姉小路 定子(あねがこうじ さだこ、享保2年7月18日(1717年8月24日) - 寛政元年9月22日(1789年11月9日))は、江戸時代中期の女性。桜町天皇の典侍で、桃園天皇の母。父は参議・正四位上姉小路実武。女房名は権典侍、宰相典侍、大典侍、また三位局とも。女院号は開明門院で、法名は哲堂。
生涯
享保13年(1728年)3月ごろに東宮上臈として出仕。延享4年(1747年)5月1日に従三位。桃園天皇の急死後、同天皇が青綺門院(二条舎子)を「実母」としていたため処遇に問題が発生[注釈 1]し、稀な例ではあるが、准三宮を経ないで宝暦13年(1763年)2月1日に院号宣下を受ける。天明2年(1782年)2月に剃髪し、寛政元年(1789年)9月22日、72歳で逝去。墓所は京都市上京区の清浄華院(菩提所は塔頭の松林院)。
脚注
注釈
- ^ 桜町天皇は摂家との関係を安定させるため、天皇の「実母」は摂家の后妃として外戚を摂家に独占させる方針を出して、実際に天皇を生んだ女性については当人(この場合には定子)では無く家族を要職で就けることで見返りにしようとした(兄の姉小路公文は桃園天皇への譲位と同時に議奏に抜擢され、後に武家伝奏に就いている)。ところが、宝暦4年(1754年)に二条宗基が28歳で急死して4歳の重良が後を継ぐと二条家の外戚としての実態が失われてしまったために、摂政の一条道香は姉小路実武への贈官と定子への准三宮宣下を計画するものの、青綺門院の反発により断念に追い込まれている[1]。
出典
- ^ 林大樹「宝暦事件の基礎的考察」『天皇近臣と近世の朝廷』(吉川弘文館、2021年) 2021年、P276.
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