サーティース (MVアグスタ )が500ccクラスの世界チャンピオンになる。サーティースにとって初めての500ccクラスタイトルの獲得である。その後もMVアグスタを駆り、1958年 から1960年 の3シーズンを連覇し、500ccクラスで4度世界チャンピオンになり、そして1964年 には4輪のF1 世界選手権でもフェラーリ を駆って世界チャンピオンになる[ 13] 。
スズキ の鈴木俊三 専務(後の2代目社長)がバイク業界の視察団長としてヨーロッパを視察する[ 14] 。
1957年 - 主要メーカーが撤退を発表
今シーズンを最後に、モト・グッツィ 、ジレラ 、AJS 、ベロセット 、マチレス などがワークス活動を停止した[ 15] 。
1958年 - フルカウル禁止、500ccクラス MVアグスタの17連覇開始、ホンダの荒川テストコース完成
今シーズンからカウリング形状としてフルカウル が禁止となり、ハーフカウル(ドルフィン型) のみが承認されることになり、各チームはハーフカウルを採用する。フルカウルは、ストリームライニング(Streamlining)と呼ばれる前輪から後輪まで覆う形状をしており、空気抵抗は少なく、直線ではスピードが伸びるが、当時のブレーキの性能は、トップスピードからのフルブレーキングに耐える耐久性と制動力は十分なものではなく、そのためブレーキメーカーはブレーキライニングの材質の選定に緻密な計算を要した。ライダーも貧弱なブレーキ性能を補うためのライディングを編み出してマシンを走らせた。しかし、フルカウルは横風に弱く危険であり、また、当時のタコメーター の表示にはタイムラグがあったために実際のエンジン回転数とタコメーター表示が一致しておらず、その上風圧も受けないためにライダーのスピード感覚が鈍ってしまい、常識では考えられない事故が多発するようになった。このため、FIM はフルカウルを禁止することにした[ 16] 。ハーフカウルは、前輪は覆わず、ハンドル やステアリングヘッド 、エンジン 、クランクケース などを覆う。現在のGPマシンのカウリングがハーフカウルである[ 17] 。今シーズンからハーフカウルとなったため、平均速度は昨シーズンのフルカウル時代よりも落ちたが、その差は1km/hに満たなかった[ 18] 。初期には最高速度に挑戦するためのスピードブレーカー のようにマシンとライダーを覆ってしまう形状のカウリングも試作されたが、FIM がこの形状のカウリングの使用を禁止したため、レースでは使用されなかった[ 19] 。
500ccクラスでは、MVアグスタ (空冷 DOHC 直列4気筒 [ 20] )を駆るジョン・サーティース が2度目の世界チャンピオンになり[ 13] 、以後1974年 まで500ccクラスのライダー選手権はMVアグスタを駆るライダがーが制覇する[ 21] 。
ホンダ の荒川テストコース (舗装路)が完成した。これによって舗装路 でのマシン開発が可能になる[ 12] 。
日本メーカーの参戦 (1959年)
1959年 - ホンダがマン島TTレースに参戦
ホンダ が日本メーカーとして初めてロードレース世界選手権 に出場する。エントリーはイギリスGP(マン島TT )の125ccクラス で、RC141 が2台、RC142 が3台の合計5台。クリプス・コース を走り、RC141は1台が完走し、1台はリタイアする。RC142は3台完走してチーム優勝する[ 22] 。谷口尚巳 が6位、田中楨助 [ 23] が8位、鈴木淳三 が11位になる[ 24] 。
1960年 - ホンダが全11戦中6戦に参戦、スズキがマン島TTレースに参戦
ホンダ が今シーズンから全11戦中6戦に参戦する。RC161 で250ccクラスに、RC143 で125ccクラスに参戦する。参戦した6戦は次の6GP -- イギリスGP/マン島TT (マウンテン・コース )、オランダGP/ダッチTT (アッセン )、ベルギーGP(スパ・フランコルシャン )、西ドイツGP(ソリチュード [ 25] )、アルスターGP (アルスター 、ダンドロッド )、イタリアGP(モンツァ )[ 26] [ 27] 。昨シーズン(1959年 )のイギリスGP/マン島TTでは、250ccクラスと125ccクラスのレースはクリプス・コース を使用したが、今シーズンは使用するコースがマウンテン・コース に変更されたので、ホンダはコース攻略のために昨シーズンの経験を活かすことができなかった[ 28] 。しかし、ホンダのライダーは250ccクラスで3人が、125ccクラスで5人がトップ10に入った[ 29] 。また、今シーズンのランキングは、250ccクラス でジム・レッドマン が4位、トム・フィリス が6位、高橋国光 が7位となり、田中健二郎 は西ドイツGPにおいて日本人で初めて表彰台に上がる(3位)[ 30] 。125ccクラスではジム・レッドマン がランキング7位なる[ 27] 。
スズキ はイギリスGP/マン島TT のみにRT60 で125ccクラスに参戦する[ 31] 。スズキがマン島TTに参戦する逸話として、当時のスズキの社長鈴木俊三 が本田宗一郎 に次のように言われたことが切っ掛けになったと伝えられている。「スズキさんもTTに出たらどうかね?」(本田宗一郎)[ 32]
その頃のスズキは舗装された自前のテストコースを持っていなかったので、ホンダのテストコース(荒川テストコース)を借用してマシンの開発にあたった[ 31] 。ホンダはテストコースを貸すだけでなく、宿泊施設や昼食の手配をしたり、光電管スピード測定器やホンダ工場内の溶接器まで貸すなどして、スズキに便宜をはかった。また、マン島 までの輸送や税関手続き、タイヤなどの部品の善し悪しなどの助言も行った[ 33] 。この後、スズキは自前のテストコースを建設することになる[ 34] 。スズキはイギリスGP/マン島TT の125ccクラスで、15位、16位、18位になる[ 29] 。全車完走し、ブロンズレプリカ賞を獲得する[ 14] 。その後、スズキは2ストロークエンジン で250ccクラスに出場することを表明する[ 35] 。
1954年型ノートン・マンクス(ジェフ・デューク がノートン でWGP500ccクラス世界チャンピオンになったのは1951年 なので、写真のバイクはデュークのバイクではない。デュークは1954年 シーズンはジレラ を駆り、3回目のチャンピオンになった[ 36] ) 酒井文人 (バイク雑誌『モーターサイクリスト 』主宰者)は「日本のライダーを育てる何かをしてみたい」という考えから、引退しているジェフ・デューク を日本に招いた。デュークはノートン・マンクス (500cc単気筒)で華麗な走りを日本人に披露する。また、ホンダやヤマハ、スズキなどのメーカーを訪ずれて技術者やライダーたちと話したり、アマチュア・ライダーの集りであるクラブマンとも会合を持ち、ライディング技術など教授し、日本のロードレース幕開け期のライダーたちに大きな影響を与えた[ 37] 。
1961年 - MVアグスタがワークス活動を停止、ホンダとスズキが全戦参戦、ヤマハが第3戦から参戦、デグナーが亡命
1961年1月15日、MVアグスタ が今シーズンからワークス活動を停止すると発表した[ 38] 。ワークス活動停止理由については様々な憶測がなされていたが、その中には「ホンダの猛襲から逃げた」というものまであった[ 39] 。MVアグスタはワークス活動停止の理由として1シーズンに開催されるレースの回数の多さを挙げている。1シーズン6戦に戻すように主張していたにもかかわらず、FIM が今シーズンから10戦[ 40] に増やしたことを理由としている。当時の道路整備状況下でのトラック によるヨーロッパ各地への長距離移動を伴う転戦の大変さが背景にあると推察される。MVアグスタは、ワークス活動は停止するがプライベートライダーへの支援は続けることも表明している。また次のような言葉も残している。「私たちは2644回の優勝と36回のライダー選手権獲得、19回のメーカー選手権獲得を為し遂げた。この記録を打ち破るようなメーカーが現れたなら、その時は即座にワークス活動を再開する」(MVアグスタ)[ 41]
