毛利 元運(もうり もとゆき)は、江戸時代後期の大名。長門国長府藩12代藩主。
経歴
11代藩主・毛利元義の三男として江戸にて誕生。幼名は雅之助。
文政10年(1827年)、兄の元寛が早世したために長府藩嗣子となる。天保2年(1831年)に叙任して左京亮と称し、天保12年(1841年)9月21日の父の隠居により跡を継いだ。藩政では節約や海防警備、軍事力の強化に努めた。嘉永5年(1852年)閏2月27日、江戸で死去し、跡を甥(元寛の子)で養子の元周が継いだ。法号は賢徳院殿荷覚観汀大居士。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺、山口県下関市長府の功山寺。
死因に関して
喜多村信節の安政年中の著作「ききのまにまに」では、死因は自殺であったと記載している。同じ柳間席の某大名を無理に誘って品川にて遊興し、それを役筋に咎められたのを苦に自害したとしている。また、実は家老が元運を殺害し、後追い自殺をしたという風説も流れたとされる。
系譜
- 父:毛利元義(1785 - 1843)
- 母:林香院
- 正室:欽子(1817 - 1900) - 土屋彦直の娘。法名は欽麗院。
- 生母不明の子女
- 養子
参考文献
毛利氏 長府藩12代藩主 (1841年 - 1852年) |
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