毛利 広豊 (もうり ひろとよ)は、江戸時代中期の大名。周防国徳山藩5代藩主。第3代藩主・毛利元次の三男。兄は第4代藩主・毛利元堯。毛利輝元の男系の曾孫にあたる。
生涯
宝永6年(1709年)4月4日、徳山藩第3代藩主・毛利元次の三男として、江戸三田の徳山藩邸で生まれる。
享保元年(1716年)4月、徳山藩改易と同時に麻布の萩藩邸に移り、次いで国に帰り、兄・元堯と共に萩へ赴き、徳山藩再興までの3年間を過ごす。
享保6年(1721年)2月11日に兄で第4代藩主の元堯が早世したため、その養子として跡を継ぎ、諱を「広房」と改める。しかし、実際にはまだ元服の年齢に達してはいなかったため、幕府には宝永2年(1705年)生まれの17歳と公年を届け出る。同年12月18日、従五位下に叙せられ、翌日、但馬守に任じられる。
嗣封の初めはまだ幼少だったため、長府藩主の毛利匡広がその後見役として、しばらく政務を預かることとなる。享保7年(1722年)11月16日、「広豊」と改名。享保8年(1723年)、徳山藩再興の時に萩藩から派遣された井原元歳らが萩へ引き揚げる。
享保9年(1724年)12月12日、摂津国尼崎藩主・松平忠喬の娘である雲鏡院との縁組を幕府に認められ、享保11年(1726年)8月25日に婚姻したが、雲鏡院は享保15年(1730年)12月3日に死去。
享保18年(1733年)8月19日、陸奥国相馬中村藩主・相馬尊胤の妹との縁組を幕府に認められたが、婚姻前の元文4年(1739年)4月23日に死去している。
延享4年(1747年)9月5日、但馬守を改め、山城守に任じられる。
宝暦8年(1758年)4月8日、次男の広寛に家督を譲って隠居する。明和5年(1768年)12月7日、「茅山」と号す。
安永2年(1773年)10月29日に下松の別邸で死去し、徳山の大成寺に葬られる。享年65だが、公には享年69である。
系譜
非常に多くの子供をもうけている。
- 父:毛利元次(1668年 - 1719年)
- 母:良寿院 - 父・元次の側室。名は津礼子。寛延2年1月30日(1749年3月18日)に死去。
- 養父:毛利元堯(1702年 - 1721年) - 徳山藩4代藩主。異母兄。
- 正室:雲鏡院 - 摂津国尼崎藩主・松平忠喬の娘。享保15年12月3日(1731年1月10日)に死去。
- 家女房:重子
- 家女房:蝶子
- 家女房:八千代 - 初名は喜代子。
- 家女房:常子
- 家女房:清光院 - 名は縫殿。宝暦元年4月10日(1751年5月5日)に死去。
- 次男:毛利広寛(1735年 - 1764年) - 徳山藩6代藩主。
- 家女房:為子
- 家女房:掃部
- 家女房:浪江
- 家女房:元子
- 家女房:槇尾
- 家女房:斉宮
- 家女房:美保子
- 九男:吉川経倫(1746年 - 1803年) - 初名は毛利豊房。岩国領主・吉川経永の養子となり家督を相続する。
- 家女房:縫殿
- 家女房:藤野
- 家女房:美代野
- 家女房:歌子
- 家女房:伊保子
- 家女房:佐世子
- 家女房:婦美子
- 二十男:某 - 宝暦9年6月5日(1759年6月29日)に江戸の今井谷邸において出生したが、同日に死去。江戸麻布の春桃院に葬られる。戒名は幻雲童子。
- 家女房:古武
- 家女房:際子
- 家女房:磯子
- 家女房:千恵子
脚注
注釈
出典
参考文献
毛利氏 徳山藩5代藩主 (1721年 - 1758年) |
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下松藩 |
- 毛利就隆1617-1650
- 藩庁を野上(徳山)に移転
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徳山藩 | |
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