小松 方正(こまつ ほうせい、1926年〈大正15年〉11月4日 - 2003年〈平成15年〉7月11日)は、日本の俳優、声優。本名は小松 豊成(こまつ とよしげ)。
長野県松本市出身[3]。生まれつき体が弱く、3歳の頃に肺炎を患い生死の境をさまよったことがあるという。小学校卒業後、叔父を頼って上京し昌平中学に入学した。卒業後、満鉄の技術員養成所に入るが、結核を患って退社する。1945年(昭和20年)、終戦直前に海軍へ入り、同年8月6日の原爆投下の前日まで広島市にいた[4]。東京の警備隊に転勤となり前夜8月5日、最終列車で東京に向かう。新型爆弾投下をラジオで聞いた場所は、空襲の影響で列車が止まった静岡県掛川駅だった[5]。その後、大蔵省管理局へ転官になり、東京の海軍功績調査部で終戦を迎える。大蔵省時代は役人向けの小さな新聞の記者も担当しており、はじめてのインタビュー相手が当時映画『善魔』でデビューしたばかりの三國連太郎であった。この時の縁で小松は三國が原作・脚本・監督を担当した『親鸞 白い道』に僧侶・宇都宮蓮生役で出演している。大蔵官僚になったものの、周りは東大出身者ぞろいで将来を危ぶみ、せめて大学を出たいと、中央大学専門部法学科に大蔵省の役人のまま入学した[6]。この頃大蔵省の演劇サークルに入り、文化祭で発表した舞台『故郷』にケルレル参事官役で出演した。これが初めての舞台出演となり、演劇の世界に魅了されていった。
1951年(昭和26年)、色川大吉の新演劇研究所に入団。この時、本名の「豊成」を音読みにして「方正」と書いて現在の芸名にした[7]。
1952年(昭和27年)、中央大学専門部を卒業後、大蔵省を辞めて本格的に役者の道を目指した。1953年(昭和28年)、同劇団公演『真空地帯』に大住軍曹役で出演、この舞台は連日満員になるほどだった。1959年に『二十六人の逃亡者』で映画デビュー。この頃大島渚の独立プロ「創造社」に参加、以降大島作品の常連俳優となり、『太陽の墓場』や『絞死刑』、『儀式』などの作品で活躍。また、日本映画界を代表する名脇役として活躍し、『神々の深き欲望』、『心中天網島』などの映画に出演した。いかつい風貌と低音のドスのきいた声が特徴で、独特の低い声で語られる怪談は人気があった。アクの強い悪役・敵役で活動する一方、その演技力は幅広く、『柳生あばれ旅』第12話ではコミカルな道場主、『気になる天使たち』では人情味のある父親(パン屋の主人)など、多彩な役柄を演じた。バラエティ番組『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』のレギュラー出演者としても活躍した。また、アンソニー・クインのフィックス(専属)吹き替えや[8]、『ポパイ』のブルート、『ドランクモンキー 酔拳』をはじめとするジャッキー・チェン主演のモンキーシリーズの師匠役ユエン・シャオティエンなど声優としても知られる。
1972年(昭和47年)、45歳の時に22歳年下の女性と結婚した。仲人は大島渚・小山明子夫妻が務めた。
1982年(昭和57年)8月18日、映画の撮影中に転倒し、頭蓋骨骨折という大怪我を負う。その後も糖尿病、慢性腎不全、直腸癌など数々の病との闘病により映画出演での長い撮影ができなくなったが、それでも役者の仕事を続けた[9]。
2003年(平成15年)7月11日午前9時10分、敗血症のため東京都新宿区の病院で死去、76歳没。
声種はバス[10]。
趣味・特技は将棋、歌[10]。
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