日本メーカーの動向は、今シーズンからホンダ とスズキ が250ccクラスと125ccクラスの全戦11戦に参戦する[ 42] 。そして、ヤマハ も1961年 に250ccクラスと125ccクラスに参戦することを発表し、第3戦フランスGP(クレルモン=フェラン )からロードレース世界選手権(WGP)の一員になる[ 43] 。今シーズンの結果は、250ccクラス では、ホンダRC162 を駆るマイク・ヘイルウッド が第4戦イギリスGP/マン島TT でホンダの250ccに初勝利をもたらし、世界チャンピオンになる。また、高橋国光 が第2戦西ドイツGP(ホッケンハイム )で優勝し、WGP で日本人が初めて優勝する。ホンダを駆る6人のライダーがランキング1位 - 5位、10位を占め、ヤマハを駆る伊藤史朗 が9位になる。ホンダの125ccマシン 2RC143 (1961年型) 125ccクラス では、ホンダを駆るトム・フィリス が第1戦スペインGP(モンジュイック )で優勝し、ホンダにWGP初勝利をもたらす。以後、トムはエルンスト・デグナー (MZ )と競り合い、2ポイント差で世界チャンピオンになる。ホンダを駆る6人のライダーがランキング1位、3位 - 6位、9位になる(6位のマイク・ヘイルウッドはEMC でも125ccクラスを走る)[ 44] 。ホンダは今シーズン、3種類のマシンを投入した。第1戦スペインGPではトム・フィリスは昨シーズン型(1960年 型)のRC143 を駆り優勝[ 45] 、第4戦イギリスGP/マン島TT ではマイク・ヘイルウッドが今シーズン型のRC144 を駆り優勝[ 46] 。しかし、RC144はエンジントラブルが多発したため、シーズン後半にRC143の後継機である2RC143 を投入する[ 47] 。2RC143はRC144よりも活躍した[ 48] 。ホンダが第4戦イギリスGP/マン島TTの250ccクラスと125ccクラスの両クラスで優勝したことについて、本田宗一郎 は次のように語っている。「私がオートバイを始めてから持ちつづけた《夢》、それは日本人の独創によってつくったマシンでレースに勝つことであった。(省略)。この勝利は本田技研の勝利でなく、日本の皆さんとともに喜んでいただくとともに、希望を与えたものだと深く感謝している」(本田宗一郎)[ 49]
今シーズンは、ホンダを駆るライダーが250ccクラスと125ccクラスで世界チャンピオンになり、ホンダに初めて世界タイトルをもたらす[ 44] 。マン島TTでの2クラス制覇はヨーロッパのバイク雑誌でも大きく取り上げられ、ホンダのエンジンは、「まるで時計のようだ」「独創的な設計、性能は極めて優秀」「ホンダはついに世界最高の製品にその名を連ねた」と評された[ 50] 。
また、第10戦スウェーデンGP終了後に衝撃的な事件が起きる。エルンスト・デグナー (東ドイツ )が西ドイツ に亡命 したのである。当時は東西冷戦 の真っ只中であり、この事件はWGP関係者を驚かせた。そして、亡命が明らかになった1ヶ月後には東京のホテルに滞在しており、翌シーズンはスズキのワークスライダーとしてWGPを走ることになる[ 51] 。
1962年 - 50ccクラス開始、ホンダが3クラスで選手権獲得、ヤマハ撤退
350ccクラス では、ジム・レッドマンが285ccエンジンを搭載するホンダRC170 を駆って世界チャンピオンとなり、ホンダに初めて350ccクラスの世界タイトルをもたらした。ランキング2位もRC170を駆るトミー・ロブ が獲得する[ 52] [ 44] 。250ccクラス では、ジム・レッドマン がホンダ を駆り、世界チャンピオンになる。ランキング1位、2位、4位 - 9位がホンダを駆るライダーであった。9位のアルベルト・パガニ は今シーズンはホンダのほかにアエルマッキ も走らせた[ 44] 。125ccクラス では、ルイジ・タベリ がホンダを駆り、世界チャンピオンになる。ランキング1位 - 4位、6位がホンダを駆るライダーであった。スズキは、ヒュー・アンダーソン がランキング7位になる[ 44] 。今シーズンから50ccクラスのレースが開始。50ccクラスは既にヨーロッパ選手権として行われていた[ 53] 。50ccクラス にはホンダ とスズキ が参戦し、エルンスト・デグナー がスズキRM62 を駆って世界チャンピオンになり、スズキに初めて世界タイトルをもたらす[ 54] 。今シーズンはホンダを駆るライダーが3クラス(350cc、250cc、125cc)で世界チャンピオンになり、またホンダはメーカー選手権を獲得する[ 12] 。
ヤマハ発動機 は今シーズンは参戦しなかった。昨シーズン(1961年 )の参戦で、MZ との性能の差を緊々と感じており、そのためにはマシンの開発により力を入れる必要があるのだが、ヤマハ発動機は大型スクーターSC1とモペットMF1の販売不振が影響して会社経営が苦境に立たされてそれどころではなく、そのため今シーズンの参戦を取り止めることにした。ただロードレース世界選手権(WGP)での戦績が販売に大きく影響することは心得ていたので、WGP用マシンの開発は今シーズンも続行した[ 55] 。
1963年 - 日本GP開催、ヤマハがワークス活動を再開
日本GPが開催された鈴鹿サーキット (コースは改修が何度か行われており、この図は1963年当時のコースとは多少異なる) 今シーズンは、日本で初めてロードレース世界選手権日本GP が昨年(1962年 )完成した[ 12] 鈴鹿サーキット で開催された。日本GPはシーズン最終戦に組み込まれ、以後、1967年 (富士スピードウェイ )まで開催されるが、500ccクラスは一度も開催されなかった[ 56] 。また、ヤマハ発動機 がWGP活動を再開し、250ccクラスと125ccクラスに参戦する[ 57] 。今シーズンは、ヒュー・アンダーソン がスズキRT63 を駆って125ccクラスの世界チャンピオンになり、スズキに初めて125ccクラスの世界タイトルをもたらす[ 58] [ 59] 。また、伊藤光夫 (スズキ)が第4戦イギリスGP/マン島TT 50ccクラスで優勝し、日本人初のマン島TT優勝ライダーになる[ 60] 。
1964年 - ヤマハ 250ccクラス選手権獲得、スズキ 50ccクラス3年連続選手権獲得
フィル・リード (2006年)250ccクラス で、フィル・リード がヤマハ を駆って世界チャンピオンになり、ヤマハ初の世界タイトルをもたらす。また、マイク・ダフ とトミー・ロブ もヤマハを駆って、それぞれランキング4位と9位になり、ヤマハ初のメーカー選手権を獲得する[ 59] [ 61] 。50ccクラス では、3年連続でスズキ を駆るライダーが世界チャンピオンに、スズキも3年連続でメーカーチャンピオンになる[ 14] 。
1965年 - ヤマハ 250ccクラス2年連続選手権獲得、スズキ 125ccクラス3年連続メーカー選手権獲得、カワサキが日本GPで125ccマシンをテスト
250ccクラス では、フィル・リード (ヤマハ)が世界チャンピオンに、マイク・ダフ (ヤマハ)がランキング2位になり、またヤマハは2年連続でメーカーチャンピオンになる[ 62] [ 61] 。今シーズン、ヤマハは3種類のマシンを投入する。改良型のRD56 ではホンダの猛追を振り切れないと判断したヤマハは、イタリアGP(モンツァ )で空冷 V型4気筒 エンジン搭載のRD05 を、日本GP(鈴鹿 )で水冷 V型4気筒エンジン搭載のRD05 をデビューさせるが、V4マシンの操縦性は良くなかった[ 63] [ 64] 。125ccクラス では、スズキが3年連続してメーカー選手権を獲得した[ 14] 。また、カワサキ が日本GP(鈴鹿サーキット )で、空冷 2気筒125ccマシンのテストを行った[ 65] 。
1966年 - ホンダ 500ccクラスのメーカー選手権シップ獲得、ホンダが日本GP(富士スピードウェイ)をボイコット
ジャコモ・アゴスチーニ (2003年) 500ccクラスにはホンダ (RC181 [ 66] )がマイク・ヘイルウッド とジム・レッドマン の2人体制で参戦する。500ccクラスでは 、ジャコモ・アゴスチーニ (MVアグスタ 500-TRIPLE[ 67] 、優勝3回)が世界チャンピオンに、マイク・ヘイルウッド(ホンダ、優勝3回)がランキング2位に、ジム・レッドマン(ホンダ、優勝2回)がランキング5位になる[ 62] 。また、ホンダはメーカーチャンピオンになる[ 66] 。
選手権のポイント制度 1950年 から1968年 までの期間に採用していたポイント制度では、各レースの上位6人のライダーにポイントが与えられ、1位 8ポイント、2位 6ポイント、3位 4ポイント、4位 3ポイント、5位 2ポイント、6位 1ポイント、である[ 68] 。
