毛利 元矩(もうり もとのり)は、江戸時代中期の大名。長門国長府藩5代藩主。
略歴
3代藩主・毛利綱元の四男として江戸にて誕生。幼名は仁八郎。初め氏姓を那波、後に毛利に復す。
始め那波姓を称したのは、先祖大江広元の三男政広(宗元)が上野国那波郡の地頭となり那波氏を称したことに由来し、末子であるので毛利を称するのを遠慮したためである。
正徳2年(1712年)10月23日、甥で先代藩主の毛利元朝(長兄・吉元の長男、すなわち甥であるが元矩より1年年長)が毛利元陳の死去を受けて、本家・長州藩の世子になったため、元矩が養嗣子として長府藩の家督を継いだ。しかし享保3年(1718年)3月20日、15歳で江戸にて早世する。嗣子はなく、跡を支藩の長門清末藩主だった匡広が継いだ。
法号は玄隆院殿道聡徳融大居士。墓所は山口県下関市長府の功山寺[1]、東京都港区高輪の泉岳寺のちに豊功社[注釈 1][2]。
系譜
- 父:毛利綱元(1651-1709)
- 母:貞性院
- 正室:なし
脚注
- ^ 神社合祀により豊功社を忌宮神社境内から移して、それまであった櫛崎・松崎・宮崎の各神社を合祀し、現在の豊功神社となる。
出典
- ^ 『長府毛利下関商工会議所』「黄檗宗法輪山覚苑寺 15」<下関市>
- ^ “豊功神社のご案内”. 下関市公式観光サイト. 2023年11月30日閲覧。
関連項目
毛利氏 長府藩5代藩主 (1712年 - 1718年) |
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