毛利匡邦

 
毛利匡邦
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦11年10月2日1761年10月29日
死没 天保3年10月7日1832年10月30日
改名 寅之進(幼名)、匡邦
別名 政美
戒名 常明院少翁如林
墓所 東京都港区白金台の瑞聖寺
官位 従五位下讃岐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
長門清末藩
氏族 毛利氏
父母 毛利政苗、妙心院
兄弟 元貞匡邦毛利広圓正室、冷泉為栄室、織田輔宜継室、戸川逵恒正室、桂厳院ら
毛利重就娘長子吉田良倶娘慈明院日野資矩養女寂照院
木村氏
匡民毛利元義養女、政明
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毛利 匡邦(もうり まさくに)は、長門国清末藩4代藩主。

生涯

宝暦11年(1761年)10月2日、第3代藩主・毛利政苗の七男として江戸で生まれる。兄たちが次々と早世したため、宝暦13年(1763年)2月に世子となり、安永4年(1775年)7月29日の父の隠居で家督を継いだ。12月に従五位下、讃岐守に叙任している。

藩政においては天明7年(1787年)に藩校・育英館を創設し、民政や人材登用など、様々な藩政改革を行なったが、この改革が逆に財政悪化を招き、遂には改革反対派の家臣と対立する有様となった。

このような中で、長男・匡民の早世により、文化15年(1818年)3月4日、養子の政明に家督を譲って隠居したが、その政明がすぐに死去したため、政明の養子・元世を婿養子として跡を継がせた。

天保3年(1832年)10月7日に江戸で死去した。享年72。

系譜

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