ランディ・マモラ (Randy Mamola, 1959年11月10日 - ) は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンノゼ生まれのモーターサイクル・ロードレースライダー。当時、500ccクラスに参戦していた4メーカー(ホンダ、ヤマハ、スズキ、カジバ)全てのワークスマシンを走らせた経験を持つ。
陽気な性格とジャックナイフ(画像参照)などの派手なパフォーマンスで、ファンや関係者に愛された人気者であった。引退後は国際中継のピットレポーターとして活躍している。現役時代より賞金を寄附するなどのチャリティー活動に熱心なことで知られる。
経歴
1979年に19歳の若さでロードレース世界選手権 (WGP)デビュー。各メーカーを渡り歩き、シリーズランキング2位4回など幾度もタイトル争いに絡みながら、ついにチャンピオンには届かなかった無冠の帝王。
1987年、ウェットレースとなった開幕戦の鈴鹿で圧倒的な速さを見せつけ、シーズン3勝を上げランキング2位になったが、ケニー・ロバーツからヤマハとの契約更新を断られ、行き場を失ったマモラは翌1988年、新興チームであったカジバに参加。マシンの戦闘力は著しく劣り、WGP新規参入のピレリタイヤとの相性の悪かったことから成績は芳しくなかったが、数回の表彰台にマシンを押し上げ、日本を含め各グランプリで前年同様の歓声を受けることとなった。
特徴
雨中など濡れた路面のレースに強く、非力なマシンでも何度も勝利を収め「レイニー・マモラ」の異名をもつ。コーナーでハングオフする際、外側のステップから足が離れる独特のライディングスタイルをとっており、当時日本のバイク好きの若者から「マモラ乗り」と呼ばれた。これは小柄なマモラがコーナーリング中の前輪への荷重を高めるために体を極端に前輪側、イン側へ預けていった結果、アウト側の足がステップから外れてしまったものである[1]。この変則的なライディングフォームが見られたのはホンダのNS500に乗っていた時だけで、この後ヤマハのマシンに乗った際にはオーソドックスなフォームに戻っている。
戦績
AMA
ロードレース世界選手権
- 1979年 - ロードレース世界選手権250ccクラス 4位 (ヤマハ)
- ロードレース世界選手権500ccクラス 8位 (スズキ)
- 1980年 - ロードレース世界選手権500ccクラス 2位 2勝〔ベルギー、イギリス〕(スズキ/ヘロンスズキ)
- 1981年 - ロードレース世界選手権500ccクラス 2位 2勝〔オーストリア、ユーゴスラビア〕(スズキ/ヘロンスズキ)
- 1982年 - ロードレース世界選手権500ccクラス 6位 1勝〔西ドイツ〕(スズキ/ヘロンスズキ)
- 1983年 - ロードレース世界選手権500ccクラス 3位(ヘロンスズキ)
- 1984年 - ロードレース世界選手権500ccクラス 2位 3勝〔オランダ、イギリス、サンマリノ〕(ホンダ/ホンダ・レーシング)
- 1985年 - ロードレース世界選手権500ccクラス 3位 1勝〔オランダ〕(ホンダ/ロスマンズホンダ)
- 1986年 - ロードレース世界選手権500ccクラス 3位 1勝〔ベルギー〕(/ラッキーストライクロバーツ・ヤマハ)
- 1987年 - ロードレース世界選手権500ccクラス 2位 3勝〔日本、フランス、サンマリノ〕(ヤマハ/ラッキーストライク・ヤマハ・チームロバーツ)
- 1988年 - ロードレース世界選手権500ccクラス 12位(カジバ)[3]
- 1989年- ロードレース世界選手権500ccクラス 18位(カジバ)[3]
- 1990年 - ロードレース世界選手権500ccクラス 14位(カジバ)[3]
- 1992年 - ロードレース世界選手権MotoGPクラス 10位(ヤマハ)[3]
1969年から1987年までのポイントシステム:
順位
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1
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ポイント
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8
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6
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5
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4
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3
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2
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1
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1988年から1992年までのポイントシステム:
順位
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1
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2
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3
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5
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13