500ccクラスの選手権の有効ポイント 1958年 から1968年 までの期間に採用していたポイント制度では、1966年 の場合、500ccクラスは9戦あり、世界チャンピオンを争う上で有効ポイント として加算されるのは9戦のうち5戦で獲得したポイント である[ 68] 。
500ccクラスのライダー選手権 では、ジャコモ・アゴスチーニ (MVアグスタ )が獲得したポイントは第1戦から第9戦までの9戦で「6 - 6 - 8 - 0 - 6 - 8 - 6 - 6 - 8 」(総計54ポイント)となり、有効ポイント は36 。マイク・ヘイルウッド (ホンダ )は「0 - 0 - 0 - 0 - 8 - 6 - 8 - 8 - 0 」(総計30ポイント)となり、有効ポイント は30 。ジム・レッドマン (ホンダ)は「8 - 8 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 」(合計16ポイント)となり、有効ポイント は16 。よって、世界チャンピオンはアゴスチーニになる[ 62] 。
メーカーチャンピオンシップ は、レースにおいて同一メーカーのバイクに乗る1人あるいは複数のライダーのうち最も高いポイントを獲得したライダーのポイントをメーカーが獲得したポイントとして加算し、選手権を競う。今シーズンの500ccクラス の場合、MVアグスタ を駆るライダーはジャコモ・アゴスチーニ1人だったので、アゴスチーニの有効ポイントがそのままMVアグスタの有効ポイント となり36 である。一方、ホンダ はマイク・ヘイルウッドとジム・レッドマンの2人のライダーが参戦していたので、ホンダの獲得ポイントは「8 - 8 - 0 - 0 - 8 - 6 - 8 - 8 - 0」(第1戦と第2戦はレッドマン が、第5戦と第7戦、第8戦はヘイルウッド が獲得したポイント)となり、ホンダの有効ポイント は40 。よって、メーカーチャンピオンはホンダになる[ 62] 。これによってホンダは今までのロードレース世界選手権の活動において、4クラス(500cc、350cc、250cc、125cc)のメーカー選手権を獲得した[ 69] 。
富士スピードウェイ (右側の赤線のコースに30度バンクがある)ホンダが今シーズンの日本GP(富士スピードウェイ)をボイコット ホンダが富士スピードウェイ で開催された日本GPをボイコットした。理由は、富士スピードウェイの30度バンクが危険過ぎる、というものである。ホンダは今シーズンは日本GPの前に行われたイタリアGP(モンツァ )で全クラス(500cc、350cc、250cc、125cc、50cc)のメーカー選手権を獲得していた。ホンダのボイコットは問題になった。サーキットの危険性を理由にするならば、モンツァのバンクや公道サーキットもあるヨーロッパのサーキットの危険性は問題はないのか、ということもあり、ホンダは非難を浴びることになった[ 70] 。しかし、富士スピードウェイの30度バンクはヨーロッパのライダーたちからも「怖い」と言われ、また1967年 の時点では30度バンクの路面の状態が悪く、1967年 の日本GP(富士スピードウェイ)では、30度バンクを使わないショートコースで行われた[ 71] 。
鈴鹿サーキットが抱える中立性の問題 鈴鹿サーキット は本田技研工業 のグループ企業であるホンダランド が運営するサーキットである[ 72] 。そのためホンダ以外のメーカーが鈴鹿サーキットで練習を希望してもホンダが優先されることがあり、また鈴鹿サーキットの使用料が高額なこともあって、中立性を重視した日本モーターサイクルスポーツ協会 (MFJ)は富士スピードウェイ で日本GPを開催することにした[ 70] 。
1967年 - 1960年代最後の日本GP開催、ホンダがワークス活動を一部停止
1967年に富士スピードウェイ で開催された日本GP が、1960年代 に日本で開催された最後のロードレース世界選手権(WGP)になる[ 73] [ 74] 。また、ホンダ は今シーズンから125ccクラスと50ccクラスでのワークス活動を停止し、500ccクラスと350ccクラス、250ccクラスへの参戦になる[ 75] 。500ccクラス では、ジャコモ・アゴスチーニ (MVアグスタ )が世界チャンピオンになり、マイク・ヘイルウッド (ホンダ)がランキング2位になる。今シーズンの500ccクラスで優勝したのはこの2人だけである[ 76] 。350ccクラス では、マイク・ヘイルウッド(ホンダ)が世界チャンピオンに、ラルフ・ブライアンズ (ホンダ)がランキング3位になる[ 76] 。250ccクラス では、マイク・ヘイルウッド(ホンダ)が世界チャンピオンになり、ラルフ・ブライアンズ(ホンダ)がランキング4位、フィル・リード (ヤマハ )が2位、ビル・アイビー (ヤマハ)が3位になる。メーカー選手権もホンダが獲得する[ 76] [ 77] 。ホンダが抜けた125ccクラス では、ビル・アイビー(ヤマハ)が世界チャンピオンに、フィル・リード(ヤマハ)がランキング2位になり、またヤマハは初めて125ccクラスのメーカーチャンピオンになる[ 76] [ 61] 。50ccクラス では、ハンス=ゲオルグ・アンシャイント (スズキ )が世界チャンピオンに、片山義美 (スズキ)がランキング2位、スチュアート・グラハム (スズキ)が3位になり、スズキ が圧勝する[ 76] 。
選手権のポイント制度 1950年 から1968年 までの期間に採用していたポイント制度では、各レースの上位6人のライダーにポイントが与えられ、1位 8ポイント、2位 6ポイント、3位 4ポイント、4位 3ポイント、5位 2ポイント、6位 1ポイント、である[ 68] 。
500ccクラスの選手権の有効ポイント 1958年 から1968年 までの期間に採用していたポイント制度では有効ポイント制が採用されており、1967年 の500ccクラスの場合はレースは10戦あり、世界チャンピオンを争う上で有効ポイント として加算されるのは10戦のうち6戦で獲得したポイント である[ 68] 。
500ccクラスのライダー選手権 では、ジャコモ・アゴスチーニ (MVアグスタ)が獲得したポイントは第1戦から第10戦までの10戦で「8 - 0 - 6 - 8 - 8 - 6 - 8 - 0 - 8 - 6 」(総計58ポイント)となり、有効ポイント は46 、優勝回数 は5回 、2位入賞 は3回 。マイク・ヘイルウッド (ホンダ)が獲得したポイントは「0 - 8 - 8 - 6 - 0 - 8 - 0 - 8 - 6 - 8 」(総計52ポイント)となり、有効ポイント は46 、優勝回数 は5回 、2位入賞 は2回 [ 76] 。アゴスチーニとヘイルウッドの有効ポイントと優勝回数が同じなので、2位入賞回数が多いアゴスチーニが世界チャンピオンになる[ 78] 。
250ccクラスの選手権の有効ポイント 1967年 の250ccクラスの場合はレースは13戦あり、世界チャンピオンを争う上で有効ポイント として加算されるのは13戦のうち7戦で獲得したポイント である[ 68] 。
250ccクラスのライダー選手権 では、マイク・ヘイルウッド (ホンダ )が獲得したポイントは第1戦から第13戦までの13戦で「0 - 0 - 4 - 8 - 8 - 6 - 0 - 4 - 8 - 8 - 0 - 8 - 0」(総計54ポイント)となり、有効ポイント は50 、優勝回数 は5回 。フィル・リード (ヤマハ )が獲得したポイントは「8 - 6 - 6 - 6 - 0 - 0 - 8 - 8 - 0 - 0 - 8 - 6 - 0」(総計56ポイント)となり、有効ポイント は50 、優勝回数 は4回 [ 76] 。ヘイルウッドとリードの有効ポイントが同ポイントのため、世界チャンピオンの決定は10月末に開催されるFIM の総会まで持ち越され[ 77] 、その結果、優勝回数が多いヘイルウッドが世界チャンピオンになる[ 78] 。メーカー選手権に影響を与える他のライダーが獲得したポイントは次のとおり -- ビル・アイビー (ヤマハ)が「0 - 0 - 8 - 0 - 6 - 8 - 6 - 6 - 6 - 4 - 6 - 0 - 1」(総計51ポイント)で有効ポイントは46となり、ランキング3位。ラルフ・ブライアンズ (ホンダ)が「6 - 8 - 3 - 4 - 4 - 4 - 4 - 3 - 0 - 6 - 4 - 4 - 8 」(総計58ポイント)で有効ポイントは40となり、4位。本橋明泰 (ヤマハ)が「0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 6 」(総計6ポイント)で有効ポイントは6となり、9位[ 76] 。
