エルンスト・デグナー(Ernst Degner, 1931年9月22日 - 1983年9月10日[1])は、ドイツ出身のオートバイレーサー。
経歴
ドイツ国オーバーシュレジエンのグライヴィッツ(現ポーランド領グリヴィツェ)生まれ。出生名はエルンスト・オイゲン・ヴォツラヴェク(Ernst Eugen Wotzlawek)。
第二次世界大戦後、家族と東ドイツに移り住んだ。1957年から1961年にかけてデグナーは東ドイツのMZ社のオートバイを駆り、ロードレース世界選手権の125ccクラス、250ccクラスで活躍した。MZの2ストロークエンジンは同社の技術者 Walter Kaaden が発明した排気脈動を利用するチャンバー技術等によって高いパフォーマンスを誇っていた。
1961年8月にベルリンの壁が完成した後、デグナーは彼の家族を西ドイツに亡命させる準備をおこなった。9月13日水曜日、彼の妻と2人の息子は西ドイツの友人の協力によって、車のトランクに隠れて国境を越えることに成功した。一方デグナー本人は、その週末に開催となる第10戦スウェーデンGPに出場した。125ccクラスではホンダのトム・フィリスと年間タイトルを争っていたが、デグナーは3周目にエンジン破損でリタイアする。レース後彼はフェリーに乗り、デンマーク経由で西ドイツへの亡命に成功、家族と合流することができた。亡命が発覚後、東ドイツ側からは「わざとエンジンを壊した」と非難されることになった。
スウェーデンGPでフィリスは6位に終わり、タイトルの決定は最終戦アルゼンチンGPに持ち越されていた。当然デグナーはMZからの出場は不可能になったが、個人タイトル獲得のために他チームからの出場を模索していた。しかし結局東ドイツのモーターサイクル協会にライセンスを取り消されて出場は不可能となり、ホンダの125cc・250cc個人・メーカータイトル独占を許すことになった。この頃デグナーはスズキの招聘で密かに来日し、「オイゲン(Eugen)」という偽名でマシンテスト等に参加していた[2]。
翌1962年シーズンには、デグナーはスズキと正式に契約し、この年から始まった50ccクラスでスズキにグランプリ初タイトルをもたらした[3]。同年11月に行われた鈴鹿サーキットのオープニングレース「第1回全日本選手権ロードレース」ではトップを独走中に転倒。その転倒したコーナーが「デグナーカーブ」と命名されることになった。
1963年、日本グランプリ参戦時にクラッシュしてマシンが炎上、大火傷を負ってしまう。その治療のため年末まで浜松市内で入院生活を余儀なくされた[2]。
1966年に現役を引退した後、西ドイツのスズキ代理店「Suzuki Deutschland」にて勤務する。1978年に離婚。一説には、前述の大火傷により顔面にも火傷の痕が残ってしまったことで、以後性格がひがみっぽくなってしまったことが離婚につながったという[2]。
晩年は西ドイツを離れ、スペイン・テネリフェ島に移住していたが、1983年9月にテネリフェで交通事故により死去。
ロードレース世界選手権 戦績
1950年から1968年までのポイントシステム
順位
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1
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2
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3
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4
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5
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6
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ポイント
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8
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6
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4
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3
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2
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1
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脚注
外部リンク