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15
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ポイント
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17
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15
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13
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9
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7
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6
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4
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3
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2
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1
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- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
人物
ランディには両親と姉がいる[5]。趣味はオフロード走行、ジェットスキー。パドックではよく爆竹を鳴らして遊んでいた[2]。
ランディはビートルズのリンゴ・スター(ドラム)のファンである。ビートルズが初めてアメリカに上陸したときにファンになったのだが、そのとき、ランディはまだ5歳であった。父親にドラムセットを買ってもらい、8歳からの4年間はドラムのレッスンを受けていた。12歳になるとバイクにも心を奪われた。ドラムのレッスンを続けながら、週末にバイクレース、という生活を送っていた。もちろん、学校にも行き、宿題もこなした。しかし、これではさすがに多忙なため、ドラムのレッスンはやめることになった[2]。
ドラムのレッスンをやめてからはバイクレースに熱中し、12歳からの2年間で600本ものトロフィーを獲得し、優勝回数は400回である。その後、ヤマハと契約し、ダートトラックレースに参戦する。初優勝は125ccクラスのハーフマイル(約800m)レースであったが、優勝賞金はたったの20ドルであった。それでも、ランディはヤマハと契約しているプロのライダーである[6]。
マモラ一家はランディを中心に生活が営まれていた。両親はランディのためにバイクを衝動買いしてしまうこともあるぐらいであった。そのためランディは、姉に対して申し訳ないという思いがあり、両親が姉に車を買ってあげるときにはランディもお金を出した。その頃ランディは既にプロのライダーだったのでお金があった[5]。
ランディのメカニックは父親であった。ランディ17歳になるまでの5年間、ランディは父とともにレースを戦ってきた。WGPにアメリカGPがなかった頃、ランディはラグナ・セカのレースに出場したが、それは家族と再会し、楽しむ時間を持つためであった[5]。
ランディはAMAの全米選手権のチャンピオンを目指した。目標とするライダーはケニー・ロバーツである。ニュージーランドレースやマルボロシリーズで経験を積み、1978年にはヨーロッパへ渡り、ビモータのマシンでプライベートライダーとしてWGPに参戦する。しかし、ランディはビモータから離れることになる。その切っ掛けとなったのはビモータのマシンに装着されていたブレーキであった。ビモータのマシンにはイタリア製のブレーキが装着されていたが、ランディがデイトナやイモラのレースを走行中、ブレーキの消耗が激しいために、なんとレース中にブレーキの寿命が来てしまったのである。そのため、ランディはブレーキをヤマハ製に交換することをビモータに要求したが、その要求は受け入れられず、ビモータと離別することになった。ランディはそのことについて次のように語っている。
「イタリア人が昔っからイタリアが最高って気持ちもわかるけどさ」(ランディ・マモラ)[7]
しかし、ビモータとの離別がランディをジャコモ・アゴスチーニと引き合せることになる。ランディはチームメイトのマイク・ボールドウィンの練習用のヤマハ250ccでレースを走ることになった。その後、怪我をしたマイクの代理としてスズキ500ccでも走ることになる[8]。
その後もランディはケニー・ロバーツのチームでマイクとチームメイトになる。ケニーのチームにはトレーナーがおり、ランディはトレーナーが作成したプログラムにしたがって食事摂取やトレーニングを行っていた[9]。
ランディは1986年当時、地元のアメリカでWGPが開催されないことについて、片山敬済に次のように語っている。
「アメリカ人がずっとチャンピオンだっていうのに[10]、同国人でありながらボクたちを見ることができないなんて、あまりにも寂しいと思わない? 場所的にはヨーロッパ選手権みたいなものだね。今のGPは」(ランディ・マモラ)[5]
「来年(1987年)は日本でもGPが行なわれるよね。あなただって故郷の皆の前で走りたいと思うに違いないんだ」(ランディ・マモラ)[5]
その後、アメリカGPは1988年WGP第2戦としてラグナ・セカで開催された[11]。
ランディはレースを走る上での精神的な面については、大脳での思考によるもの、と考えており、爆竹を鳴らしたりする遊び心を持ちつつも論理的な思考の持ち主でもある[12]。
参考文献
関連文献
脚注
関連項目
外部リンク