メーカーチャンピオンシップ は、レースにおいて同一メーカーのバイクに乗る1人あるいは複数のライダーのうち最も高いポイントを獲得したライダーのポイントをメーカーが獲得したポイントとして加算し、選手権を競う。今シーズンの250ccクラス の場合は、ホンダを駆るライダーはマイク・ヘイルウッドとラルフ・ブライアンズの2人、ヤマハを駆るライダーはフィル・リードとビル・アイビー、本橋明泰の3人。ホンダの獲得ポイントは「6 - 8 - 4 - 8 - 8 - 6 - 4 - 4 - 8 - 8 - 4 - 8 - 8 」(第2戦と第13戦がブライアンズ 、第4戦と第5戦、第9戦、第10戦、第12戦がヘイルウッド )となり、ホンダの有効ポイント は56 。ヤマハの獲得ポイントは「8 - 6 - 8 - 6 - 8 - 8 - 8 - 8 - 6 - 4 - 8 - 6 - 6 」(第1戦と第6戦、第7戦、第10戦がリード 、第3戦と第6戦がアイビー 、第13戦が本橋 )となり、ヤマハの有効ポイント は54 。よって、メーカーチャンピオンはホンダになる[ 76] 。
ホンダ /ローラ RA300 (1967年型)黄禍論出現 1961年 にはヨーロッパの人々からも称賛されたホンダであるが、日本の3メーカー(ホンダ、スズキ、ヤマハ)のマシンが常勝するようになると状況が変わり、ヨーロッパ ではこの状況を「黄禍 」と報じるメディア まで現れる[ 79] 。WGP からF1 に転じたイギリス 人ジョン・サーティース が1967年 のイタリアGP でホンダ/ローラ(イギリス) のマシンを駆って優勝したときには「日本のマシンが勝った」と言われ、ヨーロッパの人々は快く思わなかった[ 80] 。
1968年 - ホンダとスズキがワークス活動を停止
ホンダ とスズキ が今シーズンからワークス活動を停止した[ 81] 。250ccクラス ではヤマハ のライダー同士の接戦になりフィル・リード が世界チャンピオンになる[ 82] 。
選手権のポイント制度 1950年 から1968年 までの期間に採用していたポイント制度では、各レースの上位6人のライダーにポイントが与えられ、1位 8ポイント、2位 6ポイント、3位 4ポイント、4位 3ポイント、5位 2ポイント、6位 1ポイント、である[ 68] 。
250ccクラスの選手権の有効ポイント 1968年 の250ccクラスの場合はレースは10戦あり、世界チャンピオンを争う上で有効ポイント として加算されるのは10戦のうち6戦で獲得したポイント である[ 68] 。
250ccクラスのライダー選手権 では、フィル・リード (ヤマハ )が獲得したポイントは第1戦から第10戦までの10戦で「0 - 8 - 0 - 6 - 8 - 6 - 8 - 8 - 0 - 8 」(総計ポイント52)となり、有効ポイント は46 、優勝回数 は5回 。ビル・アイビー (ヤマハ)が獲得したポイントは「8 - 0 - 8 - 8 - 0 - 8 - 6 - 0 - 8 - 6 」(総計ポイント52)となり、有効ポイント は46 、優勝回数 は5回 [ 83] 。二人とも同ポイントで優勝回数も同じだったため、ベスト・フォー・レースの合計タイムが速い方をチャンピオンとすることになり、リードがアイビーよりも2分05秒3 速く、リードが世界チャンピオンになる[ 82] 。
新レギュレーションによる幕開け (1969年)
1969年 - FIMがレギュレーションを変更気筒数と段数を制限)、カワサキが125ccクラスに参戦、ヤマハがワークス活動を停止
ホンダRC165(250cc空冷6気筒エンジン・ミッション7段、1964年 型) 1969年にFIM はレギュレーションを変更した。それまで日本のメーカーは膨大な開発費と開発要員を投入してGPマシンを製作してレースに参戦していたが、日本のメーカーについていける外国のメーカーがMVアグスタ ぐらいでほとんどなく、レースではいつも日本車がトップ争いを演じており、面白味に欠けていた。その打開策として、開発費を抑えるために、FIMはエンジン気筒数とミッション段数を制限することにした。新レギュレーション の内容は次のとおり -- エンジン は、50ccクラス は単気筒 、250ccクラス以下 は2気筒以下 、500ccクラス以下 は4気筒以下 、ミッション は全クラス6段以下 [ 84] [ 85] 。
今シーズンからヤマハ がワークス活動を停止した[ 86] 。ホンダ とスズキ は昨シーズンから既にワークス活動を停止している[ 81] 。膨大な資金を投入して開発したワークスマシンが走らないレースは物足りないもので、観客数が減少してしまった。このような状況は日本のワークスチームがロードレース世界選手権に復帰するまで続く[ 87] 。
250ccクラスではケル・キャラザース がベネリ (4ストローク エンジン )を駆って世界チャンピオンになる。今シーズンは4ストローク・マシンが世界タイトルを獲得した最後のシーズンとなった[ 88] 。また、ケント・アンダーソン らがプライベートチームとして市販ロードレーサー・ヤマハTD2 (250cc)を購入して参戦した[ 89] 。
一方、カワサキ のワークスマシンが今シーズンから125ccクラスに参戦。デイブ・シモンズ がプライベートチームとして[ 90] カワサキKA-1スペシャル を駆り[ 89] 、全11戦中8勝し、世界チャンピオンになる。カワサキにとって初の世界タイトル獲得である[ 91] 。カワサキは1965年 と1967年 の日本GP の125ccに出走し、また1966年 にはブランズハッチ (イギリス)において海外初挑戦を果している[ 65] 。KA-1スペシャルは、1966年 用に開発されたマシンで、ギアボックス は10段であったが、1969年 のレギュレーションに合わせて6段に変更されている[ 89] 。カワサキは旧レギュレーションに合わせて、水冷 V型4気筒 125ccエンジン を搭載したKA-2 を1967年 の日本GP(富士スピードウェイ )で走らせ、V4エンジンの開発を続けていたのだが、今シーズンから新レギュレーションになり、125ccクラスのエンジンは2気筒以下となったため、2気筒エンジンのマシンを復活させた[ 92] 。
1970年 -
1971年 -
1972年 -
1973年 -
1974年 - ヤマハが4クラスでメーカーチャンピオンを獲得
ヤマハ が4クラス(500cc、350cc、250cc、125cc)でメーカーチャンピオンを獲得する[ 93] 。500ccクラス では、フィル・リード (MVアグスタ )が世界チャンピオンに、フランコ・ボネラ (MVアグスタ)がランキング2位になる。またランキングトップ10のうち6台がヤマハ、2台がスズキ のマシンであった[ 94] 。350ccクラス は、ジャコモ・アゴスチーニ (ヤマハ)が世界チャンピオンになり、ランキング10位のうち9台をヤマハが占める。残りの1台はウォルター・ビラ が駆るハーレーダビッドソン (アエルマッキ )[ 94] 。250ccクラス は、ウォルター・ビラ(ハーレーダビッドソン/アエルマッキ)が世界チャンピオンに、ミッシェル・ルジェリエ (ハーレーダッビソン/アエルマッキ)がランキング9位になる。ランキングトップ10の残りの8台はヤマハが占める[ 94] 。125ccクラス は、ケント・アンダーソン (ヤマハ)が世界チャンピオンになる。ランキング2位と6位もヤマハが獲得する[ 94] 。50ccクラス は、クライドラー がライダー選手権とメーカー選手権を獲得する[ 94] 。
1975年 - ヤマハが500ccクラスのライダー選手権を獲得
ジャコモ・アゴスチーニ が2ストローク のヤマハ YZR500 を駆って500ccクラスの世界チャンピオンになり、ヤマハのマシンが初めて500ccクラスのライダー選手権を獲得。1958年 から1974年 まで17年間続いていたMVアグスタ (イタリア)の連勝が止まり[ 21] 、以後日本車を駆るライダーが500ccクラスの世界選手権を獲得し続ける[ 95] 。
1976年 - バリー・シーンが500ccクラス世界チャンピオン獲得
バリー・シーン (1975年)500ccクラス で、バリー・シーン がスズキ XR14 RG500 を駆って世界チャンピオンになる。シーンにとってもスズキのマシンにとっても500ccクラス初のライダー選手権獲得である[ 96] 。
