片山 義美(かたやま よしみ、1940年5月15日 - 2016年3月26日[1])は、日本の元レーシングライダー、レーシングドライバー。兵庫県出身。
1961年の第4回全日本クラブマンレース(2輪)でデビューし、350ccクラスで優勝。圧倒的な速さから「関西の怪童」の異名を取る。いわゆる「健二郎学校」(田中健二郎主宰のホンダ系チーム)を経てヤマハワークス入りし、国内レースに参戦。優勝など好成績を収めた。
1963年末にヤマハを離れ、スズキワークスに移籍。1966年からロードレース世界選手権(世界グランプリ)に本格参戦を果たし、1967年の50ccクラスで世界ランキング2位を獲得する(当時の日本人ライダーとして最上位)。50cc、125ccで数多くの優勝と入賞の実績を残すが、スズキが1967年限りで世界GP参戦を中止したため、世界GPでの活躍は終了した。
スズキと契約している時期に、4輪のマツダと2重契約する形になり、1964年の第2回日本グランプリで4輪レースにデビュー(マツダ・キャロル)。スズキでの世界GP出場と、マツダでの4輪レース活動が並行して行われる格好になった。
1960年代末以降はマツダでの4輪レースに専念し、主として欧州や東南アジアなどの海外レースで活躍。1967年のマカオグランプリではマツダ車で2位を獲得[2]。当時マツダが発売したばかりのロータリーエンジン車を駆り、耐久レースなどでロータリーの信頼性の高さを示す役割を果たした。
1969年末からは日本国内のレースに本格的に参戦。ロータリーマシンにより、当時ツーリングカーの王者だった日産・スカイラインGT-R打倒を目指す。片山をリーダーとするマツダ系ドライバーは、ファミリアロータリークーペ、カペラ、マツダ・サバンナRX-3とマシンを変えながらGT-R勢を追い上げ、1972年末にはGT-Rを圧倒した(ワークスGT-Rのレース参戦を中止に追い込む)。
また1960年代末から神戸市須磨区の「片山マツダスポーツ」を拠点に、カワサキワークス系オートバイレースチーム「木の実レーシング」を主宰。金谷秀夫、星野一義、片山敬済、歳森康師、江崎正、毛利良一などの門下生を育てた。
その後も富士グランチャンピオンレース、F2やFJ1300やFL500などのフォーミュラレース、デイトナ24時間レースやル・マン24時間レースなどの耐久レースで活躍する。弟(異父弟)の従野孝司もマツダのロータリーで活躍し、ロータリーブラザーズと呼ばれた。
マツダはル・マン用グループCカーのエンジンを3ローター・ターボと決定しかけていたが、片山が「耐久性と扱いやすさから4ローター・NAが有利」と進言。片山の意見が採用されたと雑誌のインタビューで語っている[3]。
長期間に渡ってトップドライバーとして活躍していたが、後年はプロのレーシングドライバーとしては体力が衰えてきた。1998年にはオークラロータリーレーシングよりGT300に参戦したが、目立った成績は残せなかった。
引退後、兵庫県三木市を拠点とする「カタヤマヨシミプロモーター」を設立、代表取締役社長を務める。「KY-PROMOTOR」ブランドのオリジナル商品も開発中。またマツダの新型車開発におけるテストドライバーを務め、マツダ社内テストドライバーの育成を手がけるなど、レースからの引退後もドライバーとしては現役であった。
2016年4月に入り、折より体調を崩していた中、3月26日に死去していたことがカタヤマヨシミプロモーターより公表された[1]。75歳没。