ジャック・フィンドレイ(Cyril John "Jack" Findlay, 1935年2月5日 - 2007年5月19日)は、オーストラリア出身の元オートバイレーサー。
最も長くグランプリを走り続けたライダーとして知られている。20年間に渡るグランプリキャリアの大半において、ワークスチームに加わらないプライベーターとして戦ったにもかかわらず、度々上位に食い込む走りを見せた。
経歴
メルボルンの約120マイル北にあるビクトリア州ムーループナで生れた。15歳でレースを始める時、レース免許取得年齢に2年足りなかったため父親の身分証明を使って免許を取り、この時父親の名前であるジャックを名乗った[1]。
学校を出た後、1957年までオーストラリア・コモンウェルス銀行で会計士見習いとして働いていたが[1]、1958年にレース活動のためにイギリスに移り住む。バーミンガムにあるBSAの工場で働くかたわら、350ccのノートン・マンクスでロードレース世界選手権への参戦を開始した[1]。1959年にはマン島TTレースへの初出場を果たしている。
この後、フィンドレイは1978年までグランプリを戦い続けることになる。
グランプリのベストシーズンは1968年で、マチレスのマシンでジャコモ・アゴスチーニに次ぐ500ccクラスランキング2位を獲得した[2]。
グランプリ初勝利はスズキのマシンを駆った1971年のアルスターグランプリ。この優勝はスズキにとっても500ccクラス初優勝であった[1]。
フィンドレイの最も輝かしい勝利は、初出場から15年かけて獲得した1973年のマン島シニアTTでの勝利であろう[3] 。
1973年と1974年にはスズキのTR500で戦った。1974年はスズキのファクトリーチームの一員として、バリー・シーンやポール・スマートとともに新たなワークスマシンRG500の開発にも携わった。翌1975年には、FIM選手権フォーミュラ750でそのバリー・シーンを破ってタイトルを獲得している[4]。
1977年、クラッシュによって頭蓋骨骨折という重傷を負ったフィンドレイはこのためにレース活動を縮小せざるを得なくなり、1978年を最後にグランプリからの引退を決意した[1]。この10年後の1987年には再びハイスピードのクラッシュを経験し、それ以降はオートバイに乗ることはなかった。
プライベートではフランス人レーサーのジョージ・モヌレの未亡人であるドミニク・モヌレと結婚し、フランスに活動の拠点を置いた。ドミニクとの間には息子がいる。
1992年、彼はFIMによってグランプリのテクニカル・ディレクターに任命され、2001年まで同職をつとめた。この時にはフランス語とイタリア語を流暢に話せることが役立った。
2006年7月にはブロンズ像が作られ「ジャック・フィンドレイ公園」と名付けられた故郷の公園に展示された[5]。像はスズキのマシンに乗ってマン島TTレースに勝利した時の姿を表している。
2007年5月19日、72歳で死去[6]。
ロードレース世界選手権での戦績
- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
脚注
関連項目
外部リンク