毛利 匡芳(もうり まさよし)は、江戸時代中期の大名。長門国長府藩10代藩主。官位は従五位下・甲斐守。
略歴
長州藩主毛利重就(元は長府藩8代藩主・毛利匡敬)の五男として江戸にて誕生する。宝暦11年(1761年)正月9日生まれとする説もある。幼名は政次郎。諱は始め匡豊、のち匡芳に改めた。
明和6年(1769年)、兄で先代藩主の毛利匡満が嗣子なくして若死にしたため、跡を継いだ。安永3年(1774年)12月に叙任する。天明3年(1783年)5月、父・重就による幕府への嘆願で城主格となった。節倹条例や奢侈禁止令を出して藩財政を再建し、さらに文武発展を目指して藩校・敬業館を開いた。
寛政4年(1792年)6月18日、江戸にて死去し、跡を長男の元義が継いだ。法号は功篤院殿哲嵓良壽大居士。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺、山口県下関市長府の功山寺。
系譜
- 父:毛利重就(1725年 - 1789年)
- 母:留楚(? - 1810年) - 瑞順院、武藤氏
- 正室:宝珠院 - 右大臣西園寺賞季の娘
- 側室:鏡貞院 - 西園寺賞季の娘
毛利氏 長府藩10代藩主 (1769年 - 1792年) |
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