毛利 元義(もうり もとよし)は、江戸時代後期の大名。長門国長府藩11代藩主。
生涯
第10代藩主・毛利匡芳の長男として江戸で生まれる。母は宝珠院(右大臣西園寺賞季の娘)。寛政4年(1792年)、父の死去により跡を継ぐ[1]。武芸や儒学を奨励して、藩校敬業館の充実や有能な人材登用に努めた[1]。しかし次第に藩政から逃避し始め、もともと優れた才能のあった絵画に溺れて藩政を省みなくなり、藩財政を極度に悪化させた[1]。
文政13年(1830年)9月、長州本藩の江戸屋敷を訪れて、位階昇進の幕府に対する執り成しを申し入れる。同年11月、本藩は老中水野忠成に元義の位階昇進の内願書を提出するものの、この年の昇進は実現しなかった。天保5年12月16日(1835年1月14日)に従四位下に昇進するが、一代限りとの申し渡しを受ける。
天保12年9月21日(1841年10月24日)、三男の元運に家督を譲って隠居し、天保14年4月5日(1843年5月4日)に江戸において死去した。享年59[1]。
鹿津部真顔に師事した狂歌師であり[2]、清元節「梅の春」を作詞する[1]など文化人としては高く評価されており、元義の代の長府では狩野芳崖や諸葛函渓、度会東明といった多くの文化人が生まれている。また、享和元年(1801年)には長府藩の御用絵師を狩野・笹山・度会・諸葛の4家とした。
系譜
- 父:毛利匡芳(1758年 - 1792年)
- 母:宝珠院 - 西園寺賞季の娘
- 正室:光容院 - 細川利庸の娘
- 側室:駒田氏
- 室:林香院
- 室:水野氏
- 生母不明の子女
出典
参考資料
毛利氏 長府藩11代藩主 (1792年 - 1841年) |
---|
|