『日本の首領』(にほんのドン)は、1977年1月10日に出版された日本の小説で、著作者は飯干晃一。"首領"の読みはスペイン語の"ドン"を由来としている[1][2]。
日本映画では同年に東映で日本公開され、1977年から1978年まで全3作が制作されたヤクザ映画シリーズ。同年1月22日日本公開の#やくざ戦争 日本の首領が大ヒットしたため[3]、続編が決定し三部作のシリーズ作品となった[4][5]。
概要
第一部は山口組三代目組長・田岡一雄と山口組の全国制覇をモデルに、頂点に立つドンと彼の右腕の若頭・地道行雄を中心に[6]、第二部では大阪と東京の二大暴力組織の闘いを、第三部では東西の対立に政財界のフィクサーが加わるという山口組に関わる出来事を集大成した壮大な内容となっている[6][7]。ただし、三部作は現実の事件をいろいろヒントにしているが、山口組がモデルというより、山口組のイメージをベースとしたもの[6]。第二部の経済事件は山口組とは無関係のフィクションも多い[7]。プロデューサーの俊藤浩滋は「『日本の首領』は任侠映画でも実録映画でもなく、いうなれば両方の折衷みたいなシャシン」と話しており、1977年時点で既に確実にネタが行き詰っていた実録路線の、新たな方向性を模索したヤクザ映画といえる[8]。脚本の高田宏治は本作は「"実録やくざ映画版オールスター映画"で、オールスターものはスケールが大きくなるだけでなく、芝居がかったドラマチックなものになるので、実録にとらわれず、原作を土台にしながら、大胆にフィクションを取り入れて脚本を書き上げた。その結果生まれた従来の実録映画にはないピカレスクな匂いを、やくざ映画を観なかった観客が喜んでくれた」などと話している[3]。1982年の『制覇』も本シリーズ同様、山口組のイメージをベースに組織と家庭の内実に焦点を合わせた内容である[9]。
やくざ戦争 日本の首領
ストーリー
関西最大の暴力団・中島組の事務所に、大手紡績会社・アベ紡績常務の島原嘉兵衛(西村晃)が訪れたのは、昭和41年(1966年)秋のことであった。首領である中島組組長・佐倉一誠(佐分利信)に、アベ紡績社長のスキャンダル問題の解決を依頼。その代償として、関西の優良企業グループ百社による親睦会を作り、半永久的かつ定期的な献金を申し出た。企業と暴力団の相互依存。しかし、中島組若頭・辰巳周平(鶴田浩二)は、あくまでも暴力による全国制覇の夢を抱きつづけているのであった。
戦災孤児から佐倉に実娘同然に育てられた養女・登志子(二宮さよ子)は暴力団組長という父親の立場が障害となり青年医師・一宮恭夫(高橋悦史)との縁談が頓挫しかけていたが、島原を仮親に立てて結婚にこぎつける。結婚式には党人派の小野伴水(神田隆)、右翼の大物・大山(内田朝雄)も顔を出す。その裏側で中島組の武力進攻が続く。関東の組織との対立は錦城会と関係が深い大山の政治団体結成の申し出を佐倉が拒絶したことで決定的となる。組員は15,000人を超えるが、辰巳の暴力で対立は深まり、列島は血で染まる。
辰巳の武力闘争への佐倉の反対、信頼していた迫田の自殺、奔放な末娘・真樹子(折原真紀)の麻薬トラブル、組織暴力壊滅を目指す警察の追及などによって、中島組傘下の各組は追いつめられ、次々と解散する。辰巳までも持病の悪化と警察の締め付けから、佐倉を救う唯一の道は解散しかないと覚悟する。佐倉の許しを得ず、辰巳は病床で解散声明を書こうとするが、一宮が辰巳に多量のモルヒネを注射。辰巳組解散を聞きつけた警察やマスコミが病院に押し掛けたのは、辰巳が息を引きとった後だった。『死因は何か?』と訊く佐倉に、一宮は「お父さん、私はファミリーの一員ですよ」と答えるのだった。
出演
- 【大阪・中島組】 (モデル・山口組)
- 【中島組系・辰己組】(モデル・地道組)
- 【中島組系・迫田組】(モデル・柳川組)
- 【中島組系・宮之浦組】
- 【アベ紡績】
- 【大阪・共和会】(モデル・明友会)
- 【岐阜・三浦組】
- 【東京・錦城会】(モデル・錦政会)
- 【高田・野崎組】
- 【横須賀・根津組】
- 【大阪府警察本部刑事部】
- 【横須賀警察署刑事第二課】
- 【政財界】
- その他
