内海 賢二(うつみ けんじ、1937年〈昭和12年〉8月26日[1][3][15][16] - 2013年〈平成25年〉6月13日[9])は、日本の声優、俳優、ナレーター。賢プロダクション会長。キャリア初期は、本名の内海 健司や内海 賢治(読み同じ)の名前で活動。
代表作には、『北斗の拳』のラオウや『魔法使いサリー』のサリーのパパ、『Dr.スランプ アラレちゃん』の則巻千兵衛などがある[9][17][18]。
福岡県北九州市出身[3]。5人兄弟の末っ子として生まれるが、幼い頃に両親を亡くし兄弟とは別れて育つ[3][4][11]。学校時代は演劇部に入ったことはなかったが、ただし、物を読んだり、漫画の本を読んだりすることは好きだった[4]。その頃、漫画の本がすくないことから、一冊持ってきて、皆の前で読んでいた[4]。国語の教科書を読むのが巧かったが、当時は役者になるとは思ってもいなかった[4]。中学時代は世界中を周る船乗りになりたく、野球選手にも憧れていた[19]。放送部に所属していた[19]。中学・高校には仕出し弁当店で住み込みで働き、夜間で通った高校では演劇部に所属[3]。
兄がNHK小倉放送局でラジオドラマのミキサーをしており、高校時代に何回か見学に行っていた[3][4][11][20]。高校3年生時の1955年、役者になろうという気は毛頭なかったが、それが縁で兄が勧めてもらったNHK小倉放送局の専属劇団に応募して合格[3][4][20]。入れたのは、「ただ人より声が大きい」というだけの理由であり、「あいつはヘタだけど、とりあえず声がでかい。声が出ることはいいことだ」とその原石を認めてくれた人物がいたことから入れたという[20]。ラジオドラマや朗読の仕事を始めるようになる[21][17]。やがて、福岡県に開局したばかりの九州朝日放送に移籍しKBCラジオの専属声優になった[17]。
だが、地方での仕事に限界を感じたことから、広告代理店の電通でテレビ映画制作の仕事をしていた友人を頼り1958年に上京[3]。その友人の紹介で、子供向けドラマ『熱血カクタス』(柴田秀勝主演)にて端役をもらい、続けて『海賊バイキング』ではナレーターを担当[3]。中央でのデビューを果たした[3]。当初は柴田が運営する新宿ゴールデン街で飲み屋でのアルバイトをしながら舞台俳優として里吉しげみ主宰の劇団未来劇場の公演などに出演していたが、飲みに来た演出家にスカウトされ吹替に参加[3][22][信頼性要検証]、自然と声優業が増えたという[23]。アテレコを始めた頃は、劇場で映画を見ながら声までは出さないが思わず口合わせており、映画を冷静に客観的に見られず嘆いていたという[21]。その後もフランス語、ドイツ語、ロシア語を吹き替える時、多少戸惑っていたという[21]。
アニメデビュー作は、1963年に放送された『狼少年ケン』での片目のジャック役[24]。東映動画初のテレビアニメであり、以降はアニメ声優でも草分け的存在になる。また、本人曰く「マルチな役者」を目指していたことで[24]、吹き替え出演やナレーターとしても活動し、以前からの舞台俳優としての活動のほか、1960年代から1970年代にかけては多くのテレビドラマにも顔出し出演している。
かつては、九州NHK放送劇団、未来劇場、東京アーティストプロダクション、東京俳優生活協同組合[7]、楡プロダクションに在籍した[14][21]。
1973年、『宇宙エース』や『マッハGoGoGo』での共演をきっかけに知り合った声優の野村道子と結婚。挙式は中村正夫妻を媒酌人として、アメリカ合衆国ハワイ州の白い教会で行われていたという[3]。当時所属していた事務所の社長が事故で死亡したが、しばらくは恩義があるため、その事務所に所属していた[7]。「多分これでもう社長への恩は返しただろう」ということで、退所[7]。その時に、「せっかく新しいところへ移るんなら、やっぱり映像の分野じゃなくて声の方がいいだろう、それだったら自分で事務所をやった方がいいかな」と考えて、1984年には賢プロダクションを設立[7][25]。自身のマネージメントとともに、野村の協力も得て後進の育成にもあたるようになる。これらの幅広い活動から、1980年代には長者番付に名を連ねたこともあった[26]。
その後も第一線で活動。長年に渡り多くのジャンルで貢献したことから、2009年に第三回声優アワード功労賞を受賞[27]。同年放送のアニメ『けんぷファー』と連動したラジオ番組『ラジオ けんぷファー 賢二と愛のわくわく臓物ランド』では初のアニラジレギュラーパーソナリティを務め、共に担当する中島愛との年齢差も含め話題となった[注 1][28]。
晩年は、50歳半ばに患った膀胱がんが再発したため闘病しながら活動を継続[29]。2013年6月13日午後3時1分、がん性腹膜炎のため東京都新宿区の病院で死去[9]。75歳没。葬儀と告別式は、6月20日に青山葬儀所で営まれた[30]。生前最後の出演は、同年7月に放送された『銀の匙 Silver Spoon』の轟先生役となった[31]。戒名は「泰岳賢映居士」[32]。
