清浄華院(しょうじょうけいん)は、京都市上京区にある浄土宗の大本山の寺院。呼称は院号のみで、山号・寺号はない。本尊は法然上人御影。浄土宗七大本山の一つであり、同宗の京都四ヶ本山(他に知恩院、百万遍知恩寺、金戒光明寺)の一つである。寺伝によれば平安時代に清和天皇の勅願により円仁が開基したとされる。法然上人二十五霊場第23番札所。2021年(令和3年)5月26日時点での法主は飯田実雄。
『清浄華院誌要』によれば、貞観2年(860年)、円仁(慈覚大師)が清和天皇の勅願により宮中に建立した仏殿・禁裏内道場として発足し、当初は円(法華経)密(密教)浄(浄土教)戒(戒律)の四宗兼学の寺院であったという。後白河天皇・後鳥羽天皇・高倉天皇の三天皇に授戒した浄土宗祖・法然がその功績により当院を下賜され、以後浄土宗寺院となったと伝える。このため円仁を開創開山、法然を改宗開山として仰いでいる。ただし、宮中における創建については『日本三代実録』『日本紀略』になく、法然が当院を下賜された旨も法然伝にはみえない[1]。
皇室の帰依篤く当初より現在まで御所の近くに有り続けたため、都以外に伽藍を構えたことがないことから「山号がない」とされている。
清浄華院の存在が史料によって裏付けられるのは鎌倉時代以降であり、鎌倉時代末期の向阿証賢(是心とも、1265年 - 1336年)が事実上の開基である[2]。向阿は乾元2年(1302年)兄弟子・専空より三条坊門高倉(現・中京区御池高倉御所八幡付近)の専修院(専修念仏院)を伽藍や本尊ごと譲り受け、のちに「浄華院」と改称したことが同年3月15日付けの文書から確認できる[3][4]。近世以前の史料中では「浄華院」あるいは「浄花院」と記述されることが多く、これが本来の院名だったと推定される[2]。
少なくとも元弘3年(1333年)頃には浄華院という名称を用いるようになっているが、この浄華院が寺伝通り法然が賜った禁裏内道場の後身であるのか、向阿が自身が創建したものなのかは議論が分かれている。
向阿は初め園城寺(三井寺)にて出家したが名声を厭い礼阿然空の下で浄土門に帰し、仮名法語『三部仮名抄』を著すなどして布教に励み、師の然空とともに鎮西派の京都再定着に大いに貢献した人物である。亀山天皇皇子・恒明親王や三条実重など貴顕の帰依を集めた向阿の活躍により、清浄華院は丹波国や越前国西谷庄などの所領を持っていたことが分かっている。また伽藍も京都の中心地に構えられていることから、当時よりそれなりの勢力をもつ寺院であったことがうかがえる。
その後、清浄華院は14世紀中頃の玄心の時に土御門室町(現・京都市上京区元浄花院町付近)に移転する。この移転は三条坊門殿に住んでいた足利直義が、暦応2年(1338年)に持仏堂的な寺院として等持院を建立、邸宅に隣接していた清浄華院の敷地を接収したためと考えられている。ただし、等持院は暦応4年(1341年)に足利尊氏が後醍醐天皇の供養のため創建したとの説もあり、また清浄華院の敷地が接収されたのは等持院の鎮守御所八幡宮創建時であった、室町移転前に二条萬里小路へ一度移転したなど諸説あるが、少なくとも観応2年(1351年)には土御門室町の地に移転を果たしていたことが分かっている。移転先は昭慶門院が世良親王に譲った御所、土御門殿跡と伝えられている。『増鏡』に昭慶門院の「土御門室町にありし院」が「この頃は寺に成りて」という記事が見え、この「寺」は浄華院のことを指すと考えられている。
いずれにしろ清浄華院は室町時代を通して京のメインストリートであった室町通に面して境内を営み、土御門東洞院殿や室町第に程近い政治と文化の中心地に伽藍を構えた。土御門通(現上長者町通)は平安京の一条大路にあたり、清浄華院の門流は以後鎮西一条流と称された。(これ以前は三条坊門高倉という立地から三条流と称したともされる[5]。)