- ナレーション
スタッフ
- 企画 - 俊藤浩滋、日下部五朗、松平乘道、田岡満
- 原作 - 飯干晃一(光文社刊)
- 脚本 - 高田宏治
- 撮影 - 増田敏雄
- 照明 - 増田悦章
- 録音 - 中山茂二
- 編集 - 堀池幸三
- 美術 - 井川徳道
- 助監督 - 藤原敏之
- 記録 - 梅津泰子
- 装置 - 吉岡茂一
- 装飾 - 西田忠男
- 背景 - 西村和比古
- 振付 - 藤間勘五郎
- 協力 - 醍醐プラザホテル
- スチール - 木村武司
- 衣裳 - 岩逧保
- 美粧 - 池内豊
- 結髪 - 白鳥里子
- 演技事務 - 森村英次
- 擬斗 - 上野隆三
- 進行主任 - 伊藤彰将
- 音楽 - 黛敏郎、伊部晴美
- 演奏 - 東京交響楽団
製作
- 企画
- 企画は日下部五朗[1][2][10]。1973年に岡田茂東映社長と俊藤浩滋がタッグを組んだ田岡一雄の自伝『山口組三代目』、1974年の『三代目襲名』二部作の映画化実現には日下部も度肝を抜かれたが[11]、プロデューサーとして参加したこの二部作が、田岡組長を二宮金次郎的に、修身教科書的に描きすぎたという悔いが残っていた[1][10]。もっと迫真的・暴露的に権力と暴力が渦巻く世界を見せて、実録といっても末梢神経を刺激するようなものでなく、登場人物を多くして大河小説的な大作を作ってみたいと企画をまとめ岡田社長に提出した[10]。ところが岡田に「もう実録はあかんぞ」と却下された[10]。日下部は実録とは違う球でいきたい、どうしてもやりたいと裏技で東映館主会のボスで、全興連会長の山田敏郎大旺映画社長に頼み込むと「わかった、おれが岡田に言ってやる」といってもらえ無事企画が通った[1][2][10]。山田は城戸四郎が元気な頃は、城戸にぴったりし、城戸が亡くなると岡田にぴったり付き、時の権力者をうまく自分の懐に巻き込んで動かす業界の"裏ドン"であった[12]。「城戸賞」も山田の提唱といわれる[12]。企画はスケールの大きなヤクザ映画であったが[13]、東宝が1976年2月に発生したロッキード事件を題材に『不毛地帯』(1976年8月14日公開)を作ったことで[13]、それまで映画で著名な政治家やフィクサーを扱うのはタブーだったが[13]、「東宝で出来るならウチでも」と[13]、「ヤクザ誕生の背景と、ヤクザを利用していた政治家や財界人を暴く」と『不毛地帯』ばりの内幕ものに変更になった[13]。製作費4億円[14]。
- タイトル
- 『週刊映画ニュース』1976年9月25日号に「1976年11月上半(10月30日~11月16日)『やくざの墓場』(『やくざの墓場 くちなしの花』)『世界最強の格闘技=ザ・プロ空手』 (『世界最強の格闘技 殺人空手』)ここに『日本の首』を入れる予定だったが、これが大作なので1976年1月後半に移した」と書かれている[15]。同時期の『映画時報』1976年9月号では『日本の首領』と書かれているため[16]、『日本の首』の方がミスプリントなのかも知れない。また久しぶりのオールスター総動員映画になったため、シルバーウィーク予定が脚本を練り直し正月第二弾映画製作費2億円を投入と書かれており[16]、当初の製作費を倍増したものと見られる。映画のタイトルは飯干の原作と同じ『日本の首領』のままでいく予定だったが、東京の東映の館主が「わけのわからん題名だ」と言うので[14][17]、岡田が頭に"やくざ戦争"というサブタイトルをくっつけた[14]。これがジャーナリストから「一ぺんに映画が小さくなった」「『仁義なき戦い』の総集編かな」「まったく必要ない」などと酷評された[14][17]。岡田が"やくざ戦争"の前に付けていたサブタイトルは、"暴力ファミリー"であった[18]。
- 原作・脚本
- 日下部は「俊藤の下でやっていたら俊藤流の任侠映画になって駄目だ」と[1]独自に旧知の飯干に、大阪を舞台に和製『ゴッドファーザー』といった趣きの原稿を書いてもらい、俊藤に提出するとOKとなった[19]。またいつものように安全弁のため田岡満にプロデューサーとして参加してもらった[1][10]。三部作全てに飯干が原作としてクレジットされているが、飯干が関わったのは第一部だけで、第二部、第三部は高田宏治のオリジナル脚本である[20]。