2014年、第8回声優アワード「特別功労賞」を受賞[33]。
2022年9月30日に、内海の仕事と偉業を追った映画『その声のあなたへ』が公開された[34]。
2023年3月29日には、生前の内海の声をCoeFontのAI技術で再現した朗読付き電子書籍「YOMIBITO Plus」が発売された[35]。
免許は第一種普通免許、小型船舶免許[14]。特技はゴルフ[14]。
車好きで、内海がスティーブ・マックイーンの吹替を担当していなかった頃のマックイーン主演映画『ブリット』を見て、その中に登場していたスタング・マッハ1について、「いつか必ずあの車を買おう」と思い、何年か後に本当に購入した[7]。モーターボードも買って乗り回していたという[7]。松本梨香によると、仕事終わりに内海の運転するベンツに乗せて貰った時は車内で大音量の演歌を流し「やっぱりベンツには演歌だよな!」と豪快に笑っていたなど、車に関する逸話を多数持っている[要出典]。
素晴らしいバリトンのユニークな声の持ち主[36]で、羽佐間道夫は「のどちんこをぶるぶる震わせるような声」と表現している[37]。張りと存在感のある低音を生かし、多くの作品に出演し活躍した[9][38]。テレビアニメの初期から活躍していた[7]。
方言は博多弁[12]。
役柄としては、渋味をたたえつつ野太くエネルギッシュなその声から、悪役から気のいいオジサン、三枚目、とびきりのセクシーボイス、ある時は冷酷なオトコ、ひょうきんな役まで、自由自在であった[7][19]。その個性的な声質から悪役を演じることも多く、内海自身も「人生において吹き替えた役の3分の2は、“悪”ですよ(笑)」と冗談交じりに語っている[23]。一方、コミカルな演技を活かす役を演じることも多かった[18]。吹き替えでは、スティーブ・マックイーンやサミー・デイヴィスJr.の担当声優として知られた[39]。また、黒人俳優を担当することが多かった[23]。
最初の持ち役はヴィクター・マチュアで、『荒野の決闘』をはじめ、多くのマチュア出演作で吹替を担当した[21]。
マックイーンを初めて担当したのが『荒野の七人』であった[21]。しかしマックイーンは抑揚がなく、ボソボソとした喋り方で演じにくかった上「黙っているポーズ、姿がいいときている」といったタイプの俳優であったことから、吹替には苦労した[21]。『ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦』でのマックイーンは難しく、プロデューサーからの「今までのマックイーンと離れてやってくれ」という注文で、失われつつある詩情を出そうと懸命に努めた[21]。演じ方としては語尾をソフトにして話すよう意識し、甘いムードの中に男らしさも盛り込めるよう工夫しており、ジュニア・ボナーは個人的には好きなタイプの人間で、西部劇も好きだったことから、苦労しつつもやりがいのあった仕事だという[21]。サム・ペキンパーが監督を務めていた映画は好きで全部見ていたという[21]。
NHK時代は可愛い声だったと述懐しており、KBCにいた頃は少年剣士役を演じていたという[20]。
007シリーズ吹替版では常連声優であった。6作で悪役を担当しており、悪役での最多登場を誇る[40]。『007 ロシアより愛をこめて』(シリーズ史上有数の存在感で知られるロバート・ショウを担当)と『007 死ぬのは奴らだ』では悪役をつとめ、それぞれTBSで吹替が再制作された時も、内海は交代なしで2バージョンとも同役をつとめた(『007 ロシアより愛をこめて』ではこの再制作の時にボンドの吹替声優も交代した)。『007 ダイヤモンドは永遠に』がTBSで新録された時(1990年)にはショーン・コネリーが演じたボンドを吹き替え、主役を務めた。また『007 リビング・デイライツ』(TBS版)で悪役だったジョー・ドン・ベイカーを担当、『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』(フジテレビ版)ではボンドの相棒役となったベイカーを再び吹き替え、作品・制作局・役柄が異なる中、同じ俳優の吹替に配役される経験もしており、最後の007シリーズ吹替だった『007 慰めの報酬』(同作のみソフト用新録)まで、ジョージ・レーゼンビー以外の全ボンド俳優の主演作品に出演、幅広い役柄で長くシリーズを支え続けた。シリーズ番外編『ネバーセイ・ネバーアゲイン』でも悪役をつとめている。
後輩の神谷明は内海について、「明るい」「元気」「豪快」「格好良い」「気っぷが良い」「情熱家」「器がでかい」という言葉がぴったりだと述べている。一方で、「シャイ」「繊細」「細やかな心遣い」という、普段のイメージとは若干異なる部分もあったという[41]。
現場では明るくムードメーカーな存在だったといい、戸田恵子は「あのお声であのお顔立ちで恐い人なのかな?と思いきや、その真逆」と語っている[42]。派手でオシャレが好きであり、葬儀では祭壇に内海愛用の帽子コレクションが並べられた。戸田恵子とはよくファッション談義もしたという[42]。その性格から多くの仲間や後輩に慕われていた。
