1970年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第22回大会である。5月にニュルブルクリンクで開催された西ドイツGPで開幕し、モンジュイック・サーキットで開催された最終戦スペインGPまで、全12戦で争われた。
1970年のグランプリは前年同様の全12戦となった。ただし、前年開幕戦だったスペインGPがこの年は最終戦となった。250ccクラスのレースは全てのグランプリで開催されている。
前年の50ccクラスに続いてこの年からは125ccクラスと250ccクラスにも新レギュレーションが導入され、両クラスに出場できるのは2気筒以下のマシンに制限されることになった。これによって日本メーカーのワークスマシンや前年の250ccクラスチャンピオンであるベネリの4気筒などの多気筒マシンはこれらのクラスに出場することができなくなったが、代わって注目されたのが日本のメーカーがロードモデルをベースに開発した市販レーサーたちである。500ccのカワサキH1Rや350ccのヤマハTR2は多くのプライベーターたちに支持され、中でも250ccクラスはランキング上位のほとんどをヤマハTD2に乗るライダーが独占する結果となった。このヤマハのTR/TDシリーズはこれ以降も進化を続け、やがてヤマハの傑作市販マシンであるTZシリーズへと繋がっていくことになる[1]。
この年の最終戦スペインGPの125ccクラスで一人のライダーがグランプリに初挑戦し、一時トップを走って2位でフィニッシュするという印象的なグランプリデビューを飾った。後に500ccクラスのチャンピオンとしてイギリスの国民的英雄となるバリー・シーンである[2]。また、後にヤマハのエースライダーとして活躍するヤーノ・サーリネンもこの年グランプリデビューを果たし、いきなり250ccクラスでランキング4位を獲得する速さを見せている[3]。
ジャコモ・アゴスチーニとMVアグスタが他を圧倒するという状況はこの年も変わることはなく、アゴスチーニは出場した全てのレースで勝利して5年連続となるタイトルを易々と獲得した[4]。さらにMVアグスタはアエルマッキでシーズン前半に2度2位になる速さを見せていたアンジェロ・ベルガモンティをイタリアGPからライダーに加え、ベルガモンティはアゴスチーニが出場しなかった最終戦のスペインGPでグランプリ初勝利を挙げた[2]。
カワサキが販売した2ストローク3気筒のロードモデルをベースにした市販レーサーのH1Rは多くの力のあるプライベーターたちに歓迎され、中でもシーズン途中からH1Rに乗り換えたベテランのジンジャー・モロイは4度表彰台に上る活躍でランキング2位を獲得した[5]。
350ccクラスの状況も前年とほぼ変わらず、500ccクラスと同様にMVアグスタのジャコモ・アゴスチーニは出場した9レース全てで優勝してチャンピオンとなった[6]。アゴスチーニの350ccクラスタイトルはこれで3年連続である。また、シーズン終盤にMVアグスタ陣営に加わったアンジェロ・ベルガモンティが、アゴスチーニが欠場した最終戦スペインGPで優勝したのも500ccクラスと同様だった[2]。
250ccクラスではこの年から新レギュレーションが導入され、前年のチャンピオンマシンであるベネリの4気筒は出場することができなくなった。代わって前年に登場したヤマハの2ストローク空冷2気筒の市販マシン、TD2がグランプリに勝てるマシンとしてチャンピオンのケル・キャラザースやかつてのヤマハ・ワークスのエースであったフィル・リードらをはじめとする多くのプライベーターたちに選ばれることとなった。ヤマハはワークスチームを送り込むことこそ無かったものの有力なライダーをサポートし、前年からTD-2で好成績を残していたロドニー・ゴウルドとケント・アンダーソンには特別仕様のマシンを与えた[1]。このセミ・ワークスマシンとも呼べるマシンを得たゴウルドは第2戦フランスGPでグランプリ初勝利を挙げるとその後も安定して上位でフィニッシュし、第11戦イタリアGPで6勝目を挙げて4勝のキャラザースを抑えてタイトルを獲得した[7]。
この年、TD-2と唯一互角の速さを見せたのがオッサの単気筒ワークスマシンに乗るサンチャゴ・ヘレロで、第3戦のユーゴスラビアGPでシーズン初勝利を挙げたヘレロは一時ランキングトップに立った。しかし続くマン島TTの最終ラップでのクラッシュでヘレロは命を落とし、ヤマハの唯一のライバルとも言えるオッサはロードレースからの撤退を決定した[2]。この年のライダーズ・ランキング上位10人は、死後にランキング8位を獲得したヘレロを除く全員がヤマハに乗るライダーで占められる結果となった。
前年、旧いカワサキでタイトルを獲ったデイブ・シモンズはこの年は1勝しかできず、代わって同じくスズキの旧い2気筒に乗るディーター・ブラウンが好調さを発揮して第2戦フランスから4連勝を飾った。シーズン後半はデルビのアンヘル・ニエトが調子を上げて4勝を挙げたが、ブラウンは東ドイツとチェコスロバキアで2位に入り、ニエトを振り切ってタイトルを獲得した[8]。
前年に引き続き、50ccクラスはデルビ、クライドラー、ヤマティといったヨーロッパのメーカーのマシンに乗るライダーによる激しい戦いが繰り広げられる激戦区となった。その中でもシーズンを通してタイトル争いをリードしたのは、ディフェンディングチャンピオンであるデルビのアンヘル・ニエトだった。125ccクラスのタイトルは逃したニエトだがこのクラスでは開幕戦から4連勝で選手権をリードし、シーズン後半に入るとヤマティのアールト・トールセンが3連勝で追い上げたがニエトは第8戦のアルスターGPで5勝目を挙げた。そして第9戦イタリアで完走できなかったニエトだったが、トールセンもノーポイントに終わったために2年連続となるタイトルを決めた[2][9]。
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