- キャスティング
- 日下部は田岡一雄をモデルとする組長役を鶴田浩二で、地道行雄をモデルとする若頭役を高倉健で構想し俊藤に頭を下げて頼むと「まかせておけ」と応えてもらえたが、高倉の出演がなかなか正式に決まらず[4]。何度も念押したが結局ダメになった[4]。高倉は1976年に東映を退社し俊藤の手に負えなくなっており[4]、ヤクザ映画を嫌がっていた[4][21]。やむなく鶴田を若頭にして組長役は最初は三國連太郎の名前が挙がり[22]、監督の中島貞夫が頼みに行ったがけんもほろろに断られた[22]。すると佐分利信はどうかというアイデアを俊藤が出した[19][21]。佐分利はヤクザ映画とは結びつかない大物俳優で「やらないんじゃないか」と予想されたが、日下部が直接佐分利と交渉し[4]、佐分利はマネージャーも兼務していてギャラ300万円で承諾した[4]。中島貞夫の著書やインタビューでは最終的に中島と佐分利が会って長く話し、佐分利が出演を承諾したと話している[21][22]。佐分利の抜擢には俊藤が晩年までそれを自慢していたといわれる[19]。佐分利は何度も撮影をストップさせ[23]、「最近の監督は映像、構図に走りすぎている。お芝居をしっかり撮ればいいんだ」と中島を説教した[23]。鶴田は実録路線に批判的な意見を公言して、一切実録映画に出ていなかったが[19]、1974年の『あゝ決戦航空隊』以来3年ぶりに映画出演した[19]。中島と鶴田は1969年の『日本暗殺秘録』で天皇制の解釈を巡って揉め、以後10年の間撮影所で逢っても頭も下げない仲であったが俊藤の仲裁で仲直りした[21][22]。完全にそれまでのわだかまりは解け、佐分利の扱いに苦しむ中島の擁護に回ってくれた[21]。鶴田は敵の多い人物だったが、一度懐に飛び込むと非常に面倒見のいい人だったという[21]。鶴田の命令通り動く非情冷酷な殺し屋に千葉真一。組織悪を知るインテリやくざに松方弘樹。鶴田の女房役には、佐分利の新興成金家庭と対比的な下世話な女房にするため市原悦子がキャスティングされた[14]。麻薬に走り、色情に溺れてヤケになる佐分利の娘役に折原真紀が抜擢されている[14]。
- 音楽
- 黛敏郎のテーマ曲は、初めて音楽にお金をかけた映画といわれるほど、オーケストラによる本格的なものだった[19][21]。
- 興行形態
- 中島や高田らが、一本立て興行を主張したが、岡田社長が「1時間40分にせい」と至上命令を出して迫り[24][25]、「切ったらわけ分らない」、「一本立ての時代です、一本に予算下さい」などと主張し衝突した[21]。高田は脚本を投げ出しそうになったという[24]。岡田も一本立て興行にしたかったが[25][26]、興行者側から「どうしても二本立てにしてくれ」と抵抗され、二本立て興行にせざるをえなかった[25][26]。二作目の『日本の首領 野望篇』製作発表の席で岡田が「前作(本作)の時に僕が一本立てで公開しようと言ったら、うちの支社長がこぞって反対したんだよ。ところが先般の関東館主会の時に、ある館主さんが『やくざ戦争 日本の首領』を何で一本立てにしなかったんだと言われて、こっちがビックリよ。だってその人だってその時は一本立てに猛反対してたんだからね。これには参ったよ。まあ当たったからいいようなもんだけどね。まあ東映はケースバイケースだが、第二作は一本立てでいく。だから製作費も宣伝費も超大型だ。何も一本立て大作は東宝や松竹だけじゃなく、東映だって作ろうと思えばいつでも作れるんだよ」などとと一席ぶった[26]。映画界も大作一本立ての流れになるし、岡田も早く一本立て大作中心にしたかったが[25]、東映は長年二本立ての量産で大いに稼いできたため[25]、興行サイドは「本数余計に出してくれ」と要望を出してくるし、撮影所の長年やってきた量産体制をどう合理化して、収支を合わせるまで持っていくかでずっと悩んでいた[25]。1977年の東映上半期の期待した番組が次々コケ[25]、第二部の興行成績が第一部と変わらなかったため、岡田が興行者を納得させた[25]。