1977年 - 片山敬済 350ccクラス世界チャンピオン獲得、バリー・シーンが2連続500ccクラス世界チャンピオン獲得
500ccクラス では、バリー・シーン (スズキ XR14 RG500 )が昨シーズンに続き世界チャンピオンになる[ 97] 。350ccクラス では、片山敬済 が2気筒エンジンTZ350 (ヤマハ発動機 )と3気筒エンジンTZ350 (ヤマハモーターNV )をサーキットの特徴に合わせて使い分け、日本人初の世界チャンピオンになる。
アメリカ人ライダーの躍進 (1978年)
1978年 - ケニーロバーツ 500ccクラス初参戦で世界チャンピオン獲得
ケニー・ロバーツ (1981年 、ホッケンハイム )500ccクラス では、アメリカ人ライダー ケニー・ロバーツ がヤマハYZR500 を[ 93] ハングオフ という乗り方で操り[ 98] 、500ccクラス初参戦で世界チャンピオンになる[ 93] [ 99] 。
1979年 - ホンダがWGPに復帰
ホンダがNR500 (4ストローク )でイギリスGP(シルバーストーン )からWGP に復帰[ 100] 。
1980年 - ケニー・ロバーツ 500ccクラス3年連続チャンピオン獲得、ケニー・ロバーツ ワールドシリーズ構想を発表
ケニー・ロバーツ (1975年)ケニー・ロバーツ が500ccクラス で3年連続チャンピオンとなった[ 101] 。
また、ロバーツが中心となり「ワールドシリーズ」構想を発表した[ 102] [ 103] 。FIM が主催するロードレース世界選手権がアマチュア的なレースになっているため、プロのレースを開催することを目的としていた。この構想は、ワールド・スポーツ・マネジメント社 を設立し、FIMとは別の世界選手権を開催するもので、バリー・シーン (1976年 、1977年 500ccクラス世界チャンピオン)や片山敬済 (1977年 350ccクラス世界チャンピオン)、フランコ・ウンチーニ (1982年 500ccクラス世界チャンピオン)、マルコ・ルッキネリ (1981年 500ccクラス世界チャンピオン)、ランディ・マモラ (1980年 、1981年 、1984年 500ccクラス、ランキング2位)など、当時のトップライダーたち全員が支持した[ 102] 。
ワールドシリーズ構想の内容は、F-1クラス(500cc)とF-2クラス(250cc)の2クラスにして自主運営し、マネジメントはワールド・スポーツ・マネジメント社が担当する、というものであった。この構想は失敗したが、その原因はライダーたちのWGP全般に関する認識不足にあった。彼らはWGPの現状に対する不満を表明してこの構想を発表したが、彼らはレースの開催という興業には素人であったこと、この構想を実現するためのに行動する人材を得られなかったこと、WGPの現状の運営実態を完全に把握していなかったこと、これらがこの構想の失敗の原因である[ 104] 。
ワールドシリーズ構想は実現に至らなかったが、FIMがライダーたちに歩み寄り、賞金とスターティングマネー(出場料)[ 105] の増額で落ち着いた[ 102] 。
1981年 - フレディ・スペンサー NR500でイギリスGPに出場
マルコ・ルッキネリ (スズキ )が500ccクラス世界チャンピオンになる。1975年 ジャコモ・アゴスチーニ 以来のイタリア 人チャンピオンである[ 106] 。
第11戦イギリスGP (シルバーストーン )において、19歳のフレディ・スペンサー が500ccクラスでホンダNR500 を走らせることになる。イギリスGPには片山敬済 がNR500で出場する予定で、片山はイギリスGPに向けてNR500を仕上げている最中、完成間近になって河島喜好 (社長)に呼ばれて次のように言われた。「(省略)。こちらとしては、アメリカホンダと契約しているフレディ・スペンサーに、その新しいマシンを乗せてみたいんだが、どうだろう」(河島喜好)[ 107]
片山もアメリカに非常に速いライダーがいることは耳にしていたので、スペンサーにNR500を譲ることにした。この時のNR500のエンジンは24,000rpmまで回すことができるのだが、ここまで回すとエンジンに耐久性がないため壊れてしまい、決勝レースの周回数の半分ももたない。そのため片山はエンジンの回転を22,000rpmに抑えて耐久性を確保するように努力していたが、それでも完走することができないエンジンであった。ところがイギリスGPでNR500を走らせたスペンサーはタコメーター を見ないで走っていた。エンジンを回せるだけ回して加速しなくなったらシフトアップする、という今までの常識では考えられない走り方をしていた。このようなエンジンの使い方をするためによく壊れたが、とにかくスペンサーは速かった[ 108] 。
1982年 - フランスGPボイコット、スズキ 7年連続メーカー選手権獲得、ヤマハ オーリンズと業務提携
500ccクラス ワークスライダー、フランスGPボイコット 500ccクラスではライダーとレース主催者との間で一波乱あった。第3戦フランスGP (ノガロ )が、ほとんどのワークスライダー にボイコット されたのだ[ 109] 。その理由は、ノガロの路面状態が悪く[ 110] 安全上問題があり、またパドックの状態も悪いためである[ 111] 。ノガロで優勝したライダーはサンベネロ を駆るフルチ[ 110] (Michel Frutschi[ 112] )で、1982年のランキングが14位のライダーである[ 112] 。
500ccクラスはフィンランドGP(イマトラ )とチェコスロバキアGP (ブルノ )でのレース開催はなかった[ 113] 。イマトラは踏切 がある公道サーキット で悪評が高く、危険な場所の例としてあげられていた[ 114] 。そのため、高速で走行する500ccクラスはプログラムから外された。ライダーから好まれないコースであった[ 115] 。ブルノも当時は公道サーキットだったので、500ccクラスのレースでは危険度が大きいために数年前から開催されていなかった[ 116] 。
スズキ 7年連続メーカー選手権獲得フランコ・ウンチーニ (→写真 、スズキ )が500ccクラス世界チャンピオンになる。マルコ・ルッキネリ に続いてイタリア 人ライダーとスズキのマシンが2シーズンを制し[ 117] 、スズキは500ccクラスで7年連続でメーカー選手権を獲得する[ 118] 。
ヤマハ がサスペンション メーカー オーリンズ と業務提携を結ぶ[ 93] 。
1983年 - フレディ・スペンサーとケニー・ロバーツの死闘
フレディ・スペンサー (ブランズ・ハッチ ) 今シーズンの500ccクラスはWGP の歴史上で最も注目されるシーズンの一つ。フレディ・スペンサー とケニー・ロバーツ が死闘の末、スペンサーが500ccの世界チャンピオンになる[ 119] 。ロバーツは今シーズンを最後にGPライダーを引退[ 120] 。
1984年 -
1985年 - フレディ・スペンサー 500ccクラスと250ccクラスのタイトル獲得
フレディ・スペンサー が500ccクラス(ホンダNSR500 )と250ccクラス(ホンダRS250R-W )にダブルエントリーし、二つのクラスで世界チャンピオンになる[ 121] 。
1986年 -
1987年 - 20年ぶりに日本GP開催、スタート方式がクラッチスタートに、FIMがTV放映権の入札を検討中
鈴鹿サーキット 日本で20年ぶりにロードレース世界選手権(WGP)が第1戦日本GP として鈴鹿サーキット で開催される[ 74] 。前回の日本GPは1967年 の富士スピードウェイ [ 73] 。
今シーズンからスタート方式がクラッチスタート になる[ 122] 。
FIM がWGPのテレビ放映権 などの商業的権利をIRTA とROPA 、そして、バーニー・エクレストン に入札 で譲渡することを検討中[ 123] 。
1988年 -
1989年 -
1990年 -
1991年 - バーニー・エクレストンがWGPの全商業的権利を獲得
バーニー・エクレストン (TWP )がWGPのすべての商業的権利を獲得し、ドルナ はエクレストンとテレビ放映権 のリース契約 を結び、ドルナがテレビ放映権を管理することになった[ 124] 。
バーニー・エクレストン(TWP)の参入 (1992年)
1992年 - バーニー・エクレストン(TWP社長)の参入