応安元年(1368年)には八世・敬法の弟子の良如が越前敦賀の西福寺を建立しており門末寺院を擁する一山組織を形成していたことがうかがえる。また天台僧であった隆尭は向阿の著作に感銘を受け一条派に帰し、応永20年(1413年)に近江金勝阿弥陀寺を建立、一条派の僧として執筆活動を盛んにおこなっており、京都のみならず地方にも教線を伸ばした。
京都での立地も幸いして室町時代には皇室や公家はもちろん、幕府や武家の帰依を受けるようになり、特に称光天皇と足利義教より篤い帰依を受けた佛立恵照国師等熈は鎮西派浄土宗初の香衣と国師号の勅許を得ている。これは等熈の称光天皇の臨終善知識を務めた功績と、清浄華院が伝える円頓戒脈と鎮西派法脈が正統として評価されたことによる。さらに等熈は義教の将軍就任以前からの知己であったことにも由来すると考えられている。 このあたりの事情は檀越の一人で等熈と親しい関係にあった万里小路時房による『建内記』に詳しい。時房は等熈の師である第九世・定玄の甥として扶養を受けたといい、檀越として殊の外清浄華院の興隆に尽力した。当時の有力檀越としては幕府政所執事の伊勢家や、正親町三条家、日野家、山科家、甘露寺家などが知られる。
近年の研究では、泉涌寺を拠点として活躍した律僧無人如導は、四世礼阿然空の弟子・良智より鎮西一条流を相承、布教し、その信徒は彼の号を採って「見蓮上人門徒」と呼ばれた。入宋求法により俊芿が伝えた泉涌寺の北京律は当時最先端の仏教として持て囃され、そこにさらに鎮西儀の念仏を併修する「見蓮上人門徒」は、当時の貴顕の信仰を集め見を通字とする見号を名乗るものが多かった。その最新とされた律の教えが当時の浄土宗の弱点であった威儀戒律を補うものとなり、見蓮上人門徒が媒介する泉涌寺との交流が清浄華院の興隆の一助となったとする説がある。[6]
等熈の活躍によりこの頃の清浄華院は隆盛の絶頂を迎えており、「鎮西一流之正脈(『建内記』)」の本山とも称された。当時の公家の日記や諸史料には、まさに浄土宗鎮西派の筆頭寺院として振る舞う清浄華院の様子が記されている。 室町時代の浄土宗は幕府が帰依した禅宗等に比べれば小さな勢力であり、教団としても他宗に寄寓している「寓宗」として見なされていた。法然門下教団内では当時西山派に連なっていた廬山寺や二尊院が天台宗の影響下で貴顕の帰依を得て勢力を持っていたものの、鎮西派として朝廷や幕府による庇護を受けて本山の格式を有した寺院は清浄華院の他にはなかったのである。蓮如の親族なども清浄華院の門末寺院で僧侶となっていたことが知られており、法然門下教団の有力寺院として活動していたことがわかる。
しかし、応仁の乱が勃発すると緒戦にて室町第攻防のため戦火に包まれ度重なる戦闘により荒廃し、以後長享元年(1487年)まで伽藍を再建出来なかった。しかしこの頃はいまだ他山の香衣参内や将軍拝賀には当院の仲介と同道が必要とされていたし、また16世紀に遡る洛中洛外図(歴博甲本・上杉本・東博模本)にも当院の伽藍が描かれており、一定の権威と寺勢を保っていたことがうかがえる。
しかし戦国時代の混乱の中で朝廷や幕府の権威が失墜し、織豊政権、徳川幕府と政権が移り変わっていくにつれて、かつての繁栄は失われていくことになる。天正年間(1573年 - 1592年)に豊臣秀吉の京都都市計画により現在地へ移転。この頃清浄華院は末寺統制に苦慮し、特に清浄華院にて活躍後に金戒光明寺(新黒谷)へ転住した道残の離反の影響は大きく、この時期に寺勢は著しく衰えたとされる。そんな清浄華院の衰微とは対照的に、鎮西派内では「寓宗」から抜け出さんがため伝法形式を革新した関東系の白旗派や名越派が京都へ進出し始め、また京都でも百万遍知恩寺や知恩院が本山としての寺勢を整えていくこととなった。