- 第一部『やくざ戦争 日本の首領』は『毒婦お伝と首斬り浅』(主演:東てる美、監督:牧口雄二)との二本立てだったが、二作目『日本の首領 野望篇』から、東映では長らく続いた二本立て(三本立て)を、大作映画に限り一本立て興行とした[24][27]。角川映画から一年遅れの実行であった[21]。当時の『キネマ旬報』に「東映23年ぶりの一本立て興行」と書かれている[28]。
- 興行成績・その他
- 東映では珍しい完成披露のデモンストレーションが大阪桜宮の太閤園で行われ、関西の東映館主、ジャーナリストら200人が招待された[14]。岡田社長があいさつに立ち、「最近京都で作る映画が関西で当たらないのはジャーナリストが協力しないからだ」などと発言したが[14]、実録映画が下火になっていた東映にとっては久々の大ヒットを記録[3][17]、続編製作が決定しシリーズ化された[4][5]。これを受けて日下部は先の東映館主会ボス・山田からの要求を聞き入れ、彼が後援する明治大学ラグビー部を舞台にした『ラグビー野郎』(矢吹二朗主演・清水彰監督、1976年5月15日公開)を製作したものの、同作は不振に終わった[10]。
日本の首領 野望篇
ストーリー
昭和四十六年、一宮病院を退院した中島組組長・佐倉一誠の盛大な全快祝賀パーティが開催された。構成員四百団体、一万二千人は全盛時にくらべやや減ってはいるものの、あいかわらず全国一の勢力を誇っていた。危機に追い込まれていた組をここまで再建したのは、一宮恭夫(高橋悦史)と松枝四郎(松方弘樹)であった。佐倉の退院を機に中島組の関東進出は急務となり、その第一歩として新組織「桜商事」を設立し、その指揮に松枝が当った。「桜商事」の目的は中央の政財界に強力なコネクションをつけることで、最初の仕事がジャパンシップ乗っ取りの介入だった。これをいち早く察知したのは東京の暴力団の大物、松風会会長・大石剛介(三船敏郎)だった。大石は東京の暴力団を連合する「関東同盟」を結成し、右翼の巨頭・大山規久夫を顧問に迎えた。大山は後藤通産大臣(浜田寅彦)に圧力をかけ、中島組が買占めたジャパンシップの株式の買戻しを強行する。「桜商事」の若宮洋一郎(にしきのあきら)がこの事件の餌食となって殺された。これがきっかけとなって、中島組対関東同盟の抗争は表面化するが、中島組内部では辰巳の死以来空席となっている若頭の地位をめぐって、野心と思惑が入りみだれる。
出演
- 【大阪・中島組】 (モデル・山口組)
- 【横浜・中島組系桜商事(松枝商事)】
- 【加古川・中島組系河元組】
- 【政財界】
- ジャパンシップ(モデル・ジャパンライン/現商船三井前身のナビックスライン)
- 【関東同盟】
- 【その他】
- ナレーション
スタッフ
- 企画 - 俊藤浩滋、日下部五朗、松平乘道、田岡満
- 原作 - 飯干晃一(スポニチ出版刊)
- 脚本 - 高田宏治
- 撮影 - 増田敏雄
- 照明 - 増田悦章
- 録音 - 中山茂二
- 編集 - 堀池幸三
- 美術 - 佐野義和
- 助監督 - 藤原敏之、斉藤一重
- 記録 - 石田照
- 装置 - 三浦公久
- 装飾 - 西田忠男
- 背景 - 西村三郎
- スチール:中山健司
- 衣裳 - 岩逧保
- 美粧 - 田中利男
- 結髪 - 中沢妙子
- 演技事務 - 西秋節生
- 擬斗 - 上野隆三
- 進行主任 - 長岡功
- ファッショングラス提供 - ルソチカ
- 協力 - 東映俳優センター、京都 ブティック ミネ、神戸 クラブ「奈奈」 醍醐プラザホテル
- 衣装デザイン - 芦田淳[29]
- 音楽 - 薫俊郎、伊部晴美
- 演奏 - 東京交響楽団
製作
- 製作
- 『日本の首領』ヒットを受け、1977年3月11日、東映はやくざ映画超大作『日本の仁義』(6月公開予定)、『日本の残侠』(11月公開予定)、『新日本の首領』(来年1月公開予定)を"日本シリーズ三部作"として製作を決定したと発表した[30]。このうち『日本の残侠』という映画だけが作られていないことから、公開時期を考えると本作のタイトルが当初、『日本の残侠』だったと見られる[誰によって?]。