バーニー・エクレストン (2006年) 1992年にはFIM は今まで保有していたロードレース世界選手権(WGP)の権利をドルナ(DORNA) とバーニー・エクレストン (TWP 社長[ 104] - Two Wheel Promotions)に分割し、同時にIRTA はすべてのチームの商業的なことを把握することになった。ドルナは5年間のテレビ放映権を獲得した[ 125] 。これによりWGPの実際の権限はFIMから離れ、エクレストン(TWP)が掌握することになった[ 126] 。エクレストンはWGPを4輪のF1 のような大きな事業すべくWGPに参入し、レースの運営手法としてF1方式を導入する。これは旧態依然としたFIMの体質である金銭的なことを重視しないアマチュア的な運営方式から、ライダーやチームなどの活躍に相応わしい報酬を支払う運営方式への転換であった[ 127] 。エクレストンは次のように語っている。「FIMが、ライダーの要求に気づくのが遅すぎた」(バーニー・エクレストン)[ 128]
しかし、エクレストンはWGPファンには評判が悪く、ドイツGP(ホッケンハイム )とオランダGP/ダッチTT (アッセン )では、観客席に「エクレストン・ゴー・ホーム」(意訳「エクレストン、帰れ!」)と書かれた横断幕が出たほどである[ 129] 。また、ドイツGPの観客数は例年の12万人超から7万8千人にまで減少し、グランド席下部のコース側は空席が目立つような状態であった。その原因の一つが入場料の高騰である。WGPのレース主催者はエクレストン(TWP)に最低100万ドルも支払わなければならず、このことが入場料高騰の原因と考えられる[ 127] 。
当初FIM はエクレストン(TWP)に抵抗していたが、エクレストン(TWP)とIRTA がFIMに強く迫り始める。1990年 にはライダーとチームの大半がIRTAと契約を結び、FIMとは別の世界選手権を開催する可能性が既に生じていた[ 130] 。
エクレストン(TWP)がWGPの運営を行うようになってからはFIM時代よりも情報公開度が下がった。ライダーやジャーナリストには把握できないこと、確かめようのないことが増えた。それはWGPのレースを私企業TWP(エクレストン)が営利目的の興業として行うようになったためと推察される[ 131] 。
このように、エクレストン(TWP)の参入によって負の面も出たが、良い面もあった。パドックを含め、サーキットの環境改善ついては以前からライダーやジャーナリストたちがレース主催者に要求しており、その間に多くの事故やライダーの死という多大な犠牲を払ってきた。レースをボイコットするなどの抗議も行って、長い年月をかけて少しずつサーキットの環境が改善されていったのだが[ 132] 、エクレストン(TWP)の参入によって改善速度が速まったのである[ 126] 。また、IRTA はエクレストン(TWP)と契約し、エクレストン(TWP)は各WGPのレースごとにIRTAに100万ドルを支払う。IRTAはその100万ドルを500ccクラスと250ccクラス、125ccクラスの各チームに分配し、各チームはこの分配金とスポンサーからの契約金でレース活動を行う。レース主催者との契約方式もF1方式となり、各レース主催者は各チームと契約を結んでレースを開催するが、この契約にはライダーは関わらず、ライダーはチームと契約する[ 133] 。
ライダーのWGP出場資格も様変りした。1991年 までのFIM 主導時代は、昨シーズンのランキング20位以内のライダーと2年前のシーズンのランキング5位までのライダーが優先され、その次がヨーロッパ選手権のランキング6位までのライダー、日本の場合は全日本ロードレース選手権 のチャンピオン、そしてその次がWGP開催国のライセンスを持つワイルドカードライダーである。しかし、1992年 からは、各チームと契約するライダーならばどのようなライダーでもレギュラーライダーとしてWGPに参戦できるようになった。WGPに出場するためのライセンスは必要だが、昨シーズン以前の成績などには左右されなくなった。レースを戦っていく上でのチームの実力やライダーの実力よりも、チームの資金力(チームにつくスポンサー)やライダーの資金力(ライダー個人につくスポンサー)が重要になった[ 134] 。
1993年 - ケビン・シュワンツ 500ccクラスタイトル獲得、原田哲也 250ccクラスタイトル獲得、バーニー・エクレストンがWGPの商業的権利をドルナに売却
ケビン・シュワンツ (スズキRGV500 [ 135] )が500ccクラスの世界チャンピオンになる。250ccクラスでは原田哲也 (ヤマハTZ250M [ 136] )が世界チャンピオンになり[ 137] 、片山敬済 (1977年 350ccクラス世界チャンピオン)以来、16年ぶりの日本人世界チャンピオンの誕生である[ 138] 。
バーニー・エクレストン (TWP )がロードレース世界選手権 (WGP)の商業的権利をドルナ に売却した[ 124] 。
1994年 - ミック・ドゥーハン 500ccクラスタイトル獲得
ミック・ドゥーハン (1990年 日本GP、鈴鹿サーキット ) 500ccクラスでミック・ドゥーハン (ホンダNSR500 [ 139] )が世界チャンピオンになる。ドゥーハンの500ccクラス5連覇の始まりである[ 140] 。
1995年 -
1996年 -
1997年 -
1998年 - ミック・ドゥーハン 500ccクラスで5連覇
ミック・ドゥーハン (ホンダNSR500 [ 141] )が500ccクラスで5連覇を達成する[ 140] 。
1999年 - アレックス・クリビーレ 500ccクラスタイトル獲得
アレックス・クリビーレ (ホンダNSR500 [ 142] )が500ccクラスの世界チャンピオンになり、ホンダのマシンが6年連続で500ccクラスのチャンピオンマシンとなった[ 143] 。
2000年 - スズキのマシンが7年ぶりに世界チャンピオンに
ケニー・ロバーツ・ジュニア がスズキRGV500 を駆り、500ccクラス世界チャンピオンになる[ 118] 。
2001年 - 今シーズンを最後に500ccクラス廃止、ホンダが通算500勝を達成
500ccクラス 最後の世界チャンピオン バレンティーノ・ロッシ (2007年) 2001年シーズンを最後に500ccクラスが廃止になる。来シーズンからは500ccクラスに代わってMotoGPクラスが始まる[ 144] 。スズキ は2002年 から4ストローク マシンでMotoGPに参戦することを発表し[ 118] 、カワサキ は2003年 からMotoGPに参戦することを発表する[ 65] 。
ホンダ は第1戦日本GP(鈴鹿 )でロードレース世界選手権通算500勝を達成した[ 69] 。記念すべき500勝目は、1997年 125ccクラス世界チャンピオンで[ 145] 1999年 250ccクラス世界チャンピオンの[ 146] バレンティーノ・ロッシ (ホンダNSR500 )[ 147] によってホンダに齎された。またロッシは今シーズンをもって廃止される500ccクラスの世界タイトルを獲得し、500ccクラス最後の世界チャンピオンとなった[ 148] 。
MotoGPクラス開幕 (2002年)
2002年 - MotoGPクラス開幕
2002年 MotoGPクラス世界チャンピオンのバレンティーノ・ロッシ とホンダRC211V (2002年型、4ストローク990cc ) 今シーズンからMotoGPクラスが開幕する。MotoGPクラスのレースは2ストローク 500ccマシン と4ストローク 990ccマシン の混走 になる。今シーズンは4ストロークマシンが全勝する[ 144] 。MotoGPクラス最初の世界チャンピオンはバレンティーノ・ロッシ (ホンダRC211V 、4ストローク990cc)[ 147] 。
2003年 - ホンダ、ヤマハ 500ccマシン製造終了
ホンダとヤマハが2ストローク500ccマシンの製造を終了[ 144] 。
2004年 -
2005年 - MotoGPクラスから2ストローク500ccマシンが消える
MotoGPクラスに参戦するロードレーサーが4ストロークマシンのみとなり、2ストロークマシンが消える[ 144] 。
2006年 - ホンダが最高峰クラスで200勝達成
ホンダがロードレース世界選手権の最高峰クラスで[ 149] 200勝を達成した。第8戦オランダGP/ダッチTT(アッセン )のMotoGPクラスでニッキー・ヘイデン が優勝し、ホンダに200勝目の勝利を齎した。1966年 500ccクラス第1戦西ドイツGP(ホッケンハイム )でジム・レッドマン がホンダの500ccマシンに初勝利を齎してから40年後の快挙達成である[ 150] 。
