有川 正治(ありかわ まさはる、1930年10月13日 - )は、日本の俳優。京都市出身。東映京都撮影所所属。本名同じ。
京都府京都市北区紫竹生まれ。出生前に父親が死去し、養家の「有川」姓を名乗る。1949年、京都府立機械工業学校を卒業。1951年に立命館大学経済学部を中退した後は養父経営の牧場で働いていたが、俳優志望だった甥のマネージャーになるつもりで29歳の時に東映京都撮影所へ入社。甥は外交官を目指して先に俳優を辞めたものの、有川は入社3年目頃から台詞つきの役を与えられるようになり、以降、大柄な体格と強面の風貌を活かして悪役を中心に東映京都制作の時代劇映画や任侠映画、テレビ時代劇などで50年近くに渡って活躍した。
私生活では1970年に結婚、二男あり。兄は柔道漫画『イガグリくん』で知られる漫画家・有川旭一[1]。
テレビドラマでの初レギュラー作品は1965年の結束信二脚本・河野寿一監督の演出による栗塚旭主演、東映京都テレビプロダクション製作の『新選組血風録』で、新選組二番隊組長・永倉新八を演じ、翌年の同じスタッフと共演者による『われら九人の戦鬼』でもレギュラーを務めた。
その後、『新選組血風録』とほぼ同じメインキャストが顔を揃えた1970年の『燃えよ剣』でも河野監督から再び永倉新八役での出演を要請されたが、東映を代表する映画プロデューサー・俊藤浩滋に「電気紙芝居(テレビ)はつまらなかったらスイッチを切られてしまうが、映画はお前の顔が一週間も二週間もスクリーンに映って、それをお客さんがお金を出して見に来てくれるのだから」と、テレビ出演よりもこの時に撮影が重なっていた映画出演の方を優先するように言われてしまう(有川はテレビより映画出演を優先する本社契約だった)。
演技課のスタッフに河野監督への謝罪の伝言を頼んだところ断られ、困った有川は同じ東映京都の俳優仲間で親友の西田良を連れて河野監督の元へ謝りに行き、「西田を何かで使って下さい」と頼んだ。河野監督は「有川は本編(映画)の方の出演が主なので仕方がない」と怒ることなく納得した[2]。
その後、西田良は『燃えよ剣』でレギュラーの新選組十番隊組長・原田左之助役に起用され、半年間演じた。それをきっかけに原田左之助に惚れ込み、以降、原田を主人公に、自ら脚本を書いて自ら演じる一人芝居の舞台に取り組むなど、この時の『燃えよ剣』の原田役が西田の代表作となった。
※年のみは製作が東映