江戸時代に入って以後も大本山としての権威は保たれることになったものの、幕府の朝廷統制が厳しくなる中で皇室との公的な関係は次第に断たれていくこととなり、戦国時代の満蓮社三休上人以来許されてきた紫衣勅許も、江戸幕府の帰依を得て総本山となった知恩院の仲介が必要となり、勅命により晋山してきた住持職も台命勅許(幕府が命じ朝廷が許す)という形を取るようになっていった。宗内でも総録所・増上寺の統括の下で鎮西派教団の組織化が図られた結果、「引込紫衣地」と呼ばれる檀林などの修学(出世)階梯から外れた権威的な寺院として位置付けられることになった。
しかしながら皇子・皇女の墓が数多く営まれるなど皇室との関係は続き、皇室帰依の寺院として権威を保ち続けた。これは天皇の皇子が早逝すると母方の実家の菩提寺に葬られる習慣があったためで、当院の檀家には公家が多く、檀家出身の娘達が産んだ皇子たちの墓がここに営まれたことによる。天皇の母となった檀家の敬法門院や開明門院の墓も当院の境内に営まれている。敬法門院の子・京極宮文仁親王は常磐井宮を相続して京極宮を名乗り、以後清浄華院は京極宮家(桂宮)とは親しい関係を持った。
当院と師檀関係を持った公家には、万里小路家、山科家、東園家、姉小路家、甘露寺家、松木(中御門)家、嵯峨(正親町三条)家、堤家、山本家、下冷泉家、六角家、坊城家、錦織家、玉松家等がある。立入家など地下家や宮家の諸大夫、家司、地下役人の檀家も多かった。
伽藍は寛文年間(1661年 - 1673年)の火災や、宝永の大火、天明の大火などで焼失・類焼しているが、その都度御所の用材を下げ渡される形を取って再建されている。そのため斗栱などほとんど用いない御所の格式と同様の建築物を誇った。
宝永5年(1708年)に境内の東にあった御土居薮が江戸幕府から下げ与えられ、後に切り開かれて墓地とされた。
また御所に近いことからしばしば上洛する幕府要人や大名の宿所となり、享保年間(1716年 - 1736年)には徳川吉宗に献上されるためベトナムから渡来したゾウ(従四位広南白象)の宿所にもなっている。将軍上洛警護や治安維持のために諸藩の藩士が多数上洛した幕末には、御所警備を担当した肥後国熊本藩や阿波国徳島藩、薩摩藩、会津藩などの藩士の宿所となった。特に会津藩は藩主松平容保が半年ほど逗留した。
明治時代に入ると明治初年まで戊辰戦争の薩摩藩の陣所の一つになった他、廃仏毀釈や浄土宗内の混乱、そして失火で伽藍を焼失するなど災難が続いたが、1911年(明治44年)の法然上人七百年大遠忌には伽藍を再興、現在に至っている。
82代法主の真野龍海が2018年(平成30年)末に2期8年の任期満了を迎えた際、次の法主を巡って清浄華院と浄土宗が対立。結局、法主は空位の状態になり、これを不服とした清浄華院が一時宗派離脱の動き見せたが周囲の説得を受けて撤回、しかし宗派側が寺側関係者を宗内の懲戒機関の審判にかけ、懲戒審議中のため法主選任の会議「浄土宗門主・法主推戴委員会」を開かないとするなど混迷を深めた。続投の意志を表明していた真野は2019年(令和元年)9月9日に97歳で遷化(死去)[7]。2年以上の法主空位期間を経て、2021年4月に双方で覚書が取り交わされ、同年5月26日の浄土宗門主法主推戴委員会が開催され飯田実雄(長野県駒ケ根市安楽寺住職)が全会一致で選任された。
皇室帰依の由緒により、皇室の紋章・菊花紋を許されてきたが、明治以降は皇室の権威に遠慮して菊花に葉をかけた「葉菊紋」を寺紋としている。
現在も皇室由緒寺院として天皇皇族の京都御所還幸啓の際には当院法主も御所へ御出迎えに出るのが慣例となっている。
二十八墓という名称だが実際には二十九墓ある。
()内は何代目かを記す