谷山紀章が事務所に入った時の内海に対する第一印象はその強面な風貌から「(内海の愛車であった)ベンツからあの風貌の男が降りてきちゃダメだろう」というものだった。その一方で谷山も内海の人柄に魅了された一人であり、自らを「内海賢二の子分」と自任しており、生前は「ボス」と呼んで慕っていた。内海逝去後も「僕のボスは後にも先にも内海賢二だけです」と公言しており、インタビューなど公な取材の場でも内海に対して「社長」でもなく「内海さん」でもなく「ボス」という言葉を使っている[43]。
古川登志夫は、優しかった先輩として内海の名を挙げている。古川が現場でダメ出しをされて落ち込んでいる時、帰り際に「おい、登志夫、ちょっとお茶でも飲もうか」と誘い、「きついこと言われてたけどね、あの演技で良かったと思うよ。」と慰める言葉をかけてくれたという[44]。
一つ一つの仕事には全力投球だったといい、非常に真摯であった。
声優として幸せなことには「媒体を問わず色んな役柄が出来ること」と答えている。演技については「ハートが大事!」と語っていた[24]。吹き替えでは、元の役者の声や芝居に似ているかより、その役の中身を考え演じている[23]。
アニメの難しさに声によって画が生きるか死ぬかが決まること、吹き替えの難しさに俳優の演技と吹き替えの声のお互いの相乗効果で作っていくことを挙げている。また、共演者との演技のバランスにも留意していたという[23]。
神谷明によると、『北斗の拳』でのケンシロウとラオウの最終決戦の収録の際は、にこやかな普段と違い「そばにも寄れないほどの厳しさでオーラを放っていた」とのことで、その時はスタジオ中が緊張感に包まれていたという[41]。
過去は振り返らないようにしており、常に新しいことへ挑戦する姿勢だった[45]。インタビューで「ベテラン・若手から吸収したいものは?」と聞かれた際は「良いセンス、芝居心、年に関係無く」と答えている[24]。
生前は生涯現役の意向を持っていた[24]。最晩年は健康状態の問題からオファーを辞退することもあったが、「どうしても内海さんに」という仕事も多く、本人の意向もあり死去の10日前まで仕事を続け、救急搬送された死去の5日前にも収録のためNHKに出かけていたという[注 2][46][29]。
八奈見乗児は、九州時代からの先輩であった[3]。上京した内海は住むところがなく、新婚だった八奈見のアパートに転がり込んだという[3]。また、『熱血カクタス』の主演だった柴田秀勝は、自身の経営するバーの2階を内海の下宿に提供し、その上アルバイトのバーテンとして内海を雇った[3]。内海は声優として駆け出しの頃に面倒を見てくれたこの2人の先輩への感謝を忘れなかったという[3]。
飯塚昭三とは「昭ちゃん」と「賢坊」と呼び合うほど親交が深かった[5]。
『新造人間キャシャーン』のブライキング・ボス役は、他のキャストが作品別で入れ替わる中、一貫して内海が担当していた。
今まで演じた中で一番好きな役に、『パピヨン』でのスティーヴ・マックィーンの吹き替えを挙げている[24]。マックィーンの吹き替えは、宮部昭夫と分け合う形で担当した持ち役の一つで「演じてきた中で唯一の二枚目であり、自身のアテレコ史の頂点である」と述べている[47]。またそれが縁で『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』ではスティーヴ・マックィーンがモデルの役を1分に満たない出演ながらも受諾している。
かつて野沢雅子らと共に、アニメがビデオ・DVD化された際の使用料の支払いを求める訴訟を起こし、勝訴している。
「もし年齢が20歳若ければ、ジョニー・デップの吹き替えを担当してみたい」と語ったことがある[23]。
妻の野村道子とは多く夫婦共演している。また、1984年に賢プロダクションを設立した際、経営面に不慣れな内海は次第に過労のため、誰の目にも明らかなほどに憔悴[7][48]。この時、野村は役者仲間の助言もあり同プロダクションへ移籍[7][48][49]。声優業の多くはそれまでの持ち役に絞り経営面で尽力するなど、公私共に内海を支える片腕となった[48][49]。
長男は所属する賢プロダクション社長の内海賢太郎[50]。アニメ『ブラック・ジャック21』の第1話では、自身が演じた友引警部の息子の名前を「賢太郎」と呼んでいる[注 3]。
少年隊の錦織一清とは、ミュージカル『ゴールデンボーイ』で共演したことがきっかけとなり交遊があった。2010年12月4日『中野サンプラザ座長公演 水樹奈々大いに唄う 弐』ではナレーションを担当した。
太字はメインキャラクター。
2014年以降の出演作品は生前の収録音声を引用したライブラリ出演。
内海の死後、持ち役・ナレーションを引き継いだ人物は以下の通り。ただし、声優を総入れ替えした作品については対象外としている。
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