2007年 - MotoGPクラスが800ccへ
2007年 MotoGPクラス世界チャンピオンのケーシー・ストーナー とドゥカティ・デスモセディチGP7 (2007年型、800cc ) MotoGPクラスのエンジンの最大排気量が800ccになる。800ccMotoGPクラス最初の世界チャンピオンはケーシー・ストーナー (ドゥカティ・デスモセディチGP7 、800cc)[ 151] 。
2008年 -
2009年 -
2010年 -
2020年 - スズキのライダーが20年ぶりの世界チャンピオンへ。
ジョアン・ミル がスズキ・GSX-RRを駆り、MotoGPクラス世界チャンピオンを獲得した。スズキ にとって2000年 にケニー・ロバーツ・ジュニアが500ccクラスで総合優勝して以来20年ぶりで、MotoGPクラスになってからは初めてのタイトル獲得であった。
脚注
^ a b 『百年のマン島 』(p225)より。
^ a b 『百年のマン島 』(p241)より。
^ 『MotoGP ヒストリー 2002-2007 』(p4)より。
^ Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , p. 183
^ regulations :規則 --『ジーニアス英和辞典 第3版 』より。
^ 『百年のマン島 』(p431)より。
^ MotoGP Source Book: Sixty Years of World Championship Motorcycle Racing , p. 11
^ Motor Cycle Racing , p. 38
^ MotoGP Source Book: Sixty Years of World Championship Motorcycle Racing , pp. 28,29
^ 『百年のマン島 』(p298, p299)より。
^ MotoGP Source Book: Sixty Years of World Championship Motorcycle Racing , pp. 31-33
^ a b c d 『国産二輪車物語 』(p165)より。
^ a b 『The 500ccワールドチャンピオン 日本語版 』(p35)より。
^ a b c d 『国産二輪車物語 』(p169)より。
^ 『百年のマン島 』(p301)より。
^ 『百年のマン島 』(p298, p299, p302)より。
^ 『百年のマン島 』(p298)より。
^ 『百年のマン島 』(p302)より。
^ 『百年のマン島 』(p297)より。
^ The Grand Prix Motorcycle , p. 47
^ a b 『サーキットの軌跡 』(p132)より。
^ 『百年のマン島 』(p1, p7, p8)より。
^ 「楨助」の「楨」の漢字は、木偏に「貞」--「『マン島TTレース初出場』。若者たちは、力いっぱい世界にチャレンジした 」(本田技研工業)より。
^ 『サーキットの軌跡 』(p17)より。
^ Solitude 。読み方「ソリチュード」は『百年のマン島 』(p395)より。
^ 『百年のマン島 』(p316, p333)より。
^ a b Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , p. 188
^ 『百年のマン島 』(p317)より。
^ a b 『百年のマン島 』(p355)より。
^ 『百年のマン島 』(p350)より。
^ a b 『百年のマン島 』(p315)より。
^ 『百年のマン島 』(p313)より。
^ 『百年のマン島 』(p320)より。
^ 『百年のマン島 』(p321)より。
^ 『百年のマン島 』(p349)より。
^ Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , pp. 184,185
^ 『サーキット燦々 』(p173 - p176)より。
^ 『サーキットの軌跡 』(p24)より。
^ 『百年のマン島 』(p363)より。
^ 500ccクラスのこと。500ccクラスは、1949年 と1950年 、1956年 、1957年 が1シーズン6戦、1951年 - 1955年 が1シーズン8戦、1958年 - 1960年 が1シーズン7戦。1961年 の350ccクラスは7戦、250ccクラスと125ccクラスは11戦 -- Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , pp. 183-189
^ 『サーキットの軌跡 』(p25)より。
^ 『百年のマン島 』(p356)より。
^ 『百年のマン島 』(p369)より。
^ a b c d e Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , p. 189
^ 『サーキットの軌跡 』(p28)より。
^ 『サーキットの軌跡 』(p29)より。
^ 『百年のマン島 』(p359)より。
^ 『サーキットの軌跡 』(p34)より。
^ 『百年のマン島 』(p380, p381)より。
^ 『百年のマン島 』(p380)より。
^ 『百年のマン島 』(p385, p386)より。
^ 『サーキットの軌跡 』(p35, p43)より。
^ 『百年のマン島 』(p384)より。
^ 『百年のマン島 』(p391, p541)より。
^ 『サーキットの軌跡 』(p35)より。
^ Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , pp. 190-192
^ 『百年のマン島 』(p402)より。
^ 『百年のマン島 』(p404)より。
^ a b Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , p. 190
^ 『百年のマン島 』(p408)より。
^ a b c 『国産二輪車物語 』(p167)より。
^ a b c d Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , p. 191
^ 『サーキットの軌跡 』(p68)より。
^ 『浅間から世界GPへの道 』(p120)より。
^ a b c 『国産二輪車物語 』(p172)より。
^ a b 『浅間から世界GPへの道 』(p119)より。
^ The Grand Prix Motorcycle , p. 69
^ a b c d e f g Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , p. 182
^ a b 『国産二輪車物語 』(p166)より。
^ a b 『サーキットの軌跡 』(p76)より。
^ 『サーキットの軌跡 』(p87)より。
^ 現在はモビリティランド が運営。
^ a b 『グランプリを走りたい 』(p100)より。
^ a b 日本GPの再開は1987年 の鈴鹿サーキット -- Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , p. 202
^ 『サーキットの軌跡 』(p79)より。
^ a b c d e f g h i Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , p. 192
^ a b 『サーキットの軌跡 』(p88)より。
^ a b Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , p. 63
^ 『百年のマン島 』(p467)より。
^ 『百年のマン島 』(p421)より。
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^ a b c 『サーキットの軌跡 』(p112)より。
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^ MotoGP Source Book: Sixty Years of World Championship Motorcycle Racing , pp. 90,91
^ 『グランプリを走りたい 』(p47)より。
^ a b c d 『国産二輪車物語 』(p168)より
