毛利 元秋(もうり もとあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利家の家臣。毛利元就の五男。通称は少輔十郎。官途は刑部大輔。
生涯
天文21年(1552年)、安芸国の戦国大名・毛利元就の五男として誕生した。母親は側室の三吉氏(備後国の国人・三吉氏の出身)。
弘治2年(1556年)から始まる毛利家の防長経略で大きな戦功を挙げた周防国国人・椙杜隆康に実子が無かったため、父・元就の命によって元秋は椙杜家へ養子に入った。
永禄9年(1566年)に月山富田城の尼子義久が毛利氏に降伏すると、月山富田城には福原貞俊や口羽通良ら毛利の重臣が在番していたが、福原貞俊や口羽通良をいつまでも在番させるわけにはいかなかったため、元就は豊前国京都郡の松山城の城将を務めていた天野隆重を月山富田城の城将に起用した。隆重はその責任の重大さから固辞し、城将を元秋として自分はその補佐役を務めることを願い出た。しかし、元秋がまだ15歳であったことから、元就はあくまで隆重が城将を務めるように説得したため、隆重は3つの条件[1]を提示して容認されたことで城将を引き受けた。
永禄11年(1568年)6月10日、元秋は月山富田城への在番を申し付けられ、出雲国に3500貫を与えられた[2]。元秋は同年6月12日に起請文を提出し、毛利氏への忠誠と一層の努力を誓うと共に、輝元が元秋に対して憐愍を垂れるよう要請した。しかし、間もなく毛利家は九州に出陣(立花城の戦い、多々良浜の戦い)することとなったため、元秋の月山富田城への入城は延期されることとなる。
毛利家が九州へ出陣した隙をついて、永禄12年(1569年)から翌年にかけて、出雲奪還と尼子家再興を狙う山中幸盛・尼子勝久らによる出雲侵攻や、大内輝弘の乱が起こる。尼子軍に攻められた月山富田城の天野隆重は兵数の少なさを勘案し、永禄12年(1569年)11月3日に長門国の長府に在陣している小早川隆景へ救援を要請した上で月山富田城に籠城し、尼子再興軍に抵抗した。同年10月25日に既に大内輝弘を討っていた輝元らは直ちに安芸国へ帰還し、永禄13年(1570年)1月6日に輝元を総大将として出雲へ出陣。元秋も輝元に従って月山富田城を救援し、毛利軍は逆襲に転じて尼子再興軍を打ち破った。これによって、元秋は月山富田城の城将を命じられた。なお、月山富田城将となったことで椙杜家との養子縁組を解消し、毛利元秋または在名から富田元秋と名乗ったとされる。
天正6年(1578年)2月に播磨の別所長治が毛利家に服属したため、吉川元春と小早川隆景が先鋒として播磨へ出陣する。元秋は元春の軍に属して従軍し[3]、上月城の戦いに参加した。
天正13年(1585年)5月3日に月山富田城において34歳で病死した。墓所は月山富田城近くの宗松寺跡。元秋の死後間もなく元秋の庶子である千満丸も死去したため、元秋の遺領は同母弟の末次元康に受け継がれた。
元秋の子女
元秋の男子には、庶子である千満丸がいる。『閥閲録』巻57「蜷川権左衛門」に収められた蜷川家の家譜において、元秋付きの家臣であった蜷川秋秀の事績の中でその存在が記されており、天正13年(1585年)に元秋が死去すると、蜷川秋秀は元秋の庶子に千満丸がいることを毛利輝元に言上して赤川就武と共に千満丸付きの家臣となったが、千満丸は3歳の時に疱瘡で死去したと記されている。
一方で元秋には女子もおり、『近世防長諸家系図』掲載の厚狭毛利家の系図にも記録が残っているが、病人であったために嫁がず、従兄弟にあたる毛利元宣を養育したとされている。母親及び本名は不明であるが法名は「梅仙院雪窓妙好」とし、万治2年12月4日(1660年1月16日)に死去し、養育した元宣らと同じ長門国厚狭郡宝珠山に葬られた。
なお、同系図には、元秋の妻にあたる三沢為清の娘や庶子の千満丸に関する記述はない。
家臣
脚注
参考文献