- 当時の併映作品の製作費が5000万~6000万円ぐらいだったので、その分を投入して一本立てのスタイルにした方がいいという意見が前作のときに出て、本作から大作の場合の一本立て興行が始まったと中島貞夫は著書に書いているが[24]、中島は1967年に東映を退社してフリーになっており[31][32]、部外者が東映の内部事情をどこまで知り得るのか分からない[独自研究?]。岡田茂東映社長は業界誌のインタビューで「ウチが大作一本立て主義に方向転換した最大の理由は『八甲田山』(東宝配給)の成功がきっかけだ。橋本プロとか角川プロの両軍団の飛躍的な伸びは正直いって衝撃だったよ。と同時にプログラム・ピクチュア時代の終わりを感じたね。昨年などをみても、邦洋画こみで年間を通じてヒットした作品は12~13本だろう。この傾向は今年も同じだろう。この中に東映作品が何本入るかが課題で、そういう意味では出足の『柳生一族の陰謀』が大ヒットして17億円の配収をあげたのは大きな成果だった」などと述べている[33]。1977年8月25日にあった[34]製作発表の席で岡田は「第一作をはるかに上回るスケールの大作にし、11月一週に堂々一本立て興行する。このため製作費も宣伝費も莫大な金を投入する。とかく東映が暴れないと日本映画界は面白くないし、沈滞ムードになってしまう。この大作で乾坤一擲の大暴れをする」などと一席ぶった[26][35]。
- 飯干の原作は一本目で終わり、スポーツニッポンに連載されていた高田の原作と映画が同時進行で製作が行われた[24]。エッセンスは一本目で使い切っているため、かなりフィクションを入れていく作業になった[24]。デヴィ夫人(演者:金沢碧)のモデルが出るなど、「それまでのやくざ映画にはなかった女たちのドラマを入れた」と高田は話している[36]。本作に描かれた最大のエピソードは、スカルノ大統領を巡るインドネシアの戦後補償であるが、これには山口組は関わっておらず[7]、この仕掛け人は自民党政権や伊藤忠商事に太いパイプを持っていた東日貿易社長・久保正雄で[7][37]、久保は長嶋茂雄や高倉健の後援者でもあった[7][38]。
- キャスティング
- 目玉は三船敏郎の東映初出演。"松竹三羽烏"として大船調メロドラマをホームグラウンドにした知性派スター・佐分利信vs黒澤映画での超男性的な演技で国際的評価を獲得した"世界のミフネ"、ともに日本映画を代表する名優がスクリーン上で対峙する構図の実現は大きな話題を呼んだ[29]。中島貞夫は当時三船プロダクションが経営が苦しく1978年の『犬笛』を三船プロが製作するため、中島が撮りに行く交換条件として、「菅原文太も貸しましょう、代わりに三船さんを」となって話が決まったと話しているが[24]、先述のように中島はフリーの監督であり[31][32]、東映から雇われただけの[独自研究?]監督であり、東映の超大作の主要キャスティングが前記のような部外者の一言で決まるわけはない[独自研究?]。中島は著書等で、岡田社長の東大の後輩で、岡田から東映改革の『切り込み隊長』として期待され[39]、可愛がられていたという気安さもあるのか、関係者がほとんど故人になっているという気安さがあるのか[独自研究?]、岡田の使いとしてやったようなことを端折って全て自分が決めたと書いていると考えられる[誰によって?]。分かりやすい例がNHK大河ドラマ『勝海舟』に於ける松方の代役経緯である。当時の『キネマ旬報』には元々、第一部でキャスティングされたが、映画の公開が変更になってご破算になり、その後、俊藤が三船に何度も会い出演を要請し、1977年7月のモスクワ国際映画祭に岡田社長と三船が同行し、岡田が口説いて出演が決まったと書かれている[40]。この頃、角川映画の大成功で、外部からの映画界進出を歓迎するムードに一変[40]。三船プロを主宰する三船にとっても好ましい状況が出現し、本来の映画製作に乗り出せる、自身も「邦画に積極的に出演する、東映初出演はそのための第一歩だ」と話していた[40]。三船は「東映のヤクザ映画は観たことない。菅原文太は当然名前は知ってるがグラビアで見たくらいだ」と話した[40]。
宣伝
- キャッチコピー
- この日本に首領は二人いらない!