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^ The Grand Prix Motorcycle , pp. 100,101
^ The Grand Prix Motorcycle , pp. 102,103
^ 『天駆ける 』(p129)より。
^ ロバーツは1974年 に250ccクラスに参戦している --『グランプリ・ライダー 』〈ちくま文庫〉(p79)より。
^ 『サーキットの軌跡 』(p154)より。
^ Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , pp. 197,198
^ a b c 『グランプリ・ライダー 』〈ちくま文庫〉(p233, p234)より。
^ 『グランプリ・サーカス 』〈ちくま文庫〉(p263)には、ワールドシリーズ構想の発表は「1979年 」とある。
^ a b 『グランプリ・サーカス 』〈ちくま文庫〉(p264)より。
^ 1976年当時のインターナショナルレース場合は、決勝レースで2周以上走行すると支払われた。予選落ち、または、決勝レース2周未満でのリタイアでは支払われない --『グランプリ・サーカス 』(p100)より。◆今回FIMが提示したスターティングマネーの金額及び条件は不明。
^ MotoGP Source Book: Sixty Years of World Championship Motorcycle Racing , pp. 116-141
^ 『天駆ける 』(p126)より。
^ 『天駆ける 』(p126 - p128)より。
^ Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , p. 113
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^ MotoGP Source Book: Sixty Years of World Championship Motorcycle Racing , p. 143
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^ Dr Martin Raines, "GRAND PRIX RESULTS 1949-98", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , p. 198
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^ 『ライダースクラブ 』1982年11月号(p114)より。
^ 『ライダースクラブ 』1982年11月号(p116)より。
^ MotoGP Source Book: Sixty Years of World Championship Motorcycle Racing , pp. 140-144
^ a b c 『国産二輪車物語 』(p170)より。
^ 『サーキットの軌跡 』(p173, p174)より。
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^ MotoGP Source Book: Sixty Years of World Championship Motorcycle Racing , pp. 154-157
^ Kevin Cammeron, "RETURN OF THE FACTORIES", Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , p. 134
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^ a b 『グランプリ・ライダー 』〈ちくま文庫〉(p229)より。
^ a b 『グランプリ・ライダー 』〈ちくま文庫〉(p228, p229)より。
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^ 『グランプリ・サーカス 』〈ちくま文庫〉(p263)より。
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^ a b 『MotoGP ヒストリー 2002-2007 』(p12)より。
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^ 1949年 から2001年 までは500ccクラスが、2002年 以降はMotoGPクラスがロードレース世界選手権の最高峰クラス -- MotoGP Source Book: Sixty Years of World Championship Motorcycle Racing , pp. 250,251
^ Honda : 200 victoires en catégorie reine ! , emoto.com (2006)
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参考文献
ウェブサイト
書籍
Ryder , Julian; Raines , Martin (September 2009), MotoGP Source Book: Sixty Years of World Championship Motorcycle Racing , UK : Haynes Pubns , ISBN 978-1844257232
Cameron , Kevin (26 Feb 2009), The Grand Prix Motorcycle - The Official Technical History , UK : J H Haynes & Co Ltd , ISBN 978-1844255283
Noyes , Dennis; Scott , Michael, eds. (October 1999), Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix , UK : Hazleton Pub Ltd , ISBN 978-1874557838
Carrick , Peter (1969), Motor Cycle Racing , UK : The Hamlyn Publishing Group Ltd
雑誌
「世界選手権ロード第11戦フィンランド、第12戦チェコスロバキア」『ライダースクラブ 』No.53 1982年11月号、(株)ライダースクラブ、p114 - p119。
辞典
関連文献
関連項目
外部リンク
レギュレーション(規則)
MotoGP 公式ウェブサイト
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サーキット施設概要(英語)- “サーキット” , The Official MotoGP Website (ドルナ・スポーツ社), https://web.archive.org/web/20120604112046/http://www.motogp.com/ja/MotoGP+Basics/at_the_circuit 2010年1月4日 閲覧。
基本用語(英語)- “基本用語” , The Official MotoGP Website (ドルナ・スポーツ社), https://web.archive.org/web/20120604113100/http://www.motogp.com/ja/MotoGP+Basics/glossary 2010年1月4日 閲覧。
統括団体(英語)- “統括団体” , The Official MotoGP Website (ドルナ・スポーツ社), http://www.motogp.com/ja/MotoGP+Basics/governing_bodies 2010年1月4日 閲覧。
チームとメーカー(英語)- “チーム & マニファクチャー” , The Official MotoGP Website (ドルナ・スポーツ社), https://web.archive.org/web/20120604114350/http://www.motogp.com/ja/MotoGP+Basics/teams_manufacturers 2010年1月5日 閲覧。
国際モーターサイクリズム連盟(FIM) ウェブサイト (英語)
新聞 、出版社 、放送局 などのウェブサイト