- 首領一族の血が日本を戦略する!
- 全国制覇なくして安眠はない!
- 巨大な野望がついに政財界の奥の院へ……
[41]。
日本の首領 完結篇
ストーリー
出演
- 【大阪・中島組】 (モデル・山口組)
- 【中島組系川西組】総会ゴロ、サルベージ、整理屋、手形のパクリ、麻薬と手広く稼ぐ
- 菅原文太(組長・川西明)大石剛介を撃ったことがあるが車椅子生活に(モデル・山本健一)[42]
- 市川好朗(舎弟・東条進吉)
- 寺田農(宮原商事社長・宮原宏)整理屋、高利貸し。
- 田中浩(瀬川を名乗るパクリ屋・花山七郎)
- 南道郎(信州銀行営業部長名乗るパクリ屋)
- 有川正治(川西組系坂口組組長・坂口富蔵)
- 【関東同盟】 650の関東ヤクザが加盟する表向きは合法組織
- 【政財界】
- 【検察】
- 【大阪府警本部捜査四課】
- 【その他】
- ナレーション
スタッフ
製作
- キャスティング
- 撮影時に佐分利信の体調がよくなく[42]、佐分利を中心とした話が書けず三船敏郎が主演になった[42]。東映の宣材にも「三船敏郎8年ぶりの主演」と書かれた[43]。三船、佐分利に対抗する、その上を行くような人物が欲しいと片岡千恵蔵の名前が挙がり[44]、「御大はヤクザ映画は出ないだろう」という予想に反し「中島貞夫なら出る」と出演を了承した[43][44]。片岡は1972年の『純子引退記念映画 関東緋桜一家』以来の映画出演だった。片岡は二作目で内田朝雄が演じた児玉誉士夫をモデルとする大山喜久夫を演じる[43]。三船、佐分利、片岡のギャラが特に高く、一本立て大作でもサイパンロケが少数でしか行けないほど圧迫した[43]。菅原文太は三部作でそれぞれ別の役柄で登場するが、この完結編でのモデルは山本健一である[42]。三部作の脚本を担当した高田が総会屋の役で端役出演している[42]。
影響
エピソード
- 三船敏郎、佐分利信、片岡千恵蔵が同じ場面で競演した際には、挨拶の順は、1)三船(1920生、戦後デビュー)が二人に挨拶し、2)次に佐分利(1909生、1931デビュー)が片岡に「佐分利でございます」と挨拶して、3)最後に千恵蔵(1903生、1927デビュー)が「おう」と返事を済ませて大物同士の挨拶が済んだとされる[43][44][54]。
- 佐分利はどこのプロダクションにも所属しておらず、マネジメントなど全部自分でやっていた[20]。お金にもシビアで現場に煙草も持って来ず、現場でスタッフや俳優から1本ずつもらう[20]。クランクアップの日に下駄を履いてきて撮影で使ったいい靴を履いて帰る[20]。練馬の農協に全額お金を預けていたため、佐分利がお金を下ろしたら練馬農協は潰れるという噂があった[20]。
参考文献
